葛城山麓は大和のなかでも比較的古くから開けた地域であった。大屋池下池では、有舌尖頭器が検出され、脇田遺跡では縄文晩期の深鉢形土器が出土、弥生中期の方形周溝墓も検出された。また寺口付近や疋田尺土池からも弥生時代の遺物が採集されている。古墳時代にはいると新庄屋敷山古墳(国史跡)・新庄二塚古墳(国史跡)をはじめ寺口和田古墳群・寺口子塚古墳群・火野谷古墳群・平岡西方古墳群・山口千塚古墳群・笛吹古墳群など群衆墳が集中している。
5世紀に権勢を保っていた葛城氏は当町域にも屋敷山古墳群などの遺跡を遺すが、六世紀継体・欽明天皇の時代には衰退したという。葛上・葛下両郡に挟まれて介在する忍海郡には忍海氏や忍海部が占住する。古事記中巻、開化天皇の条に、「又葛城の垂見の宿禰の娘顫比賣を娶して生みませる御子、建豊波豆羅和気王一柱・・・・上に謂える、建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・丹波竹野別・依綱の阿里古等、が祖なり」とあって、「大和史料」では、忍海部が居住していたから忍海となったとある。しかし、忍海の地があってそこに居住したから忍海部といったという説もある。いずれにしてもかなり古くから、天皇の伝とともに「忍海」の地か氏族名があったことになる。
飛鳥・白鳳期に成立したと見られる祈念祭の祝詞に大和の御県に坐す皇神として・高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の6つがある。延喜式神名帳には、葛下郡下に「葛木御県神社」を載せていることから比定される。この地域は6〜7世紀の葛木県の中心であったのか。
律令制の衰退に伴い、当地域でも貴族や社寺の荘園化が進んだ。北部に一乗院領平田荘が成立。延久二年の雑役免帳では葛下郡域に池上荘・弁荘、忍海郡域に今井荘・薑荘・河西荘・永富荘・安井荘・興田荘などがみえる。また「春日大社文書」には石井荘がみえる。これらの荘園の中には灯油免田・左京職田・法興院田・極楽寺免田・竹林寺田などを含み、藤原氏や興福寺・春日社の所領となっている。
興福寺は藤原氏の権勢を後ろ盾に僧兵を抱え、大和の実権を握り、国司を追放したこともある。鎌倉幕府もこれを認め、守護を置かず、興福寺はやがて僧兵団を改編、宗徒・国民の制を編み出し、在地の有力武士をその輩下に組み込む。こうしたなかで、当町の布施氏や疋田氏が台頭する。正安三年南都・北嶺の僧兵が多武峯に戦い、興福寺方寄手に大将布施行知がみえる。鎌倉末期、反幕府・反荘園体制的な武力をもつ者が暗躍、その中でやがて布施氏は実力を蓄え、多武峰領磯野荘や一乗院平田荘などを押収した。応永十四年には、平田荘八荘官のうちにその名をみせ、頭角を現す。室町・戦国期に中央政争に巻き込まれ、文正元年畠山・越智に布施城を攻略される。文明三年に万歳氏を攻め、万歳城を焼き、越智氏の攻略を受ける。永禄二年には松永久秀の大和進攻に、布施氏は手を貸し、高田城を囲んだ。天正十三年豊臣秀長の郡山城入城で、布施氏は筒井定次と伊賀国に国替えされたが、筒井氏の改易で浪人となり、古里に潜んだ布施春行は、やがて大坂の陣で大坂城に籠城する。
当町域の江戸期の村々は、複雑な領主変遷をたどった。慶長6(1601)年、関ヶ原の合戦で功績を認められた桑山一族は、外様であったにもかかわらず加増を受け、桑山一晴は大和国葛下郡布施に、桑山元晴は葛上郡御所に、桑山貞晴は大和のうちにそれぞれ封を受けた。この(新庄町)布施に入部したのは、桑山重晴の孫・一晴で、以来約80年間、四代に亘って統治した。新庄藩がようやく藩政の基礎が固まりつつある四代藩主一尹の時、天和2(1682)年5月26日、東叡山寛永寺における厳有院殿の御法会にて、公家衆饗応のことを承ったが、御仏殿にての公卿接待の不敬のあることによりり改易されたのである。新庄村は、現在の新庄町大屋付近から柿本神社に至る布施郷内最大の集落で、高野街道沿いの街道集落として発達してきた。慶長六年桑山一晴の入部によって、陣屋の城下町として町割りされ、当初は新城村と称し、後に新庄村と改称。天和元年桑山一尹の改易で以後幕府領となる。延宝八年永井直円の陣屋となり、文久三年まで所在。
* 疋 田 村 (現・新庄町大字疋田、桑山藩⇒天領藩⇒郡山藩)
鎌倉期からの地名。江戸期から明治22年の村名。明治22年以降は大字名。大屋村と同じく間宮三郎左衛門の預かる天領であった。のち松平下総守の時、藩主の交替があったものの明治維新に至るまで郡山藩領として続いた。* 東 室 村 (現・新庄町大字東室、桑山藩⇒御所藩領⇒幕府領⇒郡山藩領)慶長郷帳には新庄藩(桑山一晴)領、「寛文朱印留」には郡山藩本多政長領とみえるので、承応二年十月九日、本多政勝の嗣となった政長の領となったと考えられる。* 西 室 村(現・新庄町大字西室、桑山藩⇒天領藩)江戸時代初期の領主名不明。元和郷帳によると新庄領、天和二年の桑山一尹の改易ののち天領に組み入れられる。* 柿 本 村 (現・新庄町大字柿本、桑山藩⇒郡山藩)江戸時代初期新庄藩領。のちに御所藩主桑山元晴に分与したうちに含まれ御所藩領となる。寛永六年桑山貞晴の継絶後に幕府領となるが、同十六年郡山藩本多勝行知行、仁応以降は郡山藩領となる。* 道 穂 村 (現・新庄町大字北道穂・南道穂、桑山藩⇒郡山藩)慶長郷帳には「三坪村」、元和郷帳には「ミツほ村」とあり、元禄郷帳には「ミチホ」と訓じている。慶長六年、桑山一晴が新庄藩城下町取り立てのため当村と正道寺村を割いて、新庄村をつくった。天和二年の桑山一尹の改易にて、幕府領に編入された。のちに道穂村は北と南に村高を分け分村独立したらしい。。理由・年代は不明。* 弁ノ庄村 (現・新庄町大字弁之庄、桑山藩⇒郡山藩)延宝二年の興福寺雑役免帳に「弁庄」の名を記す。元和郷帳には「弁庄村」、寛永郷帳には「弁之庄村」とみえる。江戸時代初期新庄藩領。天和二年の桑山一尹の改易にて、幕府領に編入された。明治八年三月、寺口村・中戸村・大屋村・藤井村が合併して金沢村となったが、同十五年一〜三月の間に各村分離独立して弁之庄村となった。* 中 戸 村 (現・新庄町大字中戸、桑山藩⇒郡山藩)寛永郷帳に「中東」とある。江戸時代初期新庄藩領。天和二年の桑山一尹の改易にて、幕府領に編入される。明治八年三月、寺口村・中戸村・大屋村・藤井村が合併して金沢村となったが、同十五年一〜三月の間に各村分離独立して、もとの中戸村に復した。* 寺 口 村 (現・新庄町大字中戸、桑山藩⇒郡山藩)寺口は、置恩寺の門前集落。江戸時代初期、旗本桑山左近(貞晴)の領地。