【 御所市 】
沿革
 奈良盆地西南部、金剛葛城山東麓、葛城川・曽我川上流、古代の葛城の地。東北は大和高田市、橿原市、東は曽我川流域をもって高市郡・吉野郡に、南は五條市、西は大阪府、北は北葛城郡に接し、市域中央を葛城川が北流し。曽我川との簡には巨勢丘陵がある。市域には、「古事記」「日本書紀」「万葉集」記載の古代の地名が多い。
 葛城は、飛鳥文化以前の古代史の舞台として、三輪(大王=天皇)王朝と対照して注視されている。
【原始】
縄文遺跡はわずか高野街道に沿う日置池付近から、後期縄文式土器・石槍・石鍬などが出土。弥生式土器は市内各所に散在、とくに鴨都波遺跡遺跡からは土器・木器・石器・竪穴住居・溝土杭などを大量に出土。2000年には御所済生会病院の増築地から古墳時代の空白部分を埋める貴重な資料といわれる「神獣鏡」が発掘されている。
名柄遺跡からは銅鐸・多鈕細文鏡が伴出。古墳では古墳中期の代表的なものが存在し、大量の副葬品も出土している。
【古代】
 「日本書紀」にみえる竹内宿禰の子、葛城の襲津彦の居住した地として知られ、早くから外来文化の影響を受けたと考えられている。
 奈良時代、葛城・金峯修験の開祖役小角の誕生の地としても知られている。文献によると、寺社の多くもこの役小角のかかわりをもっていると思われるものが多い。
【中世】
 すでに平安時代、南都諸社寺等の勢力の進出をみ、とくに摂関家の権威や春日社の神域をたのんで、興福寺の支配勢力が伸び、荘園や免田が設定されていく。南北朝末期には倶尸羅氏の名も見られる。
【近世】
 文禄検地の実施によって、近世村落の成立をみている。慶長八年には三十八村となっているが、文禄の頃にはまだ郷村的村落が残り、元禄郷帳では六十八村と倍近い数にのぼっている。御所における支配状況は安定せずに、御所藩・新庄藩、郡山藩・櫛羅藩・幕府領・旗本領等が入れ替わり立ち変わりして入り組んでいた。
【近現代】
 明治維新後、大区・小区の制、戸長役場制度を通じて自治組織が編成される過程で、合併や改称が相次いだ。
 明治22年町村制の施行に伴い、葛上郡では御所村が単独で御所町となり、七か村で掖上村、九か村で吐田郷村、二十二か村で葛城村、五か村で秋津村、十か村で葛村、八か村で櫛羅村ほか七か村で組合村となり、忍海郡は十五か村で忍海村が成立した。葛上郡は忍海郡と合併、南葛城郡と改称した。
 大正四年二月一日、櫛羅村外七か村組合村は村制を施行、大正村となる。
 昭和期に入っては地名の改変はあまり見られなかったが、第二次大戦後の町村合併促進法に基づき、編入合併が促進され、昭和三十三年三月三十一日南葛城郡御所町・葛上村・葛村・大正村を廃し、その区域をもって御所市の誕生となった。
【地名の伝承】
  1. 葛城
  2.  古代の地名。「日本書紀」神武記に「葛城」の地名の伝承を載せている。
        (この記事は地名に付会して、奈良町時代に作られた説話である。)
    同書に、
    「又高尾張邑に土蜘蛛有り。其の人と為り身は短くして手足長く、侏儒と相類たり。皇軍葛網を結いて掩襲ひ殺しつ。因りて其の邑を改め号けて「葛城」と曰ふ。」
    とみえる。奈良朝の「風土記」「日本書紀」「古事記」などにみえる地名の伝説については、その起源は曖昧であるが、地名の発生が古いという査証と考えられる。
    この書にいう「高尾張邑」とは、土蜘蛛の伝説と合わせ考えると、旧吐田郷村の葛城の丘陵をさしているのであろうと思われる。
    「高」は高地を、「尾張」は山の尾根・丘の尾根が張り出してる丘陵。
  3. 「鴨」は賀茂、迦毛、甘茂、加茂とも書く。いわゆるカミ(上・神)の転呼で、部族名から地名に用いられたと考えられる。
    加茂大御神⇒賀茂朝臣・賀茂県主・鴨部叔・鴨県主・鴨君⇒大和葛城の鴨・山城の鴨・播磨、安芸、佐渡、美濃、三河の賀茂郡など全国的に分布。
  4. 掖上
  5. 「ワキカミ」は、「日本書紀」神武記にみえる。「掖上頬間丘」、同推古記に「掖上池」の名がみえる。御所市平坦部の総称であったらしく、鴨神信仰によって広域に波及した古代地名であろうか?
    ワキカミの地は、清水湧出する「ワキス」に近く、そこに鎮座する神の地とする説。
    ワキカミは、「大神」に対する区別呼称で、分神の意で、ワカカミの義であろうとする説。等々の諸説有り。
  6. 秋津洲
  7.  アキツシマは、「日本書紀」神武記31年の条に「因登掖上頬間丘、国状廻望日雖内木綿進迩国、如猶蜻蛉臀咄、之有秋津洲之号云々」とあるように、奈良朝時代から実在した地名である。
  8. 御所町
  9.  神奈備とは、神の鎮座しますところ、すなわち御室である。大神はもちろん雷・竜田などすべて御諸山といった。現在の三室山が神奈備であった。文化5年「山陵記」に、「三室、三は本御と為すもの、これを尊ぶの称なり」とし、「山陵考」にも「孝昭宮といふ額掲げたる御宮あり、瑞籬あり」としている。特に「瑞籬あり」としているのは古い祭祀形式が残っていたからであろうと考えられる。この三室に御諸の文字を用い、御諸の音訓みが「ゴショ」となり、「ゴセ」となったのであろうか?
     慶長郷帳で「御所三室トモ」として現れ、御所村は御所藩領。寛永六年に御所藩はいったん幕府領となるが、同十六年郡山藩領となる。延宝七年再び幕府領に編入される。慶長五年から寛永六年にかけて御所藩の陣屋が置かれたが、陣屋跡は現在不明であるが、葛城川から東に残る外堀川・内屋敷・東外屋敷・西外屋敷・的場・馬場・代官町の地名からほぼ推測できる。この中に円照寺を中心とする寺内町と代官町及び正栄寺南側の町並みがあり、これが御所藩の城下町として組織されたものらしい。
     寛文十一年以降、御所町と公称されることもあった。
  10. 柳原村
  11.  旧忍海郡に属し、御所町東北方の平地の村。慶長郷帳には福島兵部領とある。寛永十六年郡山藩領、延宝七年には新庄藩領となり明治維新に及ぶ。新村・今城村・出屋敷村を支郷としていたが、これらの村の支配関係は同様である。
  12. 北十三村・南十三村
  13.  十三とは、おそらく「ツツミ」の義であろうといわれている。「和名抄」の忍海郡内の郷名に「津積」というのがある。そこから考えるに、葛城川の長堤に所在するために起こった地名と考えられる。
     慶長郷帳には「十僧村」とみえ、元和郷帳には「十三村」、寛永郷帳には「十楚村」と書く。元禄郷帳に初めて「南十三村」「北十三村」がみえる。南十三村は葛上郡に、北十三村は忍海郡に属していた。両村ともに近世初頭は新庄藩領。以後しばらくは幕府領を経て、郡山藩領となり、延宝八年以降は新庄藩領となった。
  14. 竹田村
  15.  慶長郷帳では御所藩領であったが、寛永六年に御所藩が廃藩となって幕府領となる。同十六年以降郡山藩領。延宝八年新庄藩領に編入、明治に至る。
     天明四年四月十九日ー二十五日葛城川の大洪水があり、古図によると「荒所東辻村十二丁、竹田村六丁、薑村領十三丁、御所領六丁」とあり、被害は大きかった。
  16. 松ノ本村
  17.  御所町の北西に隣接。東に下街道、西に高野街道がそれぞれ南北に貫通する。寛永郷帳に初見。元和ー寛永期に御所町から分離独立。当時は郡山藩領。延宝八年新庄(永井)藩領に編入、文久三年からは陣屋を櫛羅村に移したことから櫛羅藩領となり、明治に至る。
     明治初年に「東松本村」「西松本村」に分かれた。
  18. 倶尸羅(櫛羅)村
  19.  一に「倶尸羅」とも書いた。永井氏が櫛羅と改字したと伝える。暦応乃安養寺大般若経には「倶尸羅郷」と墨書されている。郡誌によると、「天神ノ森より一連の松並木曲屈たる列をなし、麓倶尸羅に達す。之れ登山の坂道の両側にあるものにして、松の列は平カナの「くしら」の字形をなせりといふ云々。」とあり。
     また、櫛羅の瀧上方に寺屋敷と呼ばれている安位寺跡がある。ここの地形がインドの仏蹟クチラ城の地形に似ているために起こったともいわれている。
     古くは戒那山への主要参詣道にあたり、この道に沿って東から新屋敷・角田・庄屋口・大港・猿目・山開の諸垣内がある。
     そのほかに、神奈備の地、日本地名学上からの分析等があり、いずれも確定的でない。慶長郷帳では御所藩領であったが、寛永六年桑山貞晴の改易で御所藩が廃藩となって幕府領となる。同十六年以降郡山藩領。延宝八年新庄藩領に編入、文久三年からは陣屋を櫛羅村に移したことから櫛羅藩領となり、明治に至る。
  20. 小林村
  21.  当村は少なくとも寛文四年までに倶尸羅村から分離独立。「寛文朱印留」に郡山藩領として「忍海郡の内小林村」とある。元禄郷帳には倶尸羅村枝郷とし、新庄藩領とあるが、同帳の忍海郡内にも「上村之支郷」とあって、村域は両郡に跨っていたと思われる。
     明治十三年忍海郡小林村は葛上郡に編入され、両村は合併した。
  22. 楢原村
     「和名鈔」に「栖原」の郷名がある。応永25年伴田庄注進文に「葛上郡33里16坪4反小ナラハラ」「35条2坪5反ならはら」とあり、「太平記」にも楢原の地名がある。播磨風土記には、柞の木の生育に因み地名の発生した逸話を載せている。 また、葛城山の緩斜面であることから、ナラ(平)とも考えられる。
     慶長郷帳では御所藩領。一時幕府領となり、寛永十六年以降は郡山藩領。延宝七年再び幕府領となる
  23. 園池
  24.  大字楢原の「園池」は、朝廷への供御に供する蔬菜果実を栽培するところであった。宮田が穀類を、苑池が野菜果実の類を供給するところであり、園池では家禽の類も飼育していた。
  25. 三室村
  26.  三室は御室の義で、山稜をさしていったものであろうと思われる。応永二十五年の吐田庄注進文に「三室殿」の人名がみえる。慶長郷帳には「御所三室トモ」と御所に含まれており、御所藩領となっていたが、元和初期までに分離独立。寛永十六年以降は郡山藩領。さらに延宝八年以降新庄藩領となり、廃藩に至る。
  27. 宮戸村
  28.  宮戸は、一言主神社の神戸=宮戸であった。宮戸は御(ミ)屋(ヤ)戸(ト)であり、当地はいわゆる葛城の高宮の故地であって、そこへの出入り口と解釈するのが妥当であると考えられる。慶長郷帳では御所藩領。寛永六年幕府領に編入。延宝八年以降新庄藩領となり、廃藩に至る。
  29. 森脇村
  30.  当村西方に一言寺道が通り、森脇の森は吐田の大森で、応永二十五年の吐田庄注進文にも「一言主宮北、吐田大森」の地名を記す。
     慶長郷帳では御所藩領。寛永六年幕府領に編入。寛永十六年幕府領に。延宝七年に再び幕府領となり、明治に至る。
  31. 豊田村
  32.  吐田氏の本拠地で、「吐田神社」の社名のみが現存する。拠城の吐田山城は西方の関屋村城山にあり、平城は豊田村にその跡が残る。吐田は墾田の義。近世初期には備中国松山藩領で、のち天明六年幕府領となり。明治維新に至る。
  33. 寺田村
  34.  近世初期には備中国松山藩領で、のち天明六年幕府領となり。明治維新に至る。葛上郡内にもう一つの寺田村があり、明治十年五月十日、東西に分け当村を西寺田村と改称した。
  35. 大井田村
  36.  天保郷帳では多田村となり、「古ハ大井田村」と注記する。近世初期には備中国松山藩領で、のち大和国内にある小室藩領の内二千石の所領を分封したので、大井田村は旗本小堀氏領となった。
  37. 名柄村
  38.  古くは、長柄に作り長江と読む。「古事記」に長江曽都比古の名があり、漢人を桑原・佐味・高宮・忍海に住まわせた人物であるが、長江曽都比古もこの長江に住した。この長江の江が柄に変じ、長柄となり、音読してナガラと読み、名柄の文字を用いたのであろうと考えられる。南北に走る名柄街道と東西に走る水越街道の交差点に開けた街村で、金剛山登山口の宿場町として繁栄した。
     近世初期には備中国松山藩領で、慶長郷帳では「名柄村」とみえる。天明六年近江国小室藩領から幕府領となる。明治元年名柄村南里方は南名柄村と改称した。
  39. 真志(増)村
  40.  この地は早くから開けたところで、「和名抄」の大坂郷の地といわれる所で、「日本書紀」天武天皇9年9月9日の条に「馬を長柄杜に看す」とあり、マシは馬司・馬飼の義で、古代牧の存在したことが考えられる。慶長郷帳には「魔志村」、元禄郷帳に「真志村」、享保郷帳に「摩志村」、天保郷帳には「増村」とみえる。
     近江小室藩領時代には代官所があった。天明六年以後は幕府領となる。
  41. 関屋村
