過去の時代

臣、安萬侶が申し上げまんねん。

そもそも宇宙のモトはすでにできとって、萌しと形はまだ現れてなかったんやな。名前もないし働きもない。誰もその元始の形を知りませんのや。

せやけど、天と地が初めて分かれて、三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)が創造の始めになって、男女の両性がここで始まって、二霊(伊耶那岐命・伊耶那美命)が万物の親になりましたんや。

こういうわけで、伊耶那岐はんが黄泉国へ行ってまた出てきて、それでお日さん(天照大御神)とお月さん(月読命)が目を洗うときに現れて、海水に浮き沈みして体を洗うときに、ぎょうさん神さんが現れたんやな。

ていうわけで、万物の始めは深ぁて暗ぁてはっきりせぇへんけど、古い伝承の教えから国や島を産んだときのことを知って、元始のことははるか遠いことやけど、先代のえらい人の伝えで神さんらを生んで、人を成り立たせたときのことを知りましたんや。

ほんまに、ようわかりまんねん。
鏡をかけて玉を吐き出して、代々の天皇が皇統を継いで
剣を噛んで蛇を切りさいて、多くの神さんが繁栄した、ていうことを。
神さんらが安の河原で会議をして、天下を平定して、
出雲の小浜で国譲りを談判して、国土をすっきりさせたんやな。

これで、邇邇芸の命が初めて高千穂の峰に天降りして、神武天皇が大和国を巡歴されたんや。
化け物の熊が川から出てきて、天の剣を高倉下から得て、尾のある人が道に出てきて、大烏が吉野に導いたんや。舞を舞わせて賊を討ち払い、歌を聞いて敵を従えたんやな。
また、崇神天皇は夢のお告げで神祇を敬ったんや。それで賢明な君主ていいます。
仁徳天皇は家の煙の少ないのを見て人民を愛撫されたんで、今でも聖帝て伝えられてます。
成務天皇は近江の高穴穂の宮で国の境を定めて開発しておさめて、
允恭天皇は大和の飛鳥の宮で氏姓を正して整えられたんや。

歴代天皇の政治は緩かったり急だったりそれぞれ違って、派手なんと質素なんとの違いはあったんやけど、古い事を調べて教えや道徳が崩れてるのを正しくして、今の状態を見定めて人の道いうんが絶えようとしてるんを補強せぇへんていうことはありませんでした。


古事記の企画

飛鳥の清原の宮に、大和国を支配された天武天皇の御世に至って、
皇太子はんが、天子の資質を備えられて好機に乗じて行動されたんや。
夢の歌を占いで解いて、天皇を継ごうと思われて、夜に川に至って、皇位を継承することを判断されたんやな。

せやけど、天運の開ける時に至ってなかって、吉野山に出家して、人と事が共に集まってきて、東国に堂々と進軍されたんや。
乗り物が急におでましになって山や川を越え渡り、
軍隊は雷みたいに猛威を振るい、部隊は雷光のように進軍されたんや。
武器は威力を現して、兵士は煙のように起こって加勢して、
赤い旗のもとに武器を輝かせて、敵軍は瓦が崩れるみたいに敗れました。
まだ短期間しかたってないのに、妖気が自然に澄みましたんや。

それで、牛を放って馬を休ませて戦争を止めて、大和国に凱旋して、
旗を巻いて矛を納めて、歌い舞って都にとどまったんや。

酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになったんやな。

その政治の道は中国の黄帝を超え、天子の徳は周の文王を上回るほどでしたんや。
天子のしるし〔神器〕を手にして天下を統一して、皇位について八方くまなく統合なさったんや。
陰陽の気の正しさのとおりの政治が行われて、五行の序を整えて、神祇の道を復興して慣わしを奨めて、すぐれた徳を施して、その及ぶ国の範囲を定められましてん。

それだけとちごぅて、英知は海みたいに広くて、古い時代のことを深くきわめて、心は鏡みたいに明澄で、よう前の時代のことをお見通しになったんや。

そこで、天武天皇が仰せになったんや。
「わしが聞いたことやけどな。
諸氏族が持ってる帝紀と本辞が、もう真実と違うて、ぎょうさん嘘を加えてる、ちゅうことやねん。
今の時点でこの間違いを改めへんかったら、何年も経たへん間にそのホンマのとこはきっと滅びるやろな。
これ〔帝紀と旧辞〕はつまり、国家組織の根本で、天皇政治の基礎やねん。
そこでや、帝紀をまとめて、旧辞を詳しく調べて、間違いは削ってホンマのことを定めて、後世に伝えようと思うんや」
て、仰せになったんやな。

たまたま、舎人がおったんや。
姓は稗田、名前は阿礼、年は二十八や。人となりは聡明で、ひと目見たら口で暗誦して、一回聞いたら記憶したんや。
そこで、阿礼に命令して、歴代天皇の皇位継承の次第と、昔からの時代の伝承を誦み習わさせられたんや。


古事記の成立

せやけど、天武天皇が崩御して時代が代わって、後世に伝えるまでには至りませんでしたんや。
拝伏して考えますねん。

元明天皇は、天子の徳は天下に満ちて、天・地・人の三に通じて民を慈しみなさいます。
皇居におって、徳は馬のひづめの進んで行く遠い土地まで包んで、皇化は舟の舳先の漕いで行く海の果てまで照らされました。
お日さんは重なって光り、雲は煙みたいにたなびきます。
連理の枝と、穂が出るめでたいしるしは、史官は記録する手を安めへんし
使いが到着して遠くの国からの貢ものは、宮廷の倉に毎月あふれてます。
名前は中国の夏の禹王よりも高く、徳は中国の殷の湯王より優ってる、て申し上げるばかりです。

そこで、旧辞の誤って違てるのを惜しまれて、帝紀の間違いが混じってるんを〔元明天皇は〕修正しようとなされて、
和銅四年九月十八日をもって、臣、安萬侶に命令して
「稗田の阿礼が誦むところの、天武天皇仰せの旧辞を記しまとめて、献上せぇ」
て仰せられたんで、謹んで、仰せのとおりにこと細かに採り拾いましたんや。

せやけど、上古の時代ちゅうんは言葉もその意味する内容もみんな素朴で、文章を作って句を書き綴ること、漢字で書くとなると、そらもう、困難ですねん。

まったく、訓によって述べたもんを見ると、言葉と意味に一致しません。
全部を音によって書き連ねたもんを見ると、見た目に長すぎます。

こないなわけで、ここに、
ある場合は一句の中に音・訓を交えて使うて、
また一方、事柄によっては全部訓を使うて書きましたんや。
その場合、文脈が分かりにくいのには注を使うて明らかにして、
意味の分かりやすいのには全く注をつけません。
その上、姓の場合、日下を玖沙訶て読んで、
名前の場合、帯の字を多羅斯て読みます。
こんなような見なれた文字は、もとの資料のとおりで改めません。

すべて記述した内容は、天地の開闢より始めて、小治田の御世〔推古天皇〕で終わります。そこで
天の御中主の神さんより下、日子波限建鵜草葺不合の命はんより前を、上つ巻として、
神倭伊波礼毘古の天皇〔神武天皇〕より下、品陀の御世〔応神天皇〕より前を、中つ巻として、
大雀の皇帝〔仁徳天皇〕より下、小治田の大宮より前を下つ巻として、
あわせて三巻を記して、謹んで献上すると、臣、安萬侶がかしこみかしこみ申し上げます。

 和銅五年正月二十八日

正五位上勲五等太朝臣安萬侶  


次の頁へ進む

古事記目次に戻る トップページに戻る