貞晴の子貞利に子がなく、寛永十三年十一月n改易となる。同十五年十二月貞利の弟貞寄りがその名跡を継ぎ、再び旗本桑山藩領となり、幕末に至るまで統治された。明治八年三月、寺口村・中戸村・大屋村・藤井村が合併して金沢村となったが、同十五年一〜三月の間に各村分離独立して、もとの寺口村となった。* 大 屋 村 (現・新庄町大字大屋、桑山藩⇒永井藩)慶長郷帳では幕府領。元和五年郡山藩に編入され、延宝八年永井直円領となる。永井氏の入部とともにその所領となり、明治維新に至る。布施氏滅亡後、大坂で商いをしていた杉浦半兵が老いて帰郷後、公益のため新庄村に「三才」の大橋を架橋した。行者橋といい、高野街道に沿い高田川に架橋、大和では数少ない太鼓橋形式の石橋である。明治八年三月、寺口村・中戸村・大屋村・藤井村が合併して金沢村となったが、同十五年一〜三月の間に各村分離独立して、もとの大屋村となった。* 新 庄 村(現・新庄町大字新庄、桑山藩⇒天領)慶長六年、桑山一晴の入部によって布施陣屋の城下町として町割された村である。最初は新城村と称さたれたが、何時の頃か新庄村と改称された。天和二年の桑山一尹の改易で、天領となる。なお、桑山藩改易後、陣屋は永井氏の陣屋となり、文久三年まで所在した。* 藤 井 村 (現・新庄町大字藤井、桑山藩⇒天領)慶長郷帳では新庄藩領。天和二年の桑山一尹の改易で幕府領に編入され廃藩置県に至る。ほぼ新庄村と同一の歩みであった。明治八年三月、寺口村・中戸村・大屋村・藤井村が合併して金沢村となったが、同十五年一〜三月の間に各村分離独立して、もとの藤井村となった。 なお、同十六年四月〜十二月の間に、同じ葛下郡内の藤井村と区別するために南藤井村と改称した。* 正道寺村 (現・新庄町大字葛木、桑山藩⇒郡山藩領)江戸初期、新庄藩領。慶長郷帳には「正堂村」とみえ、天和二年の桑山一尹の改易で幕府領となり、享和元年郡山藩松平甲斐守に引き継がれ、明治維新に至るまで郡山藩領となる。明治維新後、桑海村と合併して葛木村となる。* 桑 海 村 (現・新庄町大字葛木、桑山藩⇒天領)大屋村と新庄村の簡に所在。小字桑海が残っている。元禄郷帳には「クアニミ」の訓を付す。慶応郷帳には「桑の味村」とみえ、新庄藩桑山一尹の改易で幕府領となり、享和元年郡山藩松平甲斐守に引き継がれ、明治維新に至る。明治維新後、正道寺村と合併して葛木村となる。* 北花内村 (現・新庄町大字北花内、桑山藩⇒天領)元禄年間の国郷帳では、花内に「ハノチ」に訓を付す。江戸初期、新庄藩領。桑山一尹の改易ののち幕府領となり、明治維新に至る。また江戸初期には花内村とのみみえるが、忍海郡の南花内村と区別するためか、北花内村とみえる。この間には、代官支配あるいは大名預かり地となっており、幕府領支配の構図が伺える。* 笛 堂 村 (現・新庄町大字笛堂、桑山藩⇒天領藩⇒永井藩)江戸時代初期、新庄藩。のち叔父御所桑山元晴に分与したうちに含まれる。寛永六年新庄藩改易で幕府領に編入され、寛永十六年郡山藩領となり、承応二年以降、郡山藩郭住本多政長中務大輔領。延宝八年永井直円領となり、その所領となる。* 南花内村 (現・新庄町大字南花内、福島兵部領⇒佐久間実勝領⇒水野忠貞領)元禄年間の国郷帳では、花内に「ハノチ」に訓を付す。慶応郷帳では「南花村」とあり、福島兵部領。寛永十年旗本佐久間実勝領。正保四年からは旗本水野忠貞領となる。幕末に当村から新町村が分離独立した。分離独立の理由は明らかでない。* 林 堂 村 (現・新庄町大字林堂、福島兵部領⇒郡山藩郭住領⇒幕府藩)慶応郷帳では江戸初期には福島兵部領。寛永十年三月三日以降は郡山藩郭住領。承応二年十月九日、本多政信(本多政勝の養子)領、大和国葛上、忍海、平群、十市、葛下、高市六郡のうちにおいて一万石を領し、城地郡山の郭内に住した。寛文二年本多忠英が政信の養子となり、その遺領を継ぐ。延宝七年六月、本多忠英が播磨国宍栗郡山崎に国替えとなって幕府領となり、その後郡山藩領となって明治維新となる。* 山 田 村 (現・新庄町大字山田、福島兵部領⇒郡山藩郭住領⇒幕府藩)江戸初期には福島兵部領。寛永十年三月三日以降は旗本佐久間実勝領。次いで正保四年からは旗本水野忠貞領となり、明治維新となる。* 平 岡 村 (現・新庄町大字平岡、福島兵部領⇒郡山藩領⇒新庄藩領=永井藩)元禄郷帳には「タイノ岡」と訓じる。江戸時代初期は脇田村の内で、福島兵部領。寛永郷帳に初見。元和五年からこの頃までに独立分村した。承応二年郡山藩郭住本多政長領となる。寛文十一年政長が郡山藩主となり、延宝七年その国替えによって幕府領となったが、翌八年永井直円領となり、天和二年直円が新庄藩主となると新庄藩領となる。* 山 口 村 (現・新庄町大字平岡、佐久間実勝領⇒郡山藩領⇒幕府領=永井藩領)文禄四年九月吉日の大和国忍海郡脇田ノ村御検地帳には「ヤマクチ」の集落名がみえる。江戸時代初期は脇田のうち。寛永郷帳に所見。寛永十年旗本佐久間実勝領(寛政重修諸家譜)のち同氏の改易により同十六年本多勝行領(郡山藩郭住)。承応二年本多政長領(郡山藩)となり、延宝七年本多氏の転封ののち幕府領。翌八年大名永井直円領となり、廃藩置県に至る。* 梅 室 村 (現・新庄町大字梅室、佐久間領⇒郡山藩領⇒新庄藩領=永井藩)文禄四年九月吉日の大和国忍海郡脇田ノ村御検地帳に「ムメムロ」の集落名が現れる。江戸時代初期は脇田のうち。のち脇田村は寛永郷帳においては脇田村・上之村・山口村・平岡村に分離するが、梅室村は上之村に含まれる。上之村は、寛永十年三月三日以降は旗本佐久間実勝領。寛永十六年郡山藩郭住本多政長領。延宝七年その国替えによって、翌八年永井直円領となり、天和二年直円が新庄藩主となると新庄藩領となる。この際に脇田村から分離独立した。* 笛 吹 村* 上村馬場村(現・新庄町大字笛吹、福島領⇒幕府領⇒郡山藩領=永井藩領)笛吹は、古代笛吹連一族の本拠地と伝承する。江戸時代初期は、脇田上之村のうちに発展した村で、福島兵部領。元和=寛永期に脇田村から分離独立、寛永具帳には「上ノ村」とみえ、郡山藩領となる。この上之村は、元禄郷帳ではさらに上村馬場村・笛吹村・梅室村・小林村に分離独立する。上村馬場村は延宝七年には幕府領領。のち郡山藩領を経て、新庄・永井氏領となり、脇田上之村のうちに発展したが、ときには上之馬場村と呼ばれ、江戸中期以降は馬場村とのみ単独に呼称された。延宝年間から永井氏領となった。明治初期、馬場村と笛福村は合併して笛吹村となる。* 脇 田 村 (現・新庄町大字脇田、福島領⇒佐久間領⇒水野領)文禄四年の検地帳には「忍海郡脇田ノ村」とあり、検地奉行は新城駿河守で、馬場村・吉兵分・梅室少二郎分・小林分などに分かれていた。