  42.  金剛山東麓、水越川に沿う渓谷集落。金剛山・葛城山の鞍部水越峠を経て河内国に通ずる水越街道は大坂道や竹内街道にも劣らぬ重要な古道で、古代から中世にかけて修験者が往還した。近世初頭には魔志村に属し、寛永ー元禄に分離独立。近江小室藩領、天明六年以後は幕府領となる。
  43. 佐田村
  44.  慶長郷帳では御所藩領と備中国松山藩(元和元年以後は小室藩)領の相給。御所藩
     領は寛永六年に廃藩のため幕府領、同十六年に郡山藩領、延宝七年に幕府領。小室藩領は寛文四年以前に真志村領から高分して合村、井戸村となった。
  45. 井戸村
  46.  近世初期には佐田村・真志村に属し、近江小室藩領。寛永十六年ー寛文四年簡にそれぞれ高分けして一村を構成。。元禄郷帳には「真志村佐田村之枝郷」と注記。天明六年以降幕府領、明治維新に至る。
  47. 南郷村
  48.  応永二十五年の吐田庄注進文には「ミナミサト」と書く。吐田庄南端に位置。慶長郷帳では御所藩領。寛永六年御所廃藩により幕府領。同十六年郡山藩領。延宝七年に再び幕府領。
  49. 東持田村・西持田村
  50.  近世当初には一村で、応永二十五年に吐田庄注進文には「モチタ」、慶長郷帳には「餅田村」と書く。寛永六年御所廃藩により幕府領。同十六年郡山藩領。延宝七年に再び幕府領。「寛文朱印留」では持田村とあり、元禄郷帳には二村になっているので、東西に分村したのは、寛永ー元禄に分離独立したのか。
  51. 鳥井戸村
  52.  近世初期には、尾野村に属していた。寛永十六年から元禄十三年にかけて分村した。元禄郷帳では幕府領で「林之枝郷」と注記する。
  53. 林村
  54.  中世・小野郷の中心地。小野郷とは舟路・五百家・鳥井戸・林・僧堂・朝妻の六村の総称。慶長郷帳には「尾野村」。寛永郷帳には「小野」。小野村は御所藩に属した。
     寛永六年御所廃藩によって幕府領。同十六年郡山藩領。この頃から元禄十三年にかけて分村した。延宝七年に幕府領となり明治維新に至る。
  55. 小殿村
  56.  別名今北。高野街道と栗阪峠を経て吉野に至る道との分岐点に所在する街村。小殿村と西の下茶屋村は、西方の河内国から水越峠を越えて吉野に至る最短距離上に立地し、中世以来往還が盛んで、下茶屋村には茶屋があったという。
     慶長郷帳によると、桑山重晴の大和国における唯一の養老料として充てられた村である。慶長11年桑山重晴の死後、一万六千石が次男の御所藩主元晴に与えられた中に含まれ、寛永六年御所廃藩によって幕府領となる。同十六年郡山藩領。延宝七年に再び幕府領。
  57. 栗阪村
  58.  延久二年の興福寺雑役免帳の葛上郡の今木庄の所在として栗阪がみえる。寛永郷帳に所見。郡山藩領。延宝七年に幕府領となり明治維新に至る。
  59. 五百家村
  60.  近世初期には、尾野村の内。元禄郷帳には「五百家村(いうかむら)と訓記。明治維新に至るまで幕府領。
  61. 舟路村
  62.  天保郷帳には「船路村」と書き、付近に船尾・船倉の俗称地名がある。近世初期には小野郷に属し、元禄郷帳では「五百家村之枝郷」とあり、小野郷からまず五百家村が分離独立、次いで船路村が分離したのだろう。明治維新まで幕府領。
  63. 僧堂村
  64.  近世初期には、尾野村に属し、元禄郷帳では「五百家村之枝郷」とあり、明治維新まで幕府領。
  65. 朝妻村
  66.  「日本書紀」仁徳天皇二十二年正月の歌に、「朝嬬の避介の小坂」とある朝嬬の地とされる。同所天皇九年九月九日の条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を名柄社に看す」とみえ、当村南方の小字御所段をこの時の行宮跡と伝承する。
     寛政頃の地図には「御所堰井堰」の地名を記す。外来文化の定着した先進地であった。近世初期には尾野村に属し、元禄郷帳では「五百家村之枝郷」とあり、明治維新まで幕府領。
  67. 北窪村・西北窪村
  68.  近世初期には極楽寺村・高天村とともに一村の北窪村で御所藩領。寛永六年御所廃藩によって幕府領。同十六年郡山藩領。この頃から元禄期にかけて四村に分村した。延宝七年に幕府領となり明治維新に至る。
  69. 極楽寺村
  70.  近世初期には北窪村。御所藩領。幕府領。郡山藩領。幕府領と変遷する。元禄郷帳・天保郷帳では「北窪村之枝郷」と記す。
  71. 高天村
  72.  集落は標高450m前後の平坦地にある。
     万葉集に「葛城の高間の草野領りて標刺しましを今ぞ悔しき」と詠まれ、名所として、中世以来、文人墨客が多く来村。金剛山の山の口として近世まで繁栄。南北朝時代、南朝方として活躍した高間氏があり、俗称城の岡はその城跡と伝える。近世初期には北窪村に属し、元禄郷帳では「北窪村之枝郷」と記す。当時すでに幕府領。
     明治初年に金剛山の女人禁制が解かれるまで、数軒の旅宿があったという。
     「葛城の高間の桜咲きにけり立田のおくにかかる白雲」(新古今集)
  73. 伏見村
  74.  寛永六年御所廃藩によって幕府領。同十六年郡山藩領。延宝七年に再び幕府領となり明治維新に至る。当村には横井戸が多く、地下水が豊富なところである。
  75. 神通寺村
  76.  「神通寺」とは、鴨神の一垣内の名である。延久2年興福寺領荘園、石摩庄の中に「神通寺田4反」と記され、「和名抄」葛上郡の部に「神戸」の郷名が見える。こうしたことから、「神通寺」は、神通寺の所在地であり、古代地名であったことになる。
     慶長郷帳には「さひこう村」とあり、元和郷帳には「佐味村」。初めは御所藩領。寛永六年御所廃藩によって幕府領となる。同十六年郡山藩領。延宝七年に再び幕府領。
  77. 桜井村
  78.  近世初期には佐味郷に属し御所藩領、寛文ー元禄に分離独立。元禄郷帳・天保郷帳では「神通寺村之枝郷」と注記す。明治維新まで幕府領。
  79. 福西村
  80.  近世初期には佐味郷に属し御所藩領、寛文ー元禄に分離独立。元禄郷帳・天保郷帳ともに「神通寺村之枝郷」と注記す。明治維新まで幕府領。
  81. 水野村
  82.  近世初期には佐味郷に属し御所藩領、寛文ー元禄に分離独立。元禄郷帳・天保郷帳ともに「神通寺村之枝郷」と注記す。明治維新まで幕府領。明治13年南佐味村と合併して西佐味村と改称した。
  83. 東佐味村
  84.  「万葉集」に「やすみしし、吾が大君、神ながら、神サビせすと・・・」、「とぶさ立て、船木きるといふ、能登の嶋山、今日見れば、木立しげしき、幾世神備ぞ・・・」、「かしこくも、定め給ひて、神サブと、磐隠ります」、「石上振乃神杉神備而」とあり、サビは神々しい状を意味する古語であったことから、神奈備の神々しい所という意味か?また、佐比を作り、祭ったところという説もある。佐比とは、本来、鋤などの刃物を意味するものと考えられることから、佐比持神・鋤持神の名があることと関係するとも考えられる。近世初期には佐味郷に属し、御所藩領、元禄郷帳には「神通寺村」とあり、神通寺村の枝郷として東佐味村があり、幕府領。
  85. 蛇穴村
  86.  享保の「大和志」には、「佐羅氣属邑一」とあり、応永二十五年の春日文書によると、「葛上郡三十四条六里、サラケノ堂前、九坪丁ノ内五反左近尼御前殿、妙法、東ヨリ三十一反神主サラケ、東ヨリ五十一反才三郎サラケ・・・」と記している。
     このサラケとは、蛇穴のことであり、「サラ」とは大和方言では「新」をいう。から考えれば新開地、新来地等の意味であろうと思われる。に加えて、蛇なわ祭や行者伝承等のヘビ信仰との関わりから、「蛇穴」の文字を充てたのであろうか?
     元和郷帳には「さらけ」と記し、「寛文朱印留」には「蛇穴村」とみえ、元禄郷帳には「蛇穴(さらぎ)村」の訓注がみえる。
     慶長郷帳では新庄藩領、のち御所藩領、寛永六年に幕府領、同十六年に郡山藩領、延宝七年に再び幕府領。
  87. 茅原村
  88.  別記「茅原」の項を参照
     茅原村は、近世初期には玉手村に属し、「寛文朱印留」には郡山藩領に属すとあり、この頃までに分村独立していた。元禄郷帳では旗本桑山氏領と幕府領。
  89. 富田村
  90.  慶長郷帳・元和郷帳ともに「とひた村」とあり、新庄藩領。天和二年廃藩により幕府領に編入。
  91. 池ノ内村
  92.  慶長郷帳では新庄藩領、天和二年廃藩により幕府領に編入。
  93. 室村
  94.  「和名鈔」郷里部に「牟婁」と記している。ムロの地名起源には諸説あるが、原義として「窖」であるとしている。ムロとは、土を掘り、その上に屋根を設けた家屋―ムロヤのことだろうか?分類方言辞典は、「山中の樹木の茂り、森になっているところ」と記している。また、一説には、ムロはタムロの義で、「群集する」、「群れる」から、「むら」を意味するとも言われており、結局「ムロ」は家屋かと思われる。
     ミムロの例から考えると、ミ(御)=敬称、ムロ(室)=神の宿るところと解していいのではないか。さらに、室には宮山古墳など古墳が多いので、石廓の義とも解されろとも考えられる。寛永頃旗本桑山氏領、寛永十三年幕府領に編入され、同十六年に郡山藩領、延宝七年に再び幕府領。
  95. 本馬村
  96.  柏原の北側に位置する本馬丘は、古名を「ホホマオカ」といった。この「ホホマ」が「ホンマ」と転訛したと考えられる。
     近世初期には玉手村の内で、新庄藩領。「寛文朱印留」には郡山藩領とみえるから寛文頃までに分村したと見られる。のち延宝八年から永井氏領知行地となり廃藩置県に至る。
  97. 柏原村
  98.  「柏原」は、柏の樹の密生地であった。今でも地下数尺の所に柏の巨樹が埋没しているところがある。ところから生まれた地名であろうか?
     慶長郷帳では新庄藩領、天和二年廃藩により幕府領に編入。文政九年高取藩を経て廃藩置県に至る。
  99. 玉手村
  100.  「記紀」に「玉手丘陵」の地名がみえることから、古代の地名と考えられる。
     一説には、徳川末期までは、満願寺村という集落があり、現・満願寺前を「玉田」といった。この玉田は葛城襲津彦の孫・玉田宿禰の居住地であった。
     この地について「書紀」仁徳記40年の条に、「故れ其の地を納めて死を赦したまう。其れを以て其の地を号けて玉代(たまで)と曰う」とある。
     また一説には、「書紀」雄略記には、いろいろの職名が記されているが、玉手は玉作部に因縁を持つ地名であろうという説あり。
     さらに、玉井出の転訛したとする説。等々あって、定説が定かでないが古代地名であることには違いない。
     近世初期には新庄藩領、寛永郷帳では郡山藩領を経て明治維新に至る。
  101. 原谷村
  102.  慶長郷帳では新庄藩領、天和二年廃藩により幕府領に編入。文政九年高取藩を経て廃藩置県に至る。
  103. 今住村
  104.  新庄藩領、御所藩領、幕府領を経て、寛永十六年から郡山藩領。延宝七年により再び幕府領に編入。文政九年高取藩を経て廃藩置県に至る。
  105. 古瀬(巨勢)村
  106.  「コセ、コシ」の地名は、越えるところの意であろうという説がある。これから見ると確かに、この古瀬も大和の国中から吉野宇智への超える途中にある。しかし、この地は古代豪族巨勢氏の本拠地でもあり、南大和の重要な古代文化圏を形成したところである。当然のこととして考えられるのは、この巨勢氏に因むものであろうと思う。慶長郷帳では新庄藩領、のち御所藩領、寛永六年に幕府領、同十六年に郡山藩領、延宝七年に再び幕府領を経て明治維新に至る。
  107. 樋野村
  108.  「樋野」は「イブリ」と読む。徳川時代には、樋野坂村と飯降村の二か村があったが、これが合併して「樋野」の文字を用い、「イブリ」の字音を残したのである。
     慶長郷帳には「比野村」とあり、新庄藩。天和二年から幕府領。
  109. 奉膳村
  110.  慶長郷帳では新庄藩領、のち御所藩領、寛永六年に幕府領、同十六年に郡山藩領、延宝七年に再び幕府領を経て明治維新に至る。
  111. 朝町村
  112.  慶長郷帳では「あさ町郷」とあり、新庄藩領から幕府領となる。寛文十六年に郡山藩領、延宝七年に再び幕府領を経て明治維新に至る。
  113. 重阪村
  114.  慶長郷帳には「部阪村」とあり、御所藩領。寛永六年の廃藩により幕府領となる。寛文十六年に郡山藩領、延宝七年に再び幕府領を経て明治維新に至る。
     近世初期一時荒廃したが寛文年間に離散民を集めて、再び村を再興したものとみられる。新田は重阪新田と称し、永年高取藩の預かり所で享保十一年重阪から分村。

