蘇我三代

蘇我氏の邸宅 乙巳の変


裸足(はだし)のまま軽皇子は戸外へ走り出た。しかし甘檮岡の空をまっ黒にくすぶらせ、夕映えを薄ずますぱかり拡がっていたのは、昨日いちにち、蘇我邸を焼き立てた猛煙の、なごりだったのである。
杉木苑子『風鐸』より


蘇我本宗家を襲ったこの突然の事件の経過をあらためて辿ってみよう。

皇極4年6月12日、皇極天皇は大極殿に出御され、お側には古人大兄皇子がひかえていた。中臣鎌子連は、蘇我入鹿の性格が疑い深く、昼夜剣を帯ぴていることを知っていたので、俳優(わざびと)に教え、入鹿をだまして剣を取り上げた。入鹿は笑って剣を腰からはずし、大極殿の中に入って座についた。蘇我倉山田石川麻呂臣は、御座の前に進み出て、三韓(みつもからひと)の上表文を読み上げた。中大兄皇子は衛門府(ゆけいのつかさ)に命じて、一斉に十二の宮門をさし固めこれを通らせないようにする。そして、中大兄は、自ら長槍をとって大極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子連等は弓矢をもって皇子を守った。海犬養連勝麻呂(あまいぬかいのむらじかつまろ)に命じ、箱の中から2振りの剣を、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田(かづらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に授けさせ、「ぬからずに、すばやく斬れ」といった。子麻呂らは水をかけて飯を流し込んだが、恐ろしさに喉をとおらず、もどしてしまう。

倉山田麻呂は、上表文を読み終わろうとするが、子麻呂らが出てこないため恐ろしくなり、全身に汗が流れ出してきて、声も乱れ、手も震えた。入鹿が怪しんで、「なぜ震えているのか」ととがめると、山田麻呂は、「あまりに天皇のお側近いのが畏れ多くて、不覚にも汗が流れて」とこたえた。中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢を恐れ出ていくのをためらっているのを見て、「やあ」というかけ声もろとも、子麻呂らとともに躍りだし、不意をついて剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。鷲いた入鹿は座を立とうとしたが、子麻呂が剣をふりかぶって片方の足に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落し、「嗣位(ひつぎのくらい)においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、ご推察のほどを。」と請い願った。

天皇は、大いに驚いて中大兄に、「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。大兄は、地に平伏して奏上し、「鞍作は王子たちをことごとく滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」といった。

天皇は立ち上がり、殿舎のなかに入られた。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田が、入鹿を斬った。この日は雨が降って、宮廷の庭はにわかにほとばしる水で溢れた。人鹿の屍は席障子(むしろしとみ)で覆われた。

多武峯縁起(談山神社蔵)
多武峯縁起(談山神社蔵)




甘橿丘の家炎上(多武峯縁起 談山神社蔵)
甘橿丘の家炎上(多武峯縁起 談山神社蔵)




甘橿丘東麓 出土土器
甘橿丘東麓の焼け土層から出土した遺物




中大兄は、すぐさま法興寺(飛鳥寺)に入り、砦として備えられた。諸々の皇子、諸王、諸卿大夫・臣・連・伴造・国造など皆がこれに従った。人を遣わし入鹿の屍を蝦夷に賜った。

漢直らは族党を総べて集め、甲をつけ武器を持って、蝦夷を助け軍陣を設けようとした。中大兄は、将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)を遣わし、天地開闢以来、はじめから君臣の区別があることを説いて、進むべき道を知らしめた。高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は、漢直に語って、「われらは、君太郎(入鹿)のために殺されるだろう。蝦夷大臣も今日明日のうちに殺されることは間違いない。ならば誰のためにむなしく戦って皆が刑をうけるのか」と言い終わって、剣をはずし弓を投げ捨てその場を去った。他の賊徒もまた、これにならって散りぢりに逃げてしまう。

翌13日、蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取っ出して中大兄に献上した。『藤氏家伝』によれぱ、蝦夷はその第にあって自らの命を絶つ。この日、蝦夷と入鹿の屍を墓に葬ることと、死を悼み悲しみ泣くことが許されている。


以上が、蘇我本宗家の滅亡をもたらした、いわゆる「乙巳(いっし)の変」の事件の経遇である。大化改新のプロローグとなったこの出来事に対して、私たちの抱いているイメージは、『多武峯縁起』絵巻に描かれた宙をさまよう入鹿の首と天をつく炎、そして飛鳥寺の傍らに立つ五輪の首塚であろうか。けれども、その実際は不明な事柄も多い。1994年の初夏、記録的な猛暑のなかでおこなわれた甘橿丘東麓の発掘調査は、「乙巳の変」の出来事と「甘橿丘の家」についてひとつの手がかりを与えてくれた。



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