慶長郷帳には「稲田村」とみえ、福島兵部領。元和検帳では「わき田村」と出る。元和=寛永期に、脇田村・上ノ村・平岡村・山口村に分離独立する。脇田村は、寛永十年旗本佐久間実勝領となり、その退転後は天領となり、南都奉行中坊氏が代官として支配した。正保四年三月三日、旗本水野忠貞(石見守・水野長勝の養子)の領となり、明治維新となるまでその系統の所領として続いた。幕末にはその陣屋を西辻村においた。* 西 辻 村 (現・新庄町大字西辻、福島領⇒佐久間領⇒水野領)江戸期初期には福島兵部領。寛永十年に旗本佐久間実勝領となり、その後の正保四年、旗本水野忠貞が五畿内・近江・丹波・播磨国奉行職となって大和国忍海郡西辻村・南花内村・脇田村・山口村。式上郡武蔵村・海智村で加増された際、同氏の領となり、明治維新に至った。この間、陣屋を当村に置いた。* 忍 海 村 (現・新庄町大字忍海、福島領⇒佐久間領⇒水野領)元禄検帳には「オシウミ」の訓を付す。「日本書紀」神功皇后摂政五年三月条に「忍海」の邑名を記し、「古事記」開化天皇段には「忍海部造」の名がみえる。慶長郷帳には、領主福島兵部とあり、寛永十年旗本佐久間実勝領、正保四年、旗本水野忠貞領となって、明治維新に至っている。* 薑村 (桑山藩⇒天領)姜村とも記した国郷帳があり、慶長郷帳には福島兵部領、その後寛永十六年から一時郡山藩領となるが、再び天領となり明治維新に至る。
《 行政区画の変遷 》当町域は、はじめ奈良県。郡山県・櫛羅県に分属し、明治4年奈良県に、同9年に堺県に、同14年には大阪府に、同20年奈良県に所属。同22年の町村制施行により、新庄・葛木・南藤井・大屋・寺口・中戸・弁ノ庄・疋田・北道穂・南道穂・西室・東室・柿ノ本・笛堂・北花内の15か村が合併して葛下郡新庄村を、忍海・はじかみ・新町・南花内・西辻・林堂・山田・平岡・山口・梅室・笛吹・脇田の12か村及び現御所市域の東辻・北十三・柳原の3村が合併して忍海郡忍海村となった。同30年新庄町は北葛城郡に、忍海村は南葛城郡に帰属した。大正12年8月31日、新庄村に町制施行し新庄町となり、昭和31年5月3日に忍海村を合併し、同年7月10日大字東辻・北十三を、同32年10月1日大字柳原・出屋敷・今城を南葛城郡御所町に分離して、現在に至る。同町は、布施郷(現=北道穂・南道穂・弁ノ庄・中戸・新庄・葛木・大屋・南藤井・寺口をいう。)・安井庄・疋田村・東室村・西室村・柿ノ本村・道穂村・弁ノ庄村・中戸村・寺口村・石井庄・大屋村・池上庄・新庄村・藤井庄・桑海村・北花内村・笛堂村・豊国庄・南花内村・今井庄・林堂村・山田村・平岡村・山口村・梅室村・脇田村・西辻村・忍海村・薑村など、古くからの村々が合併した。
地 勢地勢は西部の金剛山脈を形成する葛城山地、東部の奈良盆地の一部をなす平坦地域、その間に挟まれている山麓地帯の三つに区分できる。依って、河川の全てが西に源を発し、東に流れ、東部の町境付近で北に転ずるという形態であり、三地域ともに西高東低・南高北低の地勢をなしている。位置的には奈良盆地西南端西部に立地し、葛城山東麓、北葛城郡の南端に位置し、旧忍海郡のほぼ全域と葛下郡南部、葛上郡北部の一部を町域とする。東を大和高田市、南を御所市、西に大阪府、北は當麻町と接し、東西に長い長方形を呈している。また、町域の中央部を高田川、南部を安位川が東北流、東端部を葛城川が北流する。
1.葛城山地帯傾斜面は急峻で、花崗片磨岩よりなる山地で、風化甚だしく豪雨時には崩壊することもしばしばで、山林の経営管理は極めて努力を要し、防災上も苦心する地帯である。2.山麓地帯この地帯の傾斜度は、平均的には7〜8度以下の地帯で、海抜200〜100m前後の地帯にあたり、葛城山の断層崖が浸食され、その麓につくられた模式的な扇状地及び複合扇状地をもつ地域であるが、急峻な渓谷もあり地形は単純ではない。3.平坦地域前二地域に比べ傾斜はさらに緩慢で、最低地はわずかに海抜65mで、一般扇状地としての堆積物は浅く、土地は比較的肥沃であり、人口もこの地帯に集まり概して大きな集落を形成している。
気 候紀伊半島地方は温暖多雨地帯に属するが、奈良盆地の一隅に位置するこの地は海の影響が少なく、降水量も少なく寒暑の差がやや大きなところから内陸性気候の特徴を持っているといえる。河 川町内の河川の源は、葛城山中に発し、東流し、平野部に出て北流し、葛城川に注ぎ大和川に合流するというのが通例となっている。また@でも述べたように山地は傾斜面は急峻で、花崗片磨岩よりなるも風化甚だしく河川による浸食運搬が間断なく続いており、東部平野部に堆積するという作用が行われている。
植 物シダ植物18科・72種
種子植物 | 152科・835種 | |||||||||||
町史編纂時に 植物調査班によ って、採集また |
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裸子植物 | 11科・15種 | |||||||||||
は生育すること | 被子植物 | 141科・820種 | ||||||||||
を確認された植 物は、右のとお りである。 |
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双子葉 | 115科・589種 | |||||||||||
単子葉 | 26科・231種 |
専明寺(せんみょうじ) 新庄町笛堂宗 派真宗興正寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)寺 伝 長享二年三月十五日、布施城主布施掃部の弟道順が、その一族豊臣氏のためにこの地で殉死、その霊を弔うため僧となりこの寺を建立。元禄三年に火災にかかり、堂宇を悉く焼失したが、六十四年を経て宝暦三年に至り本堂、庫裏等を再建した。徳川氏から朱印地等の恩典があって、印田・油田等の地名はこれにもとづくと言われる。また本山からは別格の待遇を受けていた。当専寺(とうせんじ) 新庄町笛堂宗 派真宗興正寺派。本 尊阿弥陀如来(立像・木造)寺 伝 もともと真言宗で高野山妙蓮寺末で、宝王山善景寺と称したが、寛永九年住職照信は浄土真宗に転宗し、良如宗主から一養山当専寺の寺号を下賜されたという。寺宝として、後村上天皇と三社吹散と称する小旗が一流ある。聞名寺(もんみょうじ) 新庄町東室宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)寺 伝 もとは西の方春日神社の隣にあったが、明治三十年頃現地に移転。