【自然】

葛城山 御所市櫛羅字山開
 この山は、古くは「戒那山」またの名を「篠峰」とも称し、役行者の初会の修行の地として「幽趣多く俗塵少なき」を讃えられ、山居修道の士が登山修練した。
 標高・海抜959.7m、傾動地塊をなす褶曲による造山で、地質は片状花崗岩よりなり、標式的には断層崖の急峻な山岳である。
 隣の金剛山と同様に急傾斜、砂質・礫質で堆積土が浅薄な地形・地質である。そのために標高200mを越えると畑地、林地、草原地が多くなっている。また溜め池もこのあたりに集中している。
 山頂には、天神社・竜王の泉などがあり、付近一帯にはブナの原生林がある。山頂西方は一帯のススキの原を成し、360度の展望にはすばらしいものである。
 この葛城山は、春は花、夏は避暑、秋は月とススキ、冬は雪と霧氷、雪・月・花を四季にわたって楽しめる山として多くの観光客を集めている。
 とくに奈良盆地が雲海に隠れる冬の早朝の景観は、かなり寒いが実に見応えがある。
 昭和40年に葛城山ロープウェイが開通。
 この年から山頂の観光地化が進められたが、その3年後、真竹や熊笹など竹類の花が咲き、因ってすべて枯れてしまった。すると。今まで笹に覆われていた山ツツジが葛城山の南西斜面に一度に表出した。
 その株数は当時想像を超える多さであり、一目100万本と称し、観光の主柱としているだけでなく、その保護にも努め、登山者の目も引くようになった。
 その後、国民宿舎や研修センターの整備とともに、このツツジの群生地をツツジ園として整備し、観光に寄与するようになった。
     

 山ツツジ群生発見の逸話
 
5月のとある日に、国道24号線を五條から奈良行きのバスを走らせていた運転手が、風の森にさしかかって、左前方に見える葛城山を見ると、山火事かと思えるほどに真っ赤になっている。「すわっ山火事」と思い、通報したというのである。それによってこの群生を発見したというのである。
 ところが、実際には風の森からはツツジの群生地は見えないのである。ツツジの群生地発見に纏わる話としてはおもしろいので、そう語られているようである。
 