西念寺(さいねんじ) 新庄町西室宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)寺 伝 昭和八年の創建にかかる新しい寺である。光現寺(こうげんじ) 新庄町柿ノ本宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)円通寺(えんつうじ) 新庄町北花内宗 派真宗興正寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)本尊の脇檀に、宝永七年・本願寺から下賜された七高僧等の画像が奉掲されている。影現寺(ようげんじ) 新庄町柿ノ本宗 派高野山真言宗。山号を柿本山と号し、柿本神社の別当寺であった。はな本 尊十一面観音立像寺 伝 天安二年あるいは斎衡二年、真済の創立であるという。真済は空海の高弟、高雄の神護寺の住持。真済が自ら刻んだという真済僧正坐像がある。「大和名所図絵」には、「影現寺。柿本村にあり。宗旨禅、黄檗宗、本尊阿弥陀仏。柿本祠本堂の傍にあり」と記している。本堂にはほかに不動明王立像、弘法大師像などを安置。なお、当寺には旧笛吹大明神蔵大般若六百巻(現在は大字東室光現寺所蔵)があった。伝 説紀僧正・真済は、母親がある晩に室中に三級の塔を建てると夢見てから孕んで生まれた仏の申し子であるという。観音寺(かんのんじ) 新庄町北花内宗 派高野山真言宗。高野山金剛峯寺末本 尊十一面観音(立像)寺 伝 神亀四年行基菩薩の開基、光明皇后より花内山観音寺の寺号を賜ったという。本寺は柿本寺と並び多くの古文化財を蔵している。霊木の古伝あり。本尊像 昔、江州高島郡三尾の白蓮花谷に十余丈の楠があり、常に瑞光を放っていた。継体天皇の御代、洪水のために流されて、大津の里に漂着していたが、元正天皇の養老五年三月十八日、当花内の里に移ってきた。聖武天皇の神亀四年、天皇の初夢に異形の者数人が木を囲んで坐し、その中の一童子が蓋を持ってこの木を覆っている。木の元方に坐している老人は世の常ならざる様相であったので、「翁、何人ぞ」と、お尋ねになると、「江州高島郡三尾の神である。この木の守護のために眷属を引き連れて参った。その蓋をさしかけているのはこの地の守護神である。その請いによって当地に来た。」と答えた。天皇は夢から覚めて、ただちに道慈律師に命じて、霊木を加持せしめ仏工をして、十一面観音像三体を彫らせた。一体は本寺に、一体は長谷寺に、一体は高田の砂子寺に納められたという。本寺は柿本寺と並び多くの古文化財を蔵している。〈伝説の項 = 「楠の霊木で造った観音さん」を参照〉浄円寺(じょうえんじ) 新庄町北花内宗 派真宗興正寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)寺 伝 この寺は神明神社と一つの境内にあり、神宮寺として古くに創建されたと見られる。建物も仏像も江戸期のものである。光誓寺(こうせいじ) 新庄町南花内宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)光中寺(こうちゅうじ) 新庄町南花内宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀如来(立像)境内には古木があり、寺の古さを物語っている。十三重塔や五輪塔、宝篋印塔の残存が多く、それらの中には大永五年の刻銘のある地輪をはじめ室町から鎌倉時代に遡るものもある。忍海寺(おしみじ) 新庄町忍海本 尊観世音菩薩(角刺神社の境内にあり、宮寺とよばれていることから神宮寺であろうか?)光台寺(こうだいじ) 新庄町忍海宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)光蔵寺(こうぞうじ) 新庄町新村本 尊阿弥陀如来(立像)錫杖院(しゃくじょういん) 新庄町薑宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀三尊像由 緒 もとは葛上郡竹田村(現・御所市竹田)来迎寺を本寺とし、寺地はさらに東にあったというが、寛文三年の水害のために現地に移転されたという。浄信寺(じょうしんじ) 新庄町西辻宗 派浄土宗。本 尊大日如来(坐像)由 緒 もとは真言宗の寺であったということのほかは、これといったことが伝えられていない。境内にある石像物はかなり古く、室町時代以前と考えられるものも多い。仏像と併せて創立は古いものと思われる。浄土宗となったのは何時の時代か不明である。旗本水野石見守の霊屋(位牌)が祀られている。 廃藩置県の際に禄が少ないので、石見守は自刃した。寺の裏にその墓があり、「諦住院聴心義山大居士」とある。仏性寺(ぶっしょうじ) 新庄町脇田宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)念誦院(ねんしょういん) 新庄町脇田宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀三尊(立像)真行寺(しんぎょうじ) 新庄町梅室宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀如来(坐像)由 緒 もとは真言宗の寺であった。平岡極楽寺の隠居寺で、住職の墓と伝えられるものがある。本堂前の小堂の無縫塔は中興上人の墓であるという。信行寺(しんぎょうじ) 新庄町笛吹宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀如来(立像)一乗寺(いちじょうじ) 新庄町寺口宗 派浄土真宗本願寺派。もとは天台宗。本 尊阿弥陀如来(立像)・由 緒 延徳三年了準の創建にかかり、白馬庵と称した。元亀年中布施行盛が深く帰依し、太鼓を寄進。布施家没落に際し、本寺も兵火にかかり諸堂焼失の憂き目を見たが、所在僧あって、(文明五年)小堂を建て真宗に帰依し白馬山一乗寺と号した。延享四年に至って一雲法師、堂宇を再建し今日に至ったという。極楽寺(ごくらくじ)新庄町平岡宗 派浄土宗山号を平岡山と称する。僧行基の開基と伝えられている。本 尊阿弥陀如来三尊(坐像)由 緒 寺伝によると、行基菩薩の開基にかかるという。もとは真言宗であったらしい。延享五(1748)年の建立。元禄年間に(1688~1704)火災に遭遇。近年鐘楼改築に際し、応永元年五月吉日建立の旨を記した棟札が発見されたので、本堂もその頃の建築にかかると推測される。境内には、鎌倉時代末期の五輪塔や室町期の名号碑などがある。笛吹神社の北・大門ヶ谷の北側に平岡の集落がある。そしてこの周辺には、春光院・寿命院・称名院という地名がある。極楽寺を中心に大伽藍の寺院があったのであろう。僧行基が巡錫し各地にその事蹟を残しているが、ここ極楽寺はその内の随一といわれている名刹であったようである。法城寺(ほうじょうじ)新庄町山田宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀如来(立像)先年寺(せんねんじ)新庄町山田宗 派浄土宗。 新庄町梅室・真行寺の兼務寺である。本 尊阿弥陀三尊(坐像)浄心院(じょうしんいん)新庄町林堂宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀三尊(坐像)浄願寺(じょうがんじ)新庄町寺口宗 派浄土宗山号を布施山と称する。僧行基・あるいは文徳天皇の開基と伝えられている。本 尊阿弥陀三尊像自 伝 元亀年中に兵火にかかり堂宇を焼失。その後、難をのがれた地蔵菩薩を本尊として小堂を建立。延宝元年頌誉が現本堂を再建し、現本堂を再建し、阿弥陀如来を安置し再興をはかった。墓地に、永禄元年の年号の入った大きな板碑形名号がある。正道寺(しょうどうじ)新庄町葛木本 尊千手(十一面)観世音菩薩(立像)由 緒 現在は「庚申堂」とよばれている。現在の堂の南方の小字を大門、北を北浦西を西浦と称していることから、かなり壮大な寺院であったようである。林光寺(りんこうじ) 新庄町北道穂本 尊観世音菩薩ほか由 緒 この寺はその昔には慶雲寺の末寺であったが、現在は不明。現得寺(げんとくじ) 新庄町新庄宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)由 緒 慶長九年、行順の創建するところである。布施城主左京大輔行国の末葉孫右衛門ははじめ天台宗であったが、後真宗に帰依すること深く、蓮如上人の門弟となり法名・釈道光を賜わり、南今市に現徳寺を開基した。行順は道光から六代目の住職であるが、別にこの寺を建立したことになる。光円寺(こうえんじ) 新庄町弁ノ庄宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)置恩寺(ちおんじ)新庄町寺口宗 派高野山真言宗普門院末山号・寺号を医王山薬師堂置恩寺と称する。本 尊薬師如来(坐像) 十一面観世音菩薩(立像・木造・国重文) 歓喜天寺 伝 神亀年間、行基菩薩の開基で、文徳天皇の勅願所であった。その頃は数百の伽藍が立ち並ぶ巨刹であったが、元亀年中布施左京之進行盛の二塚城が陥ちた時に兵火にかかり諸堂焼失。その後桑山藩領となって、田園を寄進し燈明料とした。元禄年間僧深空が住し、堂宇を再建修復ししばらくその後を存することとなったという。置恩寺は、平岡の極楽寺の北の寺口という集落にある。この寺は戦国時代の興亡の中で淋しく一族の幕を閉じた布施族と運命をともにした寺である。 数奇の運命をたどった置恩寺は、無住寺となって既に七〜八十年になる。しかし、本尊十一面観音は重要文化財の指定を受けて今も健在である。伝 説 仁寿年間のこと、文徳天皇の玉体不予の時、聖窮悩窮宝算寝盡し給うて、医薬その験しなし、。この時、薬師如来医人の身に化して姿を現し給ひ、宮殿に詣でて琉璃宝の瓶を献ぜらる。天皇一たびこの壺薬を嘗め給うと、その味、甘露にして、その気醍醐の如くなり給い、忽ち心神蘇生するが如くであった。宿痾たちどころに癒え給う。天皇、医人に「汝何所の何者ぞ、汝の名は何と申す」と問い給ひまふに、医人答えて奏上す。「臣は和州寺口の里、医王山の薬師なり」と。そして忽ち紫金の身は白雲に駕して南へ向かって去った。これによって、医王の恩恵を報じ28ヶ村を寄附し、僧戸の食邑に封じられた。特に寺額を「護国置寺」と号して永く後世に残された。この置恩寺を通称「布施の薬師」という。慶雲寺(けいうんじ)新庄町大屋宗 派臨済宗南禅寺派本 尊千手(十一面)観世音菩薩(立像)由 緒 新庄町大屋の東部、竹内下市街道に面している。この寺は古くは、真言宗に属し二塚城の近くにあったが、城主布施行種が深く禅宗に帰依し、これを改宗。永正十三年三月にこの地に移転して、慶雲寺と号し、自らが開基となって、江戸から僧・梅渓を招へいし初住とした。爾来、布施氏の菩提寺となっている。近世以後、新庄藩主桑山氏の帰依するところとなり、この寺で創った丸薬「桑山丸」は、西大寺の「豊心丹」・矢田村の「万病丸」とともに、大和の代表的な丸薬となった。また、この寺の山門は、四脚門といい、布施氏の城門を移したものと伝えられている。伝 説大阪夏の陣の時、元和元年五月八日布施春行は大阪城に立てこもった。慶雲寺も敵軍にため災禍に遭い、僧は本尊・観世音菩薩を寺内の池に投げ込んで災禍を逃れた。その後寛永元年十二月二日、紀州和歌山から桑山修理亮一晴が屋敷山に城をかまえたとき御殿医足立三太夫が、ある日西の山の二塚の溜め池から不思議な煙霧の立ち上るのを見て、桑山公に相談し、池を調べてところ、観音菩薩像が出てきた。これを仏縁と大いに喜び、屋敷山の鬼門除けにと一宇を建立して安置した。これが今の慶雲寺だという。無量寺(むりょうじ) 新庄町北道穂本 尊阿弥陀如来(立像)西照寺(さいしょうじ) 新庄町南道穂宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)由 緒 この寺はもとは現得寺の下寺であったようであるが、文化三年・本願寺から本尊木仏将像を下賜され、西照寺の寺号を許されることとなった。称名院(しょうみょういん) 新庄町中戸宗 派浄土宗。本 尊阿弥陀如来(立像) 薬師如来伝 説 ここに祀られている薬師如来の尊像は、はじめ今の弁ノ庄の小山氏の火薬製造所付近に安置されていた。ところが、この薬師さんが「中戸へ行きたい」と告げられたので、今のところに移されたという。教善寺(きょうぜんじ) 新庄町中戸宗 派浄土真宗本願寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)正光寺(せいこうじ) 新庄町疋田宗 派浄土真宗興正寺派。本 尊阿弥陀如来(立像)慈光寺跡新庄町脇田脇田集落の西、脇田神社の傍らに塔の心礎が存在する。寺歴を確認する資料が残っていないが、大正元年大字笛吹の小字慈光寺の畑地から、礎石や奈良朝時代の古瓦などが出土したことから、ここを慈光寺跡と命名した。小字慈光寺を中心に大字脇田にかけて寺ノ前、戌亥の角、寺西、慈光寺畑、石段、墓山、大門などの小字が残っている。この寺については、大字笛吹の念珠院所蔵の「国分尼葛城山施薬院慈光寺由緒」に光明皇后が「天平六年脇田村西端に施薬院を建立。葛城山の一〇〇種の薬草を集め医療師を配し、貧病者を看病救病した」と伝えている。明応二年三月、本堂、施薬病処、中門、大門、三重塔などことごとく焼失したという。