 また葛城山は、「かたくり」の群生地でもあり、可憐な花が観光客を楽しませている。しかし、心ない登山者によって荒らされるので、全面的には公開していない現状にある。すでに、笹百合・リンドウ・いかり草などは、この山ではほとんどみることができなくなった。
 この山は「金剛・生駒国定公園」の一拠点であり、山頂を北から南に「ダイヤモンド・トレール」と称されるハイキングコースが通っている一方、下駄履きででも登れる山として老若男女が楽しめる大事な山である。
天神社
 祭神は国常立尊を祀る小社がこの天神の森の中にある。いにしえからこの地はブナの巨木が被い茂る森として、神聖にして侵すべからざる所として里人に守られてきた。いわゆる自然の恵みを守る聖地・聖域である。
金剛山 御所市
 標高・海抜(三角点)1112m、最高点1125m、古くは葛城山・高天(高間)山とも呼ばれ、山頂部は分水嶺を越えて西斜面までも奈良県に属している。
 古くは葛城修験道の道場ともなっていた。今は葛木神社を祀っている。
 頂上付近にはブナの原生林があり、展望も雄大である。昭和32年には隣の葛城山と共に「金剛・生駒国定公園」に指定された。
 金剛山地の東側は階段断層をなし、盆地に対して三角切面を示してほぼ南北に一直線に走っている。
 金剛山の必従谷はV字をなし、河川はいずれも急流で浸食が進んでいる。全体として急傾斜、砂質・礫質で堆積土が浅薄な地形・地質は概ね葛城山と同様である。
 まず山頂には、葛木神社・転法輪寺(金剛山寺)などがあり、古今の記録によると金剛七坊(鎌倉末)、脇寺六坊(弘和のころ)と称された宿坊が建てられ大いに賑わったようである。つまり昔から金剛山も信仰の山として、また修験道の修行の霊場として、多くの人が登っている。
 また、南北朝時代には、数々の政争が、この山を舞台として繰り広げられ、今に至って史跡となっている。
 この金剛山も葛城山と同様に、春は花、夏は避暑、秋は月とススキ、冬は雪と霧氷と四季にわたって楽しめる山として多くの登山者を集めている観光地である。
 金剛山麓は、葛城山とともに複合扇状地が発達しており、この扇状地に「郷」「荘」(小野・高宮郷、神戸荘、佐味荘、吐田郷など)と呼ばれる集落が成立してきた。
 この地は縄文・弥生の遺跡も多く発見されている。
櫛羅(くじら)の瀧 御所市櫛羅字山開 
不動寺から安位川沿いに葛城山へ登る山道の途中に、二つの瀧がある。一つ目(下)が、尼が瀧」(現・櫛羅の瀧)、二つ目(上)が「行者の瀧」(現・二の瀧)と呼んでいる。
 役行者がはじめ下の瀧で修行していたが、母が行者を慕って一緒に修行しようと同行したので、行者は女と一緒では修行できないと言って、この瀧を母に譲り、自分は上の瀧で修行することにしたということから、これらの名が付けられた。 なお、大峰登山を行う行者は、まず吉祥草寺に詣で、必ず役行者が修行したこの瀧の水を浴びてから、戒那聖天の加護を祈願することを例とした。 この瀧の水を浴びると、不動明王の功徳によって、脳病に効き問われている。 弘法大師が帰朝後、修行のためにこの瀧を訪れた時、ここが天竺の「クチラ」に似ていたので、「供(倶)尸羅」と名付けた。ところが、江戸後期に永井信濃守が領主となり、「屍を共にする」というのは不吉であるとして、「供尸」を「櫛」に改めた。
鶯宿梅 御所市高天
 高天彦神社の前にある。昔、高天寺の小僧が若死にしたので、その師匠は嘆いた。すると、庭の梅の木に鶯が来て、
 初春のあした毎には来れども、あはでぞかえるもとのすがたに
と鳴いたという。
 それからはこの梅を「鶯宿梅」という。「古今秘抄」には孝謙天皇の御字とある。
祈りの瀧 御所市関屋
 役行者が、葛城山へ修行に登るとき、この瀧の水で身を清め、衆生済度を祈ったと伝えられる。水越峠への手前・途中にあり、清水として遠くからも水汲みに来る人が絶えなかったが、最近は水質が悪くなったようである。
風の森 御所市鴨神
 東西佐味の間に所在し、旧路の峠の頂にあるのが「風の森」である。葛城地方は、西南の風が強く、その風の平穏を祈るために、小祠が祀られている。風は農村生活に密接な関係を有し、風の方位、強弱には深い注意をはらっている。各地の風祭りも同様であろうが、ここに風の神を祀り、防風林を作ったのが「風の森」といわれることになったのであろう。
 峠の標高は、約280mで、大和・紀伊を結ぶ古代からの交通の要所。大和盆地の南端に位置すると峠で、風の神を祀る社がある。国道24号線の西側に「風の神=級長津彦、級長戸辺」を祀る志那都比古神社がある。
 「風の森」が文献に現れるのは、貞和4(1348)年1月、北朝方の足利尊氏の家来高師直による、高天寺・伏見寺の焼き討ちからで、元禄11(1698)年の「葛城名区考」には、葛城三十八景の名所として「風の森雪樹」の詩を載せている。
 その後、歴史の表に登場するのは、幕末の天誅組の事件からである。
 天誅組中の学者・伴林光平が天誅組に参加するために、この峠を越す時に詠んだが、有名な夕雲の歌である。
 夕雲の所絶えをいづる月を見む風の森こそ近づきにけり
 さらに吉田松陰が、天誅組騒動の10年前に新庄町を経てこの風の森を越したが、途次に次の詩を残している。
 風 雨 侵 蓑 笠( 風雨蓑笠を侵し )
 残 寒 粟 生 肌( 残寒粟肌に生ず )
 春 半 和 洲 路( 春半ば和洲の路 )
 花 柳 未 入 詩( 花柳未だ詩に入れず )
 獨 行 況 生 路( 独り行く況や生路 )
 墨 子 数 泣 岐( 墨子たまたま岐に泣く )
大日池(古瀬)
 昔ある人が、大日如来のお姿を拝みたいと、一心に祈願していた。するとある日、夢のお告げがあって、「水泥の池に来い」といわれた。
 その人は夢で教えられたとおり池まで行くと、池の中から大蛇が出てきて、忽ち大日如来の姿に変わった。しばらくして消えてしまったが、それからこの池を大日池という。近くに大日如来を奉った金剛寺があったが、今は廃寺になっている。
神木(古瀬)
 水泥の春日神社にある一本の木から、さくら・つばきなど、五・六種の木の枝が出ている。地元では神木としてしめ縄を張り。人々は触らないことにしている。
屏風岩(樋野)
 むかし、蛇山に赤茶色の丸い、槌ん子という大蛇が住んでいた。横槌ほどの太さがあった。その大蛇を祀ったのが屏風岩である。
九百九十九谷(朝町)
 千谷あると、大蛇が出るというので、一谷だけを隠した。そこをかくし谷といい、そこに蛇が隠されているという。
神社
 御所市内には、式内社(延喜式神名帳にある神社)17座、うち大社が12座・小社が5座ある。次のとおりである。
 大社
 鴨都波八重事代主命神社2座 並名神大、月次、相嘗、新嘗
 葛木御歳神社1座 名神大、月次、新嘗
 葛木坐一言主神社1座 名神大、月次相嘗)、 新嘗
 巨勢山口神社1座 名神大、月次、新嘗
 葛木水分神社1座 名神大、月次、新嘗
 鴨山口神社1座 名神大、月次、新嘗
 高天彦神社1座 名神大、月次、相嘗、新嘗
 高鴨阿治須岐託彦命神社4座 並名神大、月次、相嘗、新嘗
 小社
 多田神社1座 鍬靱
 長柄神社1座 鍬靱
 大穴持神社1座
 葛木大重神社1座
 大倉比売神社1座 一名雲櫛社
 大和の式内社には、「坐」のつく神社が多いが、この「座」は鎮座地を示しているのである。就中、この葛城の地(葛上・葛下・忍海)には「葛木」を冠する神社が8社ある。これは全国的にも珍しいことである。
 このことはこの「葛木山」の霊を受けていることを語るものであり、この地方が他とは異なり、神奈備地帯の代表的な地であったことを物語っている。
 しかも、うち4社がこの御所にあることは葛木の重鎮・本貫であることになる。
 もう一つは、神社名に神名を採用しているものが多く、地名を採用している神社が少ないことである。すなわち、多田、長柄、高天の三社で、他の八社はいずれも神名である。しかも後者は神位も社格も高いものが多い。これは上代の葛城の國が「神雄国」たる性格を持っていたからであろう。
 名神=社格に一つで、昔、神社のうちで、尊崇が厚く特別の待遇に預かるように選ばれた神々。延喜式神名帳には306坐。臨時祭式では285座を載せている。
 名神祭=昔、国家に大事があるたびに、諸国の名神に臨時に奉幣使を遣わして祈願・奉賽をしたという祭。「名神大」とはそれを行った大社。「並」のつくのはつね日頃から国家の無事を祈願した大社である。
 相嘗=(あいんべ)古代、11月の卯の日に、その年の新穀を諸神に供え、諸神と天皇とが共に饗宴を行う祭。山城・大和・河内・摂津・紀伊の諸社に、幣帛を奉る祭儀。
 月次=陰暦6月と12月の11日に、神祇官に百官を召集して行われた神事。中臣氏が祝詞を宣り、忌部氏が伊勢神宮を始め全国の主要な神々に幣帛を班ち、国家の安泰と天皇の福運を祈る祭儀。もとは月毎に行われるべきものであったので「月並み」の名がある。
 室町時代に廃絶したが、明治五年に再興した。
 新嘗=(にいなえの変)新穀を諸神に捧げて神を祭り、自らも食べて、その年の収穫を感謝する神事。特に宮中では大嘗め祭を行う年を除いて、毎年陰暦の11月中のの卯の日に行われる儀。
鴨山口神社 御所市櫛羅字大湊
祭神大山祇神大窶貴命(オオヒルメニムチ)御霊大神国常立命
 大山祇神ほか三神は、重要文化財に指定されている。
本殿春日造檜皮葺8尺×7尺
 拝殿の両側から塀でもって、本殿を取り囲んでおり、外からは本殿の屋根が見えるだけである。
拝殿5間(9m)×2間(3.6m)瓦葺
神像大窶貴命坐像、御霊大神坐像の二体は、立派な神像でがあり、重要文化財に指定されている、
境内社八幡神社春日神社市杵島比売神社
 境内には多くの境内社があり、多くの石燈籠や狛犬がある。
 大和国には、「延喜式神名帳」に見える山口社が十四座あるが、そのうち葛上郡の鴨山口神社とあるのが本社であるとされている。式内の大社で格式が高い。神社東南部、小字天田から昭和25年に、人物文様のある高さ45cmの銅鐸が出土している。
駒形大重神社 御所市楢原字山口
祭神滋野貞主命ほか一座不詳
本殿春日造檜皮葺5尺4寸×6尺1寸
境内社八幡神社春日神社市杵島比売神社神名神社
 「大和神社神名帳」によると、本社は、「延喜式神名帳」にある「葛木大重神社」を駒形神社に合併して、現在のように祀られたとされている。
高天彦神社  御所市高天
祭神高皇産霊神市杵島姫命菅原道真
本殿3間×1丈三間社明神造り明治10年の建築にかかる。
境内社春日神社天満神社三十八社
 八幡神社(市杵島神社、御霊神社、出雲神社
由緒神話高天原の伝承地、葛城族の古社。高天彦というのは、タカミムスビノ神の別名であろうといわれる。
 金剛山の別当の葛城氏の祖神である。初めは白雲峰を神体とした。
 奈良時代の終、光仁天皇の宝亀十年(779)神封4戸が充てられる。
 平安朝になると、平城天皇の大同元年に4時の幣が奉献される。
 仁明天皇の承和六年に従六位。
 清和天皇の貞観元年に従二位に昇叙。四度の官幣にあずかる。
祭日10月15日祭典に供える餅は、牛の舌餅という。
 10月13日供え餅を搗きが行われるが、その時に使う水は、五條の栄山寺前の水を汲んで来て蒸し釜に入れる。
葛木水分神社 御所市関屋字大原
祭神天水分神天水分神
本殿春日造6尺5寸
拝殿3間×1.5間
境内社春日神社天満神社市杵島神社三十八神社
 御霊神社出雲神社
由緒大和の国には古くから吉野・宇陀・都祁・葛木の四水分社があり、この水分社はその一つである。
 朝野(ちょうや)の尊信厚く、貞観元年(859)正月二七日、正五位下に叙せられ、同八年八月九日に幣帋使を遣わし、風雨を祈らせた。延喜式内の名神大社で、祈年、月次、新嘗の祭には案上官幣に預かることになっていた。
 大和の水分神社の中でも、最も水分らしき所にある神社として有名。。
長柄神社 御所市名柄
祭神下照姫命
本殿一間四方春日造、檜皮葺、円塗(県指定の文化財)
 本殿は県指定の文化財である。天井絵は極彩色で見事である。
創祠年代不明。天武天皇9年9月9日の条に、「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を名柄社に看す」と記述されている。
 名柄街道と水越街道の交差点に位置する神社で、地元では姫の宮と称し、「延喜式」神名帳にみえる。
 社殿の西にある手水屋は、朝原寺から移したものということである。
葛木御歳神社 御所市東持田
祭神大歳神御歳神高照姫命
本殿七尺×九尺
拝殿4,5間×1.5間
社務所2間×1.5間
境内社味鋤高彦根神社高皇産霊社一言主神社事代主神社
 神皇産霊社天雅彦神社雅日女神社天照皇大神社
由緒鴨族の名社で、稲作の神を祀る。高鴨(上鴨)鴨都波(下鴨)とともに中鴨社としても有名。本社は、穀物を司る神を祀った神社で、「延喜式」に葛木御歳神社とある。
 称徳天皇の天平神護元年、神戸13戸を充てられる。
 文徳天皇(平安期)仁寿2年、従二位に昇叙。
 清和天皇の貞観元年に従一位に昇叙。水害などがあると奉幣されている。
葛木坐一言主神社 御所市森脇字角田
祭神事代主命幼武尊
本殿1丈6尺5寸×9尺5寸
境内社八幡神社天満神社市杵島神社稲荷神社抜戸神社住吉神社奥宮
由緒「いちごんじ」さん、「いちごん」さん」、「いちこんじ」さん等と呼ばれ、古来から、尊崇厚く、一言で願いをきいて下さるという信仰は今も強く、熱心な信者が多い。「延喜式神名帳」の葛木坐一言主神社が、ここであって、文徳天皇嘉祥三年(830)正三位、清和天皇貞観元年(859)従二位を授けられ、一条天皇正暦五年(994)には幣帛を奉り、疫病の退散をお祈りになっている。伝教大師も入唐の折に本社に祈っている。
みもの本殿の前面に目通り約3mの銀杏の巨樹が、高さ約20mに聳えている。この銀杏は、高さ3m付近の所から気根(俗にいう銀杏の乳)が垂れ下がり見応えがある。この銀杏の木やそこにやどる木はみものである。特に秋がいい。
 古くは参道には、松の木があり、先の大戦中に松根油を採取した櫛形の跡形が残っていたが、松の木は悉く枯死し、今は杉並木に変わっている。
 境内に蜘蛛塚がある。
伝承一言主神に関するもの
 @雄略天皇が葛城山で狩りをしているとき、この神が天皇と同じ姿で現れ、天皇が驚き「お前は何者ぞ」と問いかけたところ、「我は善事悪事を一言で言い放つ神であるぞ」と申され、天皇はひれ伏し、その後共に狩りを楽しみ、神は久米川まで天皇を送ったということである。(記・紀)
 A雄略天皇が葛城山で狩りをしているとき、雄略天皇と狩りのことで言い争いとなって、一言主神は四国の土佐に流され、その後に許されて葛城の高宮付近(現在地)に祀られたという。(続日本記)
 B葛城の怪人と言われた役行者が葛城山と吉野の金峯山の間に岩橋を架けるため、諸神を集めて架橋工事をさせたところ、一言主は顔が醜く、蛭は顔を見られるので夜しか働かず、そのため橋は完成しなかった。役行者は怒って近くの小川のそばの大木に一言主を縛り付けてしまったという。(今昔物語)
 松尾芭蕉に関するもの
 @松尾芭蕉がこの地を旅したとき、弟子の万菊丸と名柄に泊まり、村人から一言主の話を聞き、翌朝早くこの一言主神社の前を通り、竹の内村の千里の実家に立ち寄っている。その時の様子を「笈の小文」の中で、「葛城山の麓を過ぐるに、四方の花は峯々は霞わたりたるあけぼのの景色いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと人の口さがなく世に言い伝えまつれば、
 『 猶見たし花に明けゆく神の顔』と詠んでいる。
高鴨神社 御所市鴨神字捨篠
 鴨族の氏神を祀る名社で、多くの伝承を持つ古社。境内には氷室池があり、さくら草の収集でも有名。
 本社には大般若経六百巻(鎌倉時代)、十六善神画像、千体仏画像、高鴨社祭礼訳書之事、その他古文書等を多数所蔵している。
祭神阿治須岐高彦根命ほか
本殿流れ造檜皮葺唐破風付4間半×4間天文12年の建造
 室町時代の代表的神社建築である。重要文化財の指定
若宮若子神社には、天御勝姫命、塩治彦命、猿津彦命の三神が祀られている。
境内社八幡神社一言主神社猿田彦神社金刀比羅神社聖神社稲荷神社東神社細井神社大山神社春日神社雷神社市杵島神社八坂神社西佐味神社抜戸神社牛瀧神社佐味護国神社
由緒本社は、佐味宮、捨篠社、神津賀茂社とも呼ばれ、出雲国造神賀詞に、大巳皇命の御子アジスキタカヒコ命の御魂を葛木鴨神の神奈備の坐させて皇孫命の近守の神と奉る神社にあたり、その祭りは古く皇室と関係が深いと伝えられる。アジスキタカヒコネ命は大国主命の第一子で、迦毛大御神ともいう。すなわち鴨の神である。
 孝昭天皇の御代に神封、神階等、神殿が創られる。
 称徳天皇の天平神護元年、土佐地20戸を充てられる。
 同二年、大和伊予地33戸充てられる。
 清和天皇(平安初期)、従一位に昇叙。
 後醍醐天皇の時に、名神大社に列せられる。
 続日本紀天平宝宇八年十一月の条に、高鴨神社を土佐から迎えて祠らしめたことが記されている。
 鴨族といわれた人々は、政争には関わりたがらず、農耕の民として神を祀り、旺盛な開拓精神をもって、子孫を全国に分散させて行った。賀茂と称する地名が全国に28例あり、とくに山城の国葛野(かどの)に移り住み、その地に祀った賀茂神社(上賀茂社・下賀茂社)は、平安時代の皇室から尊崇され、現在でも全国的に有名である。
氷室
 鴨神に「氷室」「氷室道ノ下」という地名がある。氷室とは氷を貯蔵するところである。鴨神の「氷室」は高鴨の神の鎮座まします浄域を選んで設けられたものであろうか?今なお、同地には横穴式の井戸が夥しく存在し、蔵氷の池としても格好の地域であったのだろう。
秋津島宮蹟 御所市室
 記紀に、孝安天皇の宮室を、「葛城の室の秋津島の宮」と著している。現在の室の あたりである。後に日本の国号となった「秋津嶋」の名は、このころ発生したものかも知れない。
 この宮蹟に指定している地に接して、葛城族を再興した竹内宿禰の墳墓だといわれる室の大墓がある
鴨都波神社 御所市御所
 「鴨の宮」とも称せられ、御所及び近隣五か村の氏神として尊崇せられた。
 葛城賀茂神社ともいう。
祭神積羽八重事代主命下照比売命建御名方命大物主櫛瓱玉命
 事代主命は、大国主命の御子、朝廷では八神の一柱として鎮魂の祭りに預られる。崇神天皇の御代大賀茂祇命に勅して初めて葛城邑賀茂の地に社をたてて祭らしめられ、加茂君の氏を賜った。
 下照姫命は、高照姫命ともあるが、異名同神で、古事記に「大巳貴神娶辺津姫生一男一女、児都味歯八重事代主神・妹高照姫命云々、次娶高志沼川姫生一男児建御名方命」とある。
神殿流造唐破風千鳥破風付3間×1.5間
拝殿4間×4間神饌所3間×2間
絵馬殿6間×2間神輿庫3間×2間
社務所6.5間×3間
境内社大巳貴神社粟島神社抜戸神社火産霊神社稲荷神社
 猿田彦神社天満神社笹神社八阪神社
由緒・ 「大和志料」によると、崇神天皇の勅により、太田田根子命の孫・大賀茂都美命が、葛城の賀茂に事代主命を奉斎し、賀茂の君の氏を賜ったと伝え、大神神社の別宮とされている。
 ・ 事代主命とは、国譲りの神話の中で、出雲国の首長の大巳貴命(大国主命)に代って、国譲りを決定した神である。しかし、この神はなぜか「出雲風土記」には登場しない。おそらく、鴨族の神として農耕のために葛城川の近辺に祀ったのではないかと、鳥越越三郎氏は説明している。
遺跡(別途)
御所市内神社一覧
鴨都波八重事代主命神社(御所)積羽八重事代主命、下照比売命、建御名命、大物主櫛命
鴨山口神社(櫛羅)大山祇神、大日霊貴命、御霊大神、国常立命
駒形大重神社(楢原)滋野貞主命、ほか一座(不詳)
葛木坐一言主神社(森脇)事代主命、幼武尊
長柄神社(名柄)下照姫命
葛木水分神社(関屋)天水分神、国水分神
御霊神社(増)早良親王、百川親王、他戸親王
天満神社(東名柄)菅原道真
多太神社(多田)太田田根子命
吐田神社(豊田)若年神
高鴨阿治須岐託彦命神社(鴨神)味須岐高彦根命ほか
葛木御歳神社(東持田)大歳神、御歳神、高照姫命
葛木神社(高天)一言主大神、
春日神社(佐田)天児屋根命
八幡神社(伏見)応神天皇、天照皇大神、誉田別命、天児屋根命
高天彦神社(北窪)高皇産霊命、市杵島姫命、菅原道真
住吉神社(南郷)上筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯比売命
高木神社(井戸)武竈槌命、軽津主命、天児屋根命
八幡神社(室)誉田別命
笛吹神社(条)邇邇祇命
春日神社(池之内)天児屋根命
市杵島神社(池之内)市杵島姫命
天満神社(富田)大倭帯日子国押人尊、菅原道真
野口神社(蛇穴)神倭伊波礼毘古命、日子八井
追着神社(玉手)阿治須岐高彦根命
春日神社(玉手)天児屋根命
熊野神社(茅原)伊邪那美命、速玉男命、大事忍男命
住吉神社(南十三)表筒男命、底筒男命、息長足姫命
厳島神社(柏原)市杵島姫命
国見神社(原谷)邇邇杵命、田心比売命、 天児屋根命
神武天皇社(柏原)神倭伊波礼毘古命
賺間神社(柏原)吾平津媛命
孝安天皇神社(玉手)大倭帯日子国押人尊、菅原道真、渡会春彦
大名持神社(朝町)大巳貴命
巨勢山口神社(古瀬)伊弉諾(伊邪那岐)命、伊弉冊(伊邪那美)命
春日神社(戸毛)天児屋根命
天安川神社(新田)市杵島姫命
金刀比羅大権現社(新田)大物主命
大倉姫神社(戸毛)大倉比売命
天安川神社(重阪)市杵島姫命
応神天皇社(重阪)誉田別命、市杵島姫命、表筒男命、底筒男命、息長足姫命
卯神社(奉膳)大物主命
天安川神社(樋野)市杵島姫命
八幡神社(古瀬)誉田別命、仲哀天皇、神功皇后
大倉姫神社(古瀬)大倉比売命
御霊神社(稲宿)国常立命、天常立命
三十八社(今住)葛木三十八社神
嘉太神社(今住)少彦名命
笙の宮春日神社(柳原)天児屋根命、天香具山命
日吉神社(北十三)大山咋命