七社神社 (ななしゃじんじゃ)新庄町笛堂祭 神少彦名命 天太玉命 天忍日命 天神立命 拷幡千々姫命 三穂津姫命社 殿神明造 銅板葺鰹木三 正面に向拝があり流れ造りのようにみえる。春日神社 (かすがじんじゃ)新庄町東室祭 神天児屋根命社 殿春日造檜皮葺、素木造、白壁塗りの土塀を巡らす。春日神社とは春日の神を祀る神社をいい、春日の神とは次の四座の神を指す。第一殿に「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」第二殿に「経津主命(ふつぬしのみこと)」第三殿に「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」第四殿に「比売神(ひめのかみ)」しかし、四座の場合も一座も場合もあるようで、いずれの神を祀っても春日 神社の名で呼ぶようである。(以下同様)春日神社 (かすがじんじゃ)新庄町西室祭 神天児屋根命武甕槌命経津主命比売大神社 殿流れ造銅板葺の小祠。西向。高い基壇を築き、白壁塗りの塀を巡らす。神明神社 (しんめいじんじゃ)新庄町北花内祭 神大日霎貴命由 緒 本社は往古から現在地に祀られていたが、元和元年・桑山美作守が三才山へ 遷座し、北花内ほか九ヶ村の氏神を合祀した。元治元年御陵修築に際し、古に 復し旧地に奉遷した。神明神社 (しんめいじんじゃ)新庄町北花内祭 神大日霎貴命(天照大神) 品陀和気命(応神天皇) 天児屋根命社 殿流造り、銅板葺き、彩色はないが凝った造りである。周囲を塀で囲んでいる。由 緒定かでないが、かなり古い創立と想像される。伝 説境内の中、神殿の横にある杉の木は、触ると祟られるという伝説がある。そ の昔、この杉の木を切ろうとして鋸を入れたところ、忽ち腹痛が起こり中止し たという。その時の鋸の目が今も残っているという。柿本神社 (しほんじんじゃ) 新庄町新庄祭 神柿本人麻呂 弁財天社 殿春日造と見られるが、正面唐破風という変わった建て方である。銅板葺朱塗。宝亀元年三月十八日の創建。祭神は柿本人麻呂。神社境内には、本堂3間×2間の寄せ棟造りの柿本寺とも呼ばれた影現寺がある。旧村社。社伝によると、宝亀元年石見で死去した人麻呂の遺骸をこの地に葬り、その傍に神社を建立したと伝えられている。社殿の左奥に人麻呂の墓と歌碑が建てられている。人麻呂を輩出した一族の本拠は、天理市の近くであるが、その分派が葛城山麓の柿本村に居住した。その一族の氏神を祀ったのがこの神社であるとされている。歌聖といわれる人麻呂の一生は、謎に包まれたままであるが、その生誕の地や終焉の地はもちろん父母さえわからない。しかしここ新庄町柿本は、人麻呂の生誕地といわれている。いずれも伝説の域を出ないので審議のほどは別として、ロマンのある話としていいのではないかと思う。歌碑の前に立つとき、何人も思いを馳せるであろう。いにしえのこの地の有り様に。そして、彼の人の不朽の名作に。春楊 かつらぎ山に 立つ雲の立ちても居ても 妹をしぞ思ふ 万葉集一一−二四五三伝 説「ぶどう柿」境内の鳥居の北側に筆柿というのがある。ブドウの実ほどの大きさの柿がた くさんなる。甚だ美味である。人麻呂が明石から持ち帰ったという話が伝わっ ている。〈伝説の項 = 「ぶどう柿」を参照〉笛吹若宮神社 (ふえふきわかみやじんじゃ)新庄町南花内 及び 新町、薑祭 神天香山命社 殿流造銅板葺素木造、三方向壁塗築地南花内の境内に庚申堂・辻堂がある。厳島神社 (いつくしまじんじゃ)新庄町南花内祭 神市杵島姫命 地元では、本社の御神体は白蛇であるといわれている。社 殿春日造銅板葺素木造、三段の壇上に立てられている。社殿の前後に椋の老木がある。西辻神社 (にしつじじんじゃ)新庄町西辻祭 神大巳貴命少日方那命社 殿切妻造銅板葺素木造、三方向壁塗築地脇田神社 (わきたじんじゃ)新庄町脇田祭 神菅原道真天照皇大神市杵島姫命社 殿春日造檜皮葺木部朱塗造、覆屋あり。三方白壁塗築地鳥居の傍の大きい立派なガラン石(礎石)がある。平にした上面の中央に円形の穴がある。神社の西の地は字「じこう寺」といい、この礎石の大きさからかなり大きな寺院があったと推測できる。梅室神社 (うめむろじんじゃ)新庄町梅室この神社は真行寺の裏手にあり、笛吹神社に合祀されたという。現在、春日 造りの小祠があり、八坂神社と月枝神社が祀ってある。由緒は明らかでないが、もとは現在地より東方にあったという。笛吹神社 (ふえふきじんじゃ)新庄町笛吹祭 神天香山命火雷神社の相殿に祀る。由 緒本社社殿の奥に古墳の石室がみえる。新撰姓氏録に「笛吹連火明命之後也」 とあることから、笛吹連の祖先を祭ったものであろうか。笛吹神社末社空室神社(火須勢理命)森本神社(天宇須女命)浅間神社(神吾田葦津姫命)葛木坐火雷神社 (かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ)新庄町笛吹祭 神火雷神天香山彦命(脇殿)大日霎貴命天津日高彦日瓊瓊杵命 天香山命高皇産霊神社 殿神明造檜皮葺、大正九年の建築。もと郷社。由緒の古いことは言うまでもないが、中世に衰微し、笛吹神社の末社となっていたが、明治七年三月十八日笛吹神へ合祭。郷社火雷神社と改称した。尾張族は、皇祖神のひとりである火明神を祖神として祀っている。それが葛木坐火雷神社である。この神社の鎮まるところを笛吹という。通称「笛吹神社」という。火雷神社は、もちろん名神大社の列せられた神社である。そしてこの神社ほど神厳さを湛え、風格を備えた神社は全国的にも稀であると評されている。この笛吹とは、朝廷で笛吹(錬鉄)を嘱したことから笛吹連となったことによって称せられたまであろうと考えられる。そして神社の一隅に植えられている波々迦木(ははかき=朱桜)は、天皇の即位の儀式にかかせない木で、歴代天皇が即位される都度に、この神社から宮中に奉献されていた。また、神庭の一隅に、十五珊の加農砲(大砲)が、腰を据えている。日露戦役の戦利品であるとのことである。戦後、一般に見ることがないであろう大砲が、神社境内に置かれているのも、珍しいことである。日本の歴史のひとこまがここでは止まってしまっている気がする。