御陵

掖上博多山上陵 「孝昭天皇神社」 御所市三室
祭神観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)
 第五代天皇とされている孝昭天皇は、曽我川と葛城川の中間、御所市街から東南1kmの掖上の地に池心宮を定めた。そして、尾張族(葛城山の中央部に大和の豪族として住んでいた=笛吹のあたり)の首長の娘を娶った。このことによって葛城族の版図は北へ拡がることになる。
日本武尊白鳥陵御所市冨田
 円墳を日本武尊命陵として、明治31年に指定。
野口神社  汁掛け祭り御所市蛇穴
祭神神倭伊波礼毘古命(神武天皇)日子八井命
 蛇穴(さらぎ)の汁掛け祭りは、五月五日に行われる端午の節句の野神を祭る野口神社の行事である。
 蛇穴には12の班があり、二つの班が組となって6年毎に祭りをとり仕切る頭屋を務める仕組みとなっている。
 頭屋は5月5日の祭典終了後に、頭渡しを受けて、1年間頭屋を務めるのである。
 頭屋が回ってくることになった班では、その中心となる頭屋を決める。その任にあった家では、野口神社の御神体である木彫の竜、神社が描かれた掛け軸が床の間に祀られる。持ち回りの文書も1年間保存される。
 頭屋では毎朝、水・米・酒・榊・塩などを供え、1年間御神体をお守りする。また頭屋垣内は1年間宮守りをする。当番を決めて野口神社の境内を毎朝掃除する。1月の初詣での参拝者の暖を設けること、御神酒を振る舞うこと、そして10月4日の秋祭りの世話をすることは頭屋の務めとなっている。
起源伝承
 ◇昔、蛇穴が市部村と呼ばれていた頃に、この村に長者が住んでいた。長者の名前は野口小平といった。その長者には美しい娘がいた。この娘は長者の家の前を毎日通る役行者を恋い慕った。しかし、行者はそれに取り合わない。娘は行者への執心から蛇体と化して行者を追いかけた。村人はこの蛇を見て大いに驚いた。折りしもその日時は5月5日の昼時である。田植えの昼飯時、田圃で働く人々のために味噌汁が運ばれていた。驚いた村人は、蛇に味噌汁をかけたという。蛇は近くの井戸(泉という説もある)に逃げ込んだ。これが汁掛け祭りの始まりであるという。
 村の名前を蛇穴と改めたのもこの時であるという。
 ◇野口長者の奉公人であった一人の女性が、田植えの昼飯に熱い味噌汁を働く人々に出した。あまりに熱かったので男たちは怒り、その味噌汁を彼の女性にかけてしまった。顔に熱い味噌汁をかけられた女性は、井戸に逃げ込み蛇体と化したという。
姫宮大倉姫神社(戸毛字西浦)
祭神大倉比売命
本殿春日造方二尺五寸
拝殿3間×1,5間
由緒姫宮は、昔、洪水で巨勢から神社が流れてきたので、拾い上げて祀ったのが始まりといわれている。女神であるといわれている。
卯の宮(奉膳)
由緒卯神社を俗に「卯の宮」と呼んでいる。昔、今木の神社が流れてきたので、拾い上げて祀ったのが始まりといわれている。
川合八幡神社(古瀬字川合)
祭神大倉比売命
本殿春日造方二尺五寸
拝殿3間×1,5間
由緒ヒキアイモチと八朔。10月9日、大きな座蒲団位のカマスを作り、それに餅を包み込んでおく。夕方になって、宵宮が始まると神前で相撲が始まり、これが終わると、いよいよヒキアイモチの行事となる。そこで先に用意していた餅を包んだカマス(ゴクツ)に松明でこぶし大の穴をあけ、中の餅を奪い合う。うまく取り出しても横取りされることもある。これを繰り返すが、確保した餅を素速く頭上に捧げた者が自分のものになり、誰もそれを奪い取ることが出来ない約束になっている。この餅を妊婦が食べると安産間違いなしというので、希望者が多いという。
神武天皇社  御所市柏原字屋舗
祭神神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワヒコノミコト)
本殿流れ造4尺×3尺
造営天保4年(1833)9月正遷宮の棟礼あり
拝殿5間(9m)×1.5間(2.7m)
境内社火産霊社、厳島社、ホングワラ社がある。
みもの 境内にはイチョウ、アラカシ、タラヨウ、ケアキなどが見られ、とくにケアキが主体。柏原の地名は付近一帯に柏が密生していたことを示している。
 地下4〜5mの層には柏葉の埋没層がある。
玉手丘上陵「孝安天皇神社」御所市玉手字宮山
祭神大倭帯日子国押人尊(おおやまとたらしひこくにおしひと)菅原道真渡会春彦
本殿流れ造六尺五寸×七尺
拝殿四間半×二間入母屋造棧瓦葺き
境内社が稲荷神社、白鳥神社、金刀比羅神社、内宮・外宮
 孝昭天皇は、在位83年(BC 475/1/9〜BC 393/8/5)、年齢114歳という。また、孝安天皇は、在位102年(BC 392/1/7〜BC 291/1/9)、年齢137歳という、ともに驚くべき長寿であったとされている。
 天皇号使用以前の大王号の時期を含めて、天皇の地位についた人物が全部で何人になるかは、学問上確定できない。「古事記」「日本書紀」が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在と認めがたいものや、実在に強い疑いのある人物が多い。
 現在、皇統譜で神武天皇を第1代とし、今の天皇を125代としているのは、学問と関係なく公的決定にすぎない。
 議論はともかくとして、伝承・説話の類として受け止めておく以外に方法はなかろうと思う。

古墳・塚等

経塚 御所市櫛羅字猿目
 金剛山中を中心に、法華経塚がある。役行者が「法華経」一部八巻二十八品を書写させ、品毎に葛城の秘所に奉納したという塚である。
 (品(ほん)=仏典の中の、章節にあたるものをいう。)
 櫛羅の猿目には、櫛羅経塚(葛城第二十三経塚)があり、そこには「薬王品」が納めれている。塚の上には五輪塔が建てれれており、傍らには天文十九(1550)年の五輪塔地輪部と、同時代の石仏がある。
 また、「ほけきょう塚」と刻まれた宝暦五(1755)年の石標もある。
参考
 @関屋の集落の東方、旧道で金剛山に登る山道がある。
 この道を少し登ったところに大田和地蔵がある。そこに「嘱累品」を納めたという塚(葛城第二十二経塚)がある。
 A金剛山の沸出岳の鳥居付近に「神力品」を埋めたという塚(葛城第二十一経塚)がある。
 B鴨神の西方、金剛山へ登る旧道の途中に石寺跡がある。そこに「常不軽菩薩品」を埋めたという塚(葛城第二十経塚)がある。
 この経塚からさらに上手、次のバス停・猿目橋を北に約100mいったところにも経塚があった。
 道路新設工事でたまたま発見されたもので、埋蔵品は橿原考古学研究所に保存されている。この経塚も、葛城二十五経塚の一つかと思われる。
山伏塚(戸毛)
昔、山伏が来て、戸毛の酒屋の主人と尺八の吹き比べをして負けたので、橋の近くで切腹した。その山伏をまつったのがこの塚だと伝えられている。
金の鑵子(古瀬)
 古瀬字川合の十二社権現を俗に森さんという。神殿はなく御神体は一つの石である。その下に金の鑵子を埋めてあるという。祭日は毎年十月十五日に行われる。
雲雀ケ塚(古瀬)
 古瀬字大石にある塚である。奈良に都があった頃、大宮人がこの村で雲雀の鳴き比べをさせた。すると負けた雲雀は血を吐いて死んでしまった。その雲雀を埋めたのがこの塚であるという。
権現堂古墳(樋野)
 御所市立葛小学校の北方にある。樋野の氏神=天安川神社の境内にある。南に羨道を有する横穴式石室であるが、羨道が埋もれ、石室の奥壁が破壊していて、いわゆる古墳の裏側から出入りしていることになる。
 石室には、左右六個の縄かけ突起があり、室内にはくりぬきの石枕が造り付けてある。この石室と枕の位置から、被葬者は南枕で葬られていた。
水泥双墓(水泥)
 この古墳は、巨勢街道に面した丘陵の東斜面に築造された横穴式石室を持つ古墳で、全長10.77m、玄室の長さ4.55m、幅奥壁部で2.25m、入口部で2,22m、高さ推測2,5mとなっている。
 従来「水泥古墳」、「今木双墓」と呼ばれ、羨道のある刳り抜き式家形石棺の縄掛け突起に六弁の蓮華文の彫刻があることによって著名な古墳となっている。
黄金の埋蔵(稲宿)
 字塔の奥に塔があり、近くにみつばうつぎ(菩提樹)がある。この木の根本に黄金千枚が埋めてあると伝え、「金が欲しけりゃ稲宿へござれ、みつばうつぎのねにござる」という俗謡が残っている。
腹痛塚(朝町)
 この塚に触ると必ず腹が痛くなるという。この付近には多くの塚があるが、他は皆盗掘されているのに、ここだけは触られていない。
森さん(新田)
 ガンマクという藪の中に森さんというのがある。正月十五日の朝、区民が集まって藁を焚き、餅を焼いて食べると、一年中歯痛が起こらないという。
安楽寺の塔婆(稲宿)
宗派高野山真言宗高野山光台院末(元は法相宗)
本尊十一面観世音菩薩立像
 不動明王、大威徳明王、降三世明王、
 軍茶・利明王、金剛夜叉明王
本堂重層入母屋造桟瓦葺
 十六善人画像、大般若経、塔婆(本市随一)
慈眼地蔵(古瀬)
 古瀬字川合にある石の地蔵さんである。片方の目が欠けてふたをしているところから「慈眼地蔵」といい、眼病に霊験あらたかであるという。蘇我入鹿の墓だという塚の横にある。
 「ありがたや慈眼地蔵は塚の横おさめまつるは尊かるらし」の詠歌がある。
小便地蔵(新田)
 新田口の地蔵尊を俗に「小便地蔵」という。小便の近い者には霊験あらたかであるという。もとは字地蔵というところに奉ってあったが、ここに移したものである。
 後に一度山の入り口に移したことがあったが、村に疫病が流行して、お地蔵さんのたたりだというので、もとの場所にかえした。
はしか観音(古瀬)
 水泥の阿吽寺の奥の院の観音さんは、はしかに霊験があるという。それでこの村の子は、はしかにかかったことがないという。
六地蔵御所市櫛羅字猿目
 鴨山口神社から、葛城登山道を約300m西方、猿目という集落、葛城古道との交差するところに、花崗岩の巨石がどっかと腰を据えている。この巨石に「六地蔵」が彫られている。室町時代に彫られたものである。
 向って右から順に、日光菩薩(天上道)、除蓋障菩薩(人間道)、持地菩薩(修羅道)、宝印菩薩、(畜生道)、宝珠菩薩(餓鬼道)、壇陀菩薩(地獄道)と列んでいる。
 六地蔵とは、六道のそれぞれにあって、あらゆる衆生を苦悩から救済するという六種の地蔵菩薩である。それぞれの道によって印相や持ち物が異なっている。
 日光(にっこう)菩薩(天上道)=仏の住む世界。天上にあって、左手に宝珠、右手に経文(または両手で手香炉)を捧げている。衆生を天上に導くという
 除蓋障(じょがいしょう)菩薩(人間道)= 人間の世界。左手に宝珠、右手は施無畏の印を結び(または両手で数珠)を持ち、衆生を苦悩から救済するという
 持地(じじ)菩薩(修羅道)=常に帝釈天に戦いを挑んでいる悪神の世界で、左手に宝珠、右手は梵筺施の印を結び、(または合掌)し、衆生を苦悩から救済するという
 宝印(ほういん)菩薩(畜生道)=悪業によって導かれた畜生の世界にあって、左手に宝珠、右手は如意を持ち、衆生を苦悩から救済するという
 宝珠(ほうしゅ)菩薩(餓鬼道)=生前の悪業で、常に飢えと渇きに苦しむ世界にあって、左手に宝珠、右手は与願の印を結び、衆生を苦悩から救済するという
 壇陀(だんだ)菩薩(地獄道)=現世に悪業を重ねた者が、死後にその報いによって責め苦を受けるところにあって、左手に宝珠、右手は与願の印を結び、衆生を苦悩から救済するという
 この地域は、古代から中世にかけて、安位川上流からの土石流に度々襲われ、また兵火による災禍等を受けている。
 この六地蔵石も、土石流によって流れ来たったものと思われる。その時には多くの人々が亡くなっであろう。その供養のために村人が彫ったものと考えられる。
 また、通常地蔵尊は西向きの安置はあまり考えられないが、ここの場合、山の平安と衆生の済度を願って西向きとされたのではないかと思う。

金石文・彫像等

櫛羅「町石」と不動尊石仏 御所市櫛羅字山開
 旧道・不動寺の手前、約300mの所に石仏・不動尊を祀る堂がある。堂の右手にこの町石が建てられている。
 町石は、高さ121cm、巾21cmの角柱であるが、頂部が折損しているので、当初はもう少し高いものであった可能性がある。
 町石は、正面頭部に弥陀の種字キリークを刻み、その下に
     
       

 
 
 
 
       

 嘉 元 二 年
 金 剛 仏 子 蓮 覚
 五 月 廿 日
 
       

 
 と刻まれている。
 
 
 また、ここに祀られている不動尊は、その前を流れる安位川の改修時に川底から発見されたもので、おそらく山腹の安位寺との関係が深いものであろうと思われる。
 発見時に一時保管の予定でこの地に祀られたが、今では定住してしまっている。

寺院

不動寺 御所市櫛羅字山開
宗派曹洞宗宇治興聖寶林寺末
 清瀧山不動寺(戒那院)と称する。
本尊釈迦如来(坐像)
 外に、大威徳明王像(牛瀧さんともいう・朝原廃寺から移したという)
 役行者像歓喜尊天観音立像(楠公の持仏と伝えられる。)等。
本堂入母屋造桟瓦葺き7間×7間明和27年上棟
 庫裡は明治27年の建築
由緒草創役小角神変大菩薩
 改創空海上人
 改宗曹洞宗への改宗開山回天慧杲大和尚
寺伝不動寺縁起に、安位寺及び不動寺の成立を次のように記している。
 大和国葛上郡に二峻嶺あり。曰く葛城、曰く戒那。葛城の山頂、天神の森に小祠あり。祠より下ると不動院(現・安位寺跡=地元の通称・寺屋敷という)あり。ここは役行者の修行の地なり。瀧は南側奥にあり。小角は不動尊石像を刻んで安置せり。
 その後、大同年間(平安時代初め)、空海、唐より帰朝の後、この霊場を慕いて堂宇を建立し、自作の不動尊を以て本尊とし、戒那山安位寺と号せり。
 時に支院千坊、村を造りて、倶尸羅と名付く。空海、高野山を拓いた後、安位寺を弟子真雅に付す。
 其の後、久安年間(藤原時代)、吉野・南都の僧兵に荒らされ、保元・平治の乱にも兵火にかかり坊舎を消失す。漸く戦火の収まるに及んで、或人燼木(じんぼく)を拾い、庵を結びて、不動尊を安じ、不動寺と改めむ。
 享保年間(江戸時代)、生駒山宝山寺の亮観律師、霊場の荒れたるを嘆き、山下六百余歩を距(へだ)てる戒那山丘に殿堂を建て、公庁に訟え、真言律寺とす。
 ここで、高野山とは離れたわけである。
 然るに、住僧中律を怠る者多く、天保年間(江戸末期)一夜の疾風迅雨に木、家倒れ、寺僧は災いに罹る。その後も住僧悉く夭死し、廃寺となる。
 文久年間、大江候の臣杉浦成美半夢、雪巖老師を請い、不動寺廃祉に一宇を建立することを乞う。ここに現・不動寺が成り、宗を禅に改たむ。名けて、「清滝山戒那院不動寺」と称す。
 時に、慶応元年(1865)6月上旬のこと。

なお、境内西南に小さな池があるが、この池はその昔、役行者が櫛羅の瀧で修行していたときに結んだ庵の跡で、後世になっても建物等を建てないために池(兼・防火用水池)にしたという口伝が残っている。