三神社 (さんじんじゃ)新庄町山田祭 神伊邪那岐命大山昨命豊受姫命社 殿切妻造桟瓦葺妻入建松高神社 (しょうこうじんじゃ)新庄町山口千年寺の西にあり、道路傍であるが入口がわかりにくい、杉皮葺切妻造りの覆屋の中に流れ板葺きの小祠が二社祀ってある。氏神さんと稲荷さんであるという。為志神社跡 (いしじんじゃ)新庄町林堂祭 神伊古比都幣命林堂集落の北にあり、社殿・拝殿ともになし。跡地に為志神社遺跡の石碑・小祠・石燈籠などが残る。明治四十三年に葛木坐火雷神社相殿に合祀。大宝天皇神社 (たいほうてんのうじんじゃ)新庄町南藤井祭 神素盞鳴尊大名持命社 殿三間社流造銅板葺素木造由 緒大正十二年大山祇神社を当社に合祀した。五社神社 (ごしゃじんじゃ)新庄町寺口祭 神八幡大神伊邪那岐神天照皇大神素盞鳴大命春日大神由 緒もと置恩寺の鎮守であったが、元亀年間布施行盛の二塚城陥落に際し、兵火 にかかり焼失。元禄年間に至り、深空なる僧置恩寺再興にあたり、本社を鎮斎 したという。古老の伝えるところによると、紀州侯病気平癒を祈って霊験あり、 よって田畑を寄進したという。古来厄除けの霊験あって、帰依信仰する人多く、 悪疫流行の時には遠近からの賽者が少なくないと伝える。伝 説神亀年中、行基菩薩が開基した文徳天皇の勅願所といわれ、置恩寺の鎮守神 であった。ところが、元亀年間に布施左京進行盛が二塚城落城の時に災火にか かり伽藍・僧坊ともに焼失。本堂のみが焼け残った。元禄年中沙門・深空なる 僧が半焼の堂宇を修復し、この神社も鎮守神として再び祀った。古老によると、紀州大納言頼宣公が病気平癒の祈願をしたところ忽ちにして 癒えたという。その奉賽として田三反余を寄進され永く信仰されたと伝える。当社は、災厄除邪の霊験あらたかで帰依者多く、疫病流行の時は遠近からの 賽者も多い。博西神社 (はかにしじんじゃ)新庄町寺口祭 神下照姫命菅原道真旧村社で、寺口・大屋境界の鬱蒼とした森に鎮座。神社東方一帯から弥生時代の遺物が出土。本は倭文(しどう)神社とも称した。かつては天羽雷命を祀っていたが、大永年間布施安芸守行国が、菅原道真を祀って二座とし、、明治初年に天羽雷命を下照姫命とした。「経覚私要鈔」文安四年二月一八日の条に、「於布施墓西有猿楽」とあるのは当社のことか。葛城安位寺の僧らが、この猿楽を見物しており、中世には布施氏の庇護のもとに奉斉された。慶弔六年桑山氏入部後、社勢は同氏氏神の諸鍬神社に押されて、当初十五村にわっ ていた氏子も大屋・寺口の二村となった。葛木御県神社 (かつらぎみあがたじんじゃ)新庄町葛木祭 神天津日高子番能瓊瓊杵命天剣根命(明治年間に追祀)社 殿春日造銅板葺大字新庄と大字葛木の境に鎮座。旧桑山村の鎮守として、現在地より東100mの所の八王山西光寺境内にあった。延宝八年藩主桑山一尹が、北花内村の三才山に諸鍬神社を遷祀した際、領内十か村の鎮守も末社とし遷座。この神社も同所に移された。元治元年に三才山を飯豊青皇女埴口墓として修理することとなり、明治二年当社は式内社として復祀された。しかし、旧地には西光寺があるため現在地に決定した。西光寺と神社の関係は不明。(大和志料)葛木県は、蘇我氏の本居で、葛木御県は大和六御県の一で、その守護神である御県神は葛下郡に鎮座。「延喜式」神名帳には「葛木御県神社」とみえる。厳島神社 (いつくしまじんじゃ)新庄町南花内祭 神市杵島姫大神大宝天皇神社のすぐ北に円墳状の丘があり、その上に祀られている。地元で は「弁天さん」と呼ばれており、四月七日祭りが行われる。金村神社 (かねむらじんじゃ)新庄町大屋祭 神大伴金村社 殿春日造に小祠古老の談によると、もと本社の境内は頗る広大で、方八町に及んだという。脇田の神社にある大石は本社の鳥居・燈籠の台石であるという。伝 説大伴金村は仁賢天皇崩御の時に武烈天皇をたてて大連となった。武烈天皇崩 御の時は北陸へ行き、皇族大迹王を伴って帰り、それをたてて継体天皇とした。 奏請して手白香皇女を納れて皇后とした。その大臣となり勢力があったが、後 に新羅の戦に破れ、人望が落ち、故郷に帰り病と称して朝廷に出仕しなかった。 けれども仁賢・継体・安閑・宣化・欽明の六朝に歴事したので、死後「大明神」 として祀られたのが今の金村神社であるという。日暮鎮座神社 (ひぐらしちんざじんじゃ)新庄町大屋祭 神日久良志神大屋の集落の田圃の中に巨樹あり、そこが本社である。社殿・拝殿ともになし。地元では、「ひぐらしさん」といえばよく知られている伝 説 空海が若いころに学問したところという。住吉神社 (しんめいじんじゃ)新庄町新庄祭 神表筒男命中筒男命底筒男命もと「ケナイ」と称する地があり、桑山氏が埴口陵地へ遷座し、元治元年再 び旧地へ遷座。西宮神社 (にしにみやじんじゃ)新庄町北道穂祭 神事代主大神社 殿屋根流造銅板葺、素木造。竹生島神社 (ちくぶしまじんじゃ)新庄町南道穂祭 神宇賀御魂命稲生神社 (いなぶじんじゃ)新庄町北道穂祭 神保食神厳島神社 (いつくしまじんじゃ)新庄町弁ノ庄祭 神市杵島姫大神諸鍬神社 (もろくわじんじゃ)新庄町弁ノ庄祭 神品陀和気命息長足比売命玉依比売命弁ノ庄の北に鎮座し、宇佐八幡とも称した。旧村社。社伝によると、領主桑山氏は産土神とする本貫地尾張国海東郡神守城下鎮座の式内社諸桑神社を勧請・遷座した。桑山一晴も新庄に入部するに及び、弁ノ庄に峯遷した。延峯八年藩主桑山一尹は、当社を北花内村の飯豊青皇女の墓といわれる三才山に遷祀し、社名を宇佐の社とした。しかし天和二年に桑山一尹は改易され、元治元年の山陵修理に際して旧地に復祀した。稲荷神社 (いなりじんじゃ)新庄町中戸祭 神宇賀御魂命神明神社 (しんめいじんじゃ)新庄町寺口祭 神天照皇大神調田坐一事尼古神社(つきだにいますひとことねこじんじゃ) 新庄町疋田祭 神一事尼古命 事代主命疋田集落の中央に鎮座、近世には「春日神社」と称したこともある。「延喜式」神名帳に「調田坐一事尼古神社大・月次新祭」に治定。一事尼古の神名については不詳だが、一言主神と考えられている。。鎮座地の小字を堂ノ内といい、永勝寺という寺があったと伝えられるところから、神社近傍に神宮寺の存在が推察されるところである。春日神社 (かすがじんじゃ)新庄町薑祭 神天児屋根命角刺神社 (つのさしじんじゃ)新庄町忍海祭 神飯豊青命忍海集落の東入口、安位川北岸に鎮座。旧村社。創建・成立は不明。「大和志」には「角刺宮」として「在忍海村、清寧天皇崩、皇子億計弘計兄弟以位相譲、十有月姉飯豊尊聴政於此、今村民建祠祭之、城内有寺号忍海寺」と記し、享保年間の鎮座を確認。境内には神宮寺であったと思われる忍海寺(浄土宗)があるが、現在無住。