 俳人・阿波野青畝の出世作
  かつらぎの山ふところの寝釈迦かなは有名である。
九品寺  御所市楢原字田口
宗派浄土宗知恩院末戒那山宝池院と称する。
本尊阿弥陀如来(坐像)(半丈六像1,3m)
 造顕は藤原時代と見られる。
 外に、不動明王立像(鎌倉時代・室町時代に修理)。なお、本尊の木造阿弥陀如来像は国の重要文化財に指定されている。
本堂入母屋造本瓦葺き、明和5年上棟(1768)。
寺伝行基が聖武天皇の勅によって巡錫の砌、天平年間当地に留まり、草庵を結び、民衆を教化したのが起こりで、のちに空海が行基の遺跡を尋ね、当地に戒那千坊を創始した。降って永禄年間(1558~1570)弘誓が当麻寺を拠点に、浄土宗を広めるために布教活動をし、同年間に九品寺も改宗。
 この地を領した楢原氏の菩提寺。一族の墓碑がある。
千体地蔵
 楢原氏は、南北朝の戦いの時、南朝方の楠木正成に加勢、その時戦に行く者の身代わりに親族や地元の人々が石仏をこの菩提寺に奉納したのが今に残るという。
 現九品寺の北に、キトリ山というところがあるが、ここを開拓した時に多くの地蔵石仏が出土した。その石仏もここに安置された。
 現在でも時折出土しており、その数は1600体とも、1700体ともいわれている。また、石仏はどれ一つとして同じ顔はなく、今も、村人の厚い信仰心によって守られている。
極楽寺 御所市北窪
宗派浄土宗黒谷金戒光明寺派
本尊阿弥陀如来(鎌倉時代の作という。)
 阿弥陀堂には、天得阿弥陀如来画像を祀る。
本堂入母屋造り本瓦葺き
寺伝天暦五(951)年、興福寺の一和僧都の開基にかかる寺であるという。

寺宝天得阿弥陀如来画像涅槃画像伝吐田越前守着用の甲冑槍長刀等。

天得如来画像の由来
 仏頭山極楽寺(吐田極楽寺)に、天得如来を描いた一服に軸が祀られている。この軸の由緒として伝えられている話である。
 建治5年(1275)6月9日、葛城の備の里に隠れ住んでいた図書行光という武士が、いつものように山には入って狩りをしていた。ついに夕方になってやっと朝原寺の少し上にある日の石という大岩のところで、一頭の鹿を見つけた。後を追って射ようとした瞬間その鹿を見失った。そしてそこに一人の行者が現れ、行光に生き物の命の大切さ、仏道修行の必要性を教え、如来を描いた一服の軸を与えると忽然と姿を消してしまった。行光が驚いて探すと、行者の姿は遙か西の雲の上にあった。この姿を拝していると、後方で大きな音がした。見ると大きな鐘が落ちていた。行光はこの出来事を不思議に思って、剃髪をして出家し、如来の軸を自宅に祀った。そして20年後に行光は夢のお告げを承け、如来の軸を極楽寺に奉安した。
橋本院 御所市高天字三の谷
宗派高野山真言宗高野山遍明院末
本尊弘法大師(坐像)十一面観音立像聖観音立像薬師如来立像
 地蔵尊立像高天開発僧像釈迦涅槃像
本堂四柱造の堂とその全面に宝形造の堂、藁葺き屋根
 金剛山の中腹、古くは高天寺として大伽藍があったと伝えられている。
庫裡瓦葺き屋根の建物
寺伝養老年間、四十四代元正天皇の勅により、僧行基が開いた高天寺の一子院。もともとは奈良興福寺に所属していたが、その後高野山金剛峰寺に所属した。高天寺は、もと高天彦神社付近にあったが、南北朝の戦乱に巻き込まれ、貞和4(1348)年1月、北朝方の足利尊氏の家来高師直によって焼失。
 延宝5(1677)年同寺住僧頼勇が、北方の天満池の神地に移したところ、すぐそばに橋があったので、橋本院を称せられた。
 椿としだれ桜はみものである。
高天寺
本尊不明なるも、十一面観世音菩薩を安置していた。
本堂橋本院の縁起によると、神祇宝山金剛寺之同派と記されている。
寺伝中国唐代の高僧・鑑真が渡来したとき、45代聖武天皇が高天寺の住職に任命したほどの格式の高い寺院であった。金剛山転法輪寺七坊(鎌倉末)の一つとして、石寺・朝原寺とともに権威をもち、高天彦神社とともに広大な荘園や山林をもった寺であった。
 南北朝の動乱期に、高天寺の僧兵と河内の郷士・楠木正成が金剛山千早に築城し、鎌倉の足利尊氏の大軍と戦った。その時に高天寺を始め金剛山転法輪寺七坊ほか地元では裏面から食料等を楠陣に援助。このことを知った畠山基国軍は、高天寺等を焼き討ちし、僧兵を皆殺しにしたのが天平勝宝七年である。その後、宝字元年鑑真和上が勅を請うて再興し、もとの如く再興して盛んになったという。
船宿寺 御所市船路
宗派真言宗高野山遍明院末
本尊薬師如来
 ほかに、涅槃画像、十六神菩薩像、十三佛図、弘法大師画像などがある。いずれも江戸時代から室町時代に遡ることができる立派なものである。
本堂もとは小さなものであったが、現在は本堂・庫裡とも立派である。
 ツツジの船宿寺で売り出している。
みもの船路の小高い山裾にサツキの寺がある。数百株のサツキが色とりどりに咲き乱れる光景はまことに見事である。また、裏山を借景にした池泉回遊式庭園や境内から見る金剛山の景観も美しく一見の価値は十分にある。
吉祥草寺 御所市茅原字中の坊
宗派高野山真言宗高野山光台院末
本尊五大尊(五大明王尊)
 =不動明王、大威徳明王、降三世明王、軍茶・利明王、金剛夜叉明王
本堂3間×4間応永年間(1394〜1428)の建立
 (江戸時代に重修、増築したため古くは見えない)
 最初の堂宇は貞和5年(1349)3月に高師直の兵火にかかったという。
諸堂行者堂(行者と行者の母像を祀る)、観音堂、弁財天堂、笠堂、香精堂、井戸、笈懸の杉、南門と北門、
みもの ムクノキの巨樹・境内の西側に目通り4m、樹高12mのムクノキがある。板状根が発達していて、植物形態学上の興味もそそられる。
 その他・5月の藤の花、吉祥草、ほか
吉祥草寺に関わる伝承
 葛城山地は、役小角が住みついて呪術で名をなしたところである。
 『続日本紀』文武3年5月24日の条)
 中世には葛城系修験道の発達に伴い、金剛山転法輪寺を中心に根本道場として栄えた。そして、金剛山の中腹を中心に、脇寺6房・金剛山7房が構えられ、葛城山や金剛山の東麓にも、多くの寺・房・宿が設けられた。(これが現在、「戒那千坊」と呼ばれるものであろうと思われる。)
 ところが、これらの寺や房は南北朝の動乱による荒廃を経ながら近世までに復興するものの、明治時代の廃仏毀釈や修験道の衰退によって再び荒廃・廃絶へと進むのである。
 伝説は、人々が生活を営む中で、生活と結びつきながら作られ、伝えられるものである。ゆえに、人々がその生みの地を離れると伝わらなくなるとともに、その衰退も加速されるのである。
 この葛城の地の伝説として、役行者伝説と土蜘蛛伝説が挙げられる。
 まず、役行者伝説の特徴、第1に吉野や駒の場合と比べて、生誕にかかわるものや若いころの修行にかかわる内容のものが多い。
 ◇続日本紀=役小角が葛城山に住みついて呪術で名をなしたこと。
 ◇日本霊異記=役小角が茅原村で生まれ、30歳で葛城山に分け入り、苦行して孔雀明王の呪法を修得したこと。鬼神に金峯山と葛城山に橋を架けさせようとして、一言主神の讒言により伊豆に流されたこと。
 、
 ◇私聚百因縁集=葛城山で30年余石室を居として修行したこと。
 ◇役行者本記=13歳にして毎夜葛城山に登り、朝に帰ることを常としたこと。
 第2に、茅原周辺をのぞくと伝説の希薄化が進んでいることにある。
円照寺 御所市御所・寺内町
宗派浄土真宗本願寺派天文15年(1532〜1555)笑雲の開基
本尊阿弥陀如来立像
本堂入母屋造り本瓦葺き間口10間
由緒笑雲は、当地の旧領主桑山氏の一門、河内の横小路村桑山治太夫の弟源吾が出家した後の称。
 笑雲は、初め王寺町の達磨寺に住し、禅法を修していたが、晩年浄土真宗に帰依し、本願寺の証如上人の真弟子となり、当地に一宇を建立し、常徳寺と号した。
 慶長15年(1596〜1615)3月、本山の准如上人から懸所坊舎を命ぜられ、触頭として50余ケ寺を統括し、円照寺と改称した。
 明治9年8月、本山の宗規により懸所坊舎の称は廃止。今も大和五ヶ所御坊の一と呼ばれ、栄えている。
大乗寺・蓮如上人の名号(戸毛)
宗派浄土真宗西本願寺派
本尊阿弥陀如来立像(江戸時代)
 肉髻(にっけ)が高く、なで肩で藤原時代風に創られている。
本堂6間半×7間四注造本瓦葺四面庇の堂鼓楼鐘楼ともに揃っている。
由緒大乗寺は、もと古瀬高社の城主菊池政庸が禅宗寺院・大定院を創建したが、蓮如上人が巡錫の際、真宗になれと勧められて禅宗から転宗したといわれる。その時上人が菰の上に紙をおいて、「南無阿弥陀仏」の六字名号を書かれたのでその型が残っている。
巨勢寺跡(古瀬)
 JR和歌山線と近鉄吉野線とが、吉野口駅の北で相い接するあたり、両線に挟まれた一角に小堂宇がある。堂の前には、大礎石があり、この寺の心礎と思われる。出土した瓦は白鳳時代よりも前のものとみられ、豪族・巨勢氏の氏寺として大伽藍の寺院が建立されていたと目されている。
縁起(盛衰の概略)阿吽寺縁起によると、聖徳太子の創建となる。
 日本書紀朱雀元(686)年八月辛卯の条に、封戸を定めた時に寺名を初見。推古・舒明から孝徳・斉明朝に創られたと思われる。
 ・安曇仙人が庵を結び仙術を修める。
 ・巨勢大臣徳太古が弥勒堂を建立。
 ・藤原時安が薬師堂を建立。
 ・橘政秀・政吉父子が青面金剛力士像を作り、寺門を鎮護とする。
 ・阿吽法師住してより、観音堂・灌頂堂・仁王門・鐘楼等を建立し寺観を完備。
 ・真如上人、印度に行くときに最後に本寺に立ち寄る。
 貞観三(861)年、「頭陀親王入唐略記」
 ・奈良・興福寺の末寺となる。
 延久二(1070)年九月、尋慶撰「興福寺資材帳」による。
 ・徳治三(1308)年ごろ、すでに荒廃していた。春日神社文書による。
阿吽寺(古瀬)
宗派高野山真言宗高野山光台院末(元は法相宗)
本尊十一面観世音菩薩立像一木造りであるが、候補がなされている。
 両脇に不動明王坐像、薬師如来坐像
縁起この寺は、巨勢寺の一坊で、安曇仙人の修行の地として伝えられている。
 平安時代、巨勢川が氾濫し、里人が避難に窮した時、阿吽法師がこれを救済し、里人がこの法師を尊び、玉椿精舎に請住せしめた。
 玉椿精舎とは、巨勢寺のことであるが、その一子院として阿吽寺が起ったと考えられる。
 ・南北朝時代、朝敵追伐の祈祷を勤める。
 ・正平四(1349)年、後村上天皇から吉野郡新野に寺領を賜る。
 ・貞治元(1362)年秋、火災に罹り全焼。
 ・翌年から、寺僧阿円が行脚托鉢で復興を目指すも不如意となり、依来荒廃に
 任せた。
 ・その後100年経て、高野山の僧が郡山城主の加護を得て、本堂・護摩堂・
 庫裡・鐘楼・仁王門等を復興。
 ・寛文八(1666)年十一月、古瀬村から石灯を献納される。
 ・延宝四(1674)年二月、梵鐘が鋳納される。
 ・延宝七(1677)年、本多忠英が播州に転封となって、寺運は衰頽、
 ・文久年間には、全面の石垣が崩壊。
 ・明治五(1872)年、廃寺となる。
 ・明治九(1876)年、同寺の仏像・什器等を正福寺に移す。堂宇は小学校に充当。
 ・明治十三(1880)年、村内有志によって小堂を再建し、復興する。

その他院

巨勢の追分(奉膳)
 追分けとは、街道が二つに分かれている所をいう。
 この巨勢の追分けは、紀州街道と吉野街道の分岐点である。
 吉野街道は、大峯への街道として、また奈良朝から後、熊野や吉野離宮への街道として、人々が行き来した。
 そして、もう一方は紀州へ向かった紀州街道である。
 巨勢道は言うまでもなく、「万葉集」巻の一の藤原宮之役民作歌に「不知国依巨勢道従我国者・・・・」と、また巻の三に「小浪磯越道・・・・」と詠われた古街道であったものと思われる。
 この巨勢の追分けに橋がある。曽我川と今木川の合流点で、今木川に架かる橋を出合い橋と呼んでいる。
 橋の袂に「右かうや、左大峰」と書かれた道標がある。ここが紀州路と吉野路の分岐点(追分け)である。
 現在、紀州街道はほとんど使われておらず、地元の人や橿原から五條への近道として知る人のみの使用が中心である。片や吉野道も、新道が造られ、この旧道は地元の人だけが使っている状態である。
奉膳(奉膳)
 後醍醐天皇が吉野への行幸の途中、この地でお休みになった際、村人が御食膳を奉った。それ以来、村名を奉膳(ぶんぜ)と名付けた。

御所市内寺院一覧

円照寺(御所)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:天文15(1546)年開基:笑雲
 慶長15(1610)年常徳寺から円照寺に改称
正栄寺(御所)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建不明:天正5(1577)年再建開基:
浄宗寺(御所)浄土真宗・東本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基:教如上人
観音寺(御所)真言宗・高野山光台寺末本尊・観世音菩薩
 創建:不明開基:不明
 妙見堂ともいう。
正福寺(御所)浄土宗・黒谷金戒光明寺末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建不明:開基:
真竜寺(御所)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来
 創建不明:元禄2()年再建開基:見誉上人
(竹田)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来
 創建;奈良時代再興:天正年中(1532〜1554)
 開基:
薬師堂(楢原)浄土宗本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:開基:
安養寺(東松本)真言宗本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:不明開基:不明
名願寺(元町)浄土真宗・西本願寺末本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建不明;現本堂は平成に入ってから開基:不明
白雲庵(楢原)浄土宗・知恩院末本尊・十一面観世音菩薩
 創建:不明開基:不明
等覚寺(御所)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:元禄4(1691)年開基:藤村是柳
九品寺(楢原)浄土宗・知恩院末 本尊・阿弥陀如来(坐像)
 草創:天平年間開闢:行基
 本堂は明和5年の上棟
十住寺(櫛羅)真言宗本尊・薬師如来(坐像)
 創建:不明開基:不明
不動寺(櫛羅)曹洞宗本尊・釈迦如来(坐像)
 草創:不明中興開基:永井信濃守
 本堂は昭和27年の上棟
専念寺(櫛羅)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:明応4(1495)年開基:常照
浄土寺(櫛羅)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀三尊(立像)
 創建:慶長16(1611)年開基:
光明寺(小林)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基:不明
船宿寺(船路)真言宗・高野山遍明院末本尊・薬師如来(坐像)
 創建:不明開基:不明
教学寺(栗阪)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基:不明
禅照庵(下茶屋)浄土宗・鎮西派長持院末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:不明開基:不明
正願寺(井戸)会所として使用
 創建:不明開基:不明
金剛寺(東持田)真言宗・高野山遍明院末本尊・青面金剛
 創建:不明開基:不明
妙相寺(鳥井戸)真言宗・高野山遍明院末本尊・観世音菩薩
 創建:不明開基:不明
宝満寺(僧堂)真言宗三宝院末本尊・釈迦如来
 創建:不明開基:不明
阿弥陀寺(僧堂)浄土宗・黒谷金戒光明寺末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:応永31(1424)年等煕和尚の創立
弥勒寺(東佐味)真言宗・仁和寺末本尊・弥勒菩薩
 創建:不明開基:不明
 天正7年2月22日再建の棟札あり。
常福寺(西佐味)真言宗・高野山光台院末本尊・大日如来
 創建:不明開基:不明
観音寺(西佐味)真言宗・高野山遍妙院末本尊・大日如来
 創建:不明開基:不明
六斎寺(西佐味)真言宗・高野山光台院末本尊・大日如来
 創建:不明開基:不明
観音寺(鴨神)真言宗・高野山遍妙院末本尊・十一面観音菩薩
 創建:不明開基:不明
如来寺(鴨神)真言宗・高野山光台院末本尊・地蔵菩薩
 創建:不明開基:不明
地蔵寺(鴨神)真言宗・高野山遍妙院末本尊・地蔵菩薩(石像)
 創建:不明開基:不明
戌亥寺(鴨神)真言宗・高野山光台院末本尊・薬師如来
 創建:不明開基:不明
別所観音(鴨神)真言宗本尊・千手観音菩薩
 創建:不明開基:不明
西竜寺(朝妻)真言宗・當麻不動院末本尊・薬師如来
 創建:不明開基:不明
菩提寺(伏見)真言宗・高野山明王院末本尊・十一面観音菩薩(立像)
 創建:開基:
金剛山転法輪寺(金剛山頂)真言宗本尊・
 創建:開基:
橋本院 (高天)真言宗・高野山本尊・弘法大師(坐像)
 創建:開基:
極楽寺(南郷)浄土宗・黒谷金戒光明寺末本尊・阿弥陀如来
 創建:天暦5(951)年開基:一和僧都
鶏足寺(南郷)本尊・釈迦如来
 創建:白鳳4年開基:
延命寺(佐田)浄土宗本尊・阿弥陀如来(坐像)
勝福寺(西寺田)真言律宗・西大寺末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:弘安4(1281)年開基:叡尊
脇之坊(関屋)浄土宗・名柄竜正寺末本尊・地蔵菩薩
 創建:不明開基:不明
本久寺(名柄)日蓮宗・京都本圀寺末本尊・題目(南無妙法蓮華経)
 創建:天正8(1580)年開基:日仙
浄泉寺(名柄)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:寛永17年開基:
竜正寺(名柄)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀三尊(立像)
 創建:天正年間開基:
法満寺(宮戸)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来
 創建:不明開基:不明
信行寺(幸町)浄土真宗本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基:不明
正福寺(古瀬)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基:不明
阿吽寺(古瀬)浄土宗本尊・十一面観世音菩薩(立像)
 創建:平安期開基:阿吽
真清寺(今住)浄土宗・高野山光台寺末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:不明開基:不明
安楽寺(稲宿)真言宗・高野山光台寺末本尊・十一面観世音菩薩(立像)
 創建:延宝年間開基:不明
葛城寺(稲宿)浄土宗・法然院末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:飛鳥時代開基:不明
安福寺(重阪)浄土宗本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:不明開基:不明
教学寺(重阪)浄土真宗・西本願寺末本尊・阿弥陀如来
 創建:不明開基:不明
金剛寺(水泥)真言宗・阿吽寺末尼寺本尊・大日如来
 創建:不明開基:不明
八紘寺(朝町)日蓮宗本尊・題目(南無妙法蓮華経)
 創建:昭和23年登記開基:不明
浄土寺(奉膳)真言宗・高野山光台寺末本尊・地蔵菩薩(立像)
 創建:不明開基:不明
高松寺(古瀬)浄土真宗・本派本願寺末本尊・阿弥陀如来
 創建:不明開基:不明
福住寺(朝町)真言宗・山階派本尊・聖徳太子(立像)
 創建:不明開基:不明
正覚寺(朝町)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:寛政5(1793)年開基:法堂法師
重心院(樋野)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来
 創建:不明開基:不明
大乗寺(戸毛)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基:不明
西方寺(戸毛)浄土宗・黒谷金戒光明寺末本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:開基:
大安寺(今住)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:正徳3(1712)年開基;不明
誓願寺(柏原)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:天保の頃開基;不明
興禅寺(柏原)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:享保の頃開基;不明
西光寺(柏原)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:天保の頃開基;不明
阿弥陀寺(柏原)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来
 創建:開基:
楽音寺(柏原)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:開基:
専久寺(本馬)浄土宗本尊・阿弥陀如来
 創建:開基:
吉祥草寺(茅原)真言宗・高野山光台院末本尊・五大尊
 創建:開基:
王城寺(柏原)浄土宗本尊・薬師如来(坐像)
 創建:開基:
真願庵(柏原)浄土真宗・西本願寺派本尊・
 創建:不明開基;不明
満福寺(東寺田)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基;不明
大日寺(原谷)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来
 創建:開基:
薬師堂(玉手)本尊・薬師如来(坐像)
 創建:開基:
満願寺(玉手)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:開基:
示現寺(富田)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:開基:
光蓮寺(条)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基;不明
教善寺(室)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基;不明
法泉寺(室)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:宝永4(1707)年開基;釈執専
浄光寺(池之内)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基;不明
長円寺(蛇穴)浄土真宗・西本願寺派本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:不明開基;不明
願成寺(池之内)浄土宗・知恩院末本尊・薬師如来(立像)
 創建:開基:
生蓮寺(室)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀三尊
 創建:開基:
光明寺(蛇穴)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀三尊
 創建:開基:
法谷庵(室)真言宗・高野山普門院末本尊・弘法大師(坐像)
 創建:開基:
西応寺(柳原)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀三尊
 創建:開基:
福応寺(柳原)浄土宗・知恩院末本尊・阿弥陀三尊
 創建:開基:
地蔵院(今城)浄土宗本尊・阿弥陀三尊
 創建:開基:
安入寺(北十三)浄土宗本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:開基:
安養寺跡(櫛羅)真言宗廃寺
 創建:開基:
廃仙澗寺(楢原)
 創建:不明明治維新時に廃寺開基:不明
廃慈恩寺(楢原)
 創建:開基:
廃阿弥陀寺(西佐味)真言宗本尊・阿弥陀如来
 創建:開基:
廃神通寺(鴨神)真言宗
 創建:開基:
廃朝原寺(関屋)
 創建:開基:
葛城寺跡(朝妻)
 創建:開基:
石寺(関屋)本尊・薬師如来
 創建:開基:
高宮廃寺跡(西佐味)
 創建:開基:
水野廃寺(水野)
 創建:開基:
廃浄土寺(西寺田)浄土宗本尊・阿弥陀如来(立像)
 創建:開基:
廃安楽寺(増)浄土宗本尊・阿弥陀三尊
 創建:開基:
葛城寺跡(増)
 創建:開基:
廃大福寺(多田)浄土宗本尊・阿弥陀如来
 創建:不明開基:不明
廃円福寺(宮戸)浄土宗本尊・地蔵菩薩(立像)会所
 創建:開基:
廃浄楽寺(豊田)浄土宗本尊・十一面観世音菩薩
 創建:開基:
廃浄福寺(森脇)浄土宗本尊・阿弥陀如来(坐像)
 創建:開基:
廃権現堂(樋野)現・権現社
 創建:開基:
上寺(玉手)廃寺