行者堂 新庄町桑ノ町1丁目本堂は桑ノ町の民家の櫛比したところにあって、切妻造瓦葺きの堂で、傍の公孫樹があるのですぐ分かる。ここの行者像はもとは道穂領と花内との境にあったという。役行者像は方柱状の石材に浮彫してあり、積石三段の上に安置されている。この像は、善神講が文政六年正月に造ったもののようである。台座の下部及び側面の銘によると、次のように記してある。第一段の台石に「大峰山上 八十八度 奉供養 二世安楽」、大二段に「石橋願主大阪杉岡屋半兵衛 新庄中 三歳山氏地中」と刻してある。この石橋とは次にいう七橋であり、山歳山とは飯豊天皇陵のことである。七橋通称「行者橋」といわれている。高田川上流に架けられて石橋で、その往還は高野街道で、大峰へも通じるものである。橋はたいこ橋の形態で、花崗岩の石柱三列三個ずつ相並ぶ。各々石柱の上部両端にはもと袖形がつけてあった。この橋は大阪の杉岡屋半兵衛が架したことは前述の如くである。行者講の宿屋大峰参りの行者は、大阪方面から竹内峠を越えて新庄に南下し、高野街道から大峰へと向かった。しかし明治三十五年の頃、統治に県道が開通してからは大峰参りが衰えたという。行者講の人々が宿泊した宿は当地に「あらたき」「すまさ」など四軒があったという。「あらたき」は代々荒滝清兵衛を襲名し、大阪三郷の山上講や左海郷の講中の定宿であった。その看板や接待した盆などが遺っている。現在、田中氏の住居で、土間・井戸・風呂場などそのまま遺し、中央部が庭園となっていて、その山水に往時を偲ぶことができる。行者斎場 新庄町中戸この斎場は俗に「行者さん」と称され、檜の大木が聳えている。ここに石灯一基が建てられ「大峰山文化七丙午年四月吉日」と刻してある。毎夏大峰登山に際して、先達以下行者が相集まり、ささやかな祭事をなして出立するという。
金石文年表
年 号 |
西 暦 |
名称 |
所在地 |
文永 |
127− |
(影現寺梵鐘) |
柿 本 |
正応 元 |
1288 |
柿本大般若経筥 |
柿 本 |
応永22 |
1415 |
福薗寺春日者社石灯籠竿 |
西 辻 |
寛正 4 |
1462 |
光中寺五輪塔残欠 |
南花内 |
明応 7 |
1498 |
法城寺五輪塔 |
山 田 |
文亀 2 |
1502 |
置恩寺石灯籠 |
寺 口 |
永正15 |
1518 |
慈光寺五輪塔 |
脇 田 |
大永 5 |
1525 |
光中寺五輪塔相輪 |
南花内 |
天文 2 |
1533 |
光中寺背光五輪碑 |
南花内 |
天文 7 |
1538 |
博西神社本殿羽目板 |
寺 口 |
天文10 |
1541 |
薬師堂五輪塔相輪 |
中 戸 |
天文22 |
1553 |
柿本大般若経唐櫃 |
柿 本 |
天文23 |
1554 |
光林寺五輪塔 |
疋 田 |
天文23 |
1554 |
和田正一氏邸五輪塔 |
新 庄 |
天文24 |
1555 |
称名院一石五輪塔 |
中 戸 |
永禄 元 |
1558 |
浄願寺板碑型名号碑 |
寺 口 |
永禄 3 |
1560 |
浄願寺一石五輪塔 |
寺 口 |
永禄12 |
1569 |
浄信寺阿弥陀石仏 |
西 辻 |
天正12 |
1584 |
五輪塔地輪 |
大 屋 |
慶長20 |
1615 |
浄願寺背光五輪名号碑 |
寺 口 |
新庄町は、歴史的に見てかなり古い土地であるが、金石文資料については割に知られていない。上表のものは町史編纂時に発掘されたものが多い。
金鋳山古墳 (かなゆやまこふん)新庄町中戸中戸の西方の山中に所在する円墳で、周径15m前後の小円墳が7基あまり点在する。昭和八年以後の開墾によって円筒埴輪輪列が確認され、また形象埴輪片などが採取された。埋葬施設の発掘調査はされていない。寺口千塚古墳群 (てらぐちせんづかこふんぐん)新庄町寺口二塚古墳から谷を隔てた北の尾根上に、約60基の古墳が営まれている。ほとんどは10〜20mの小円墳であり、石材の抜き取りによって破壊されていて、内部構造が明らかなものはほとんど無い。寺口和田古墳群 (てらぐちわだかこふんぐん)新庄町寺口小字和田に点在する12基の古墳群をいう。古墳群中最大の1号墳は径24m、高さ3.5m墳頂部墳丘裾部とに円筒埴輪輪が確認され、墳頭から家形埴輪が出土した。主体部は木棺を直葬、南北に二棺が併葬されていた。二塚口古墳 (ふたつかぐちこふん)新庄町寺口寺口集落から葛城山よりの尾根上に営まれた古墳、通称銭取塚といわれている。この古墳の石室は、全長16,41m、幅2,98m、高さ4,1mと大規模で、自然石を積み上げた両袖式のものである。前方部の石室・玄室は後円部のそれのほぼ二分の一の規模で、入口より奥壁に向かって左側に袖をもつ片袖式の形式である。造出部の石室は、小型の狭長な玄室の南側に特殊な羨道を付設したものである。古墳の形式は出土品から6世紀中葉から後半にかけての築造と思われるが、後期の前方後円墳としては県内でも代表的なものである。布施城跡 (ふせじょうし)新庄町寺口寺口西方、葛城山中腹に郭・土塁・石垣が残る。麓に二塚古墳があるので二塚城ともいう。布施氏の居城跡で、同氏は置始氏の末裔と伝えられる。至徳元年の長川流鏑馬日記にみえる一条院方国民、平田庄八荘官の一人として知られる。永正三年の国判衆一二氏の中に布施氏行き国の名がみえる。永禄八年筒井氏を布施城に迎え、松永方の高田氏を攻略したので、奈良にいた布施氏の人質が殺された。寺口の置恩寺に置始氏が寄進した石灯籠がある。新庄陣屋跡 (しんじょうじんやあと)新庄町新庄慶長六年、和歌山城主より転封された桑山一晴が、屋敷山古墳周辺の布施氏居館跡に陣屋及び家臣団の屋敷を改築した。陣屋は通称屋敷山と呼ばれる地に東面し、藩士屋敷は陣屋の東・西・北に構えられた。屋敷山については桑山法印新庄村入部覚え書き残簡に「元新庄邑ハ屋敷畑ヨリハコノタニへむけて在之候也」とあり、現在、小字屋敷祉・箱ノ谷が残る。一晴の後、弟一直が慶長九年に遺領を受け継ぎ、四代一尹の時、天和二年五月二六日不敬により改易された。延宝八年、十万石永井尚政の孫直円が一万石の所領を大和の内に与えられ、桑山氏改易後新庄に陣屋を構えた。永井氏は定府大名であったがその陣屋を文久三年に新庄の南方の所領である倶尸羅村に移し廃藩置県に至った。屋敷山古墳 (やしきやまこふん)&屋敷山公園 新庄町新庄葛城山東麓、大字新庄と大字大屋との境界にあって、江戸時代初頭に桑山氏の居館が設営されていたことから、屋敷山の称がある。もともと此の地には、大規模な前方後円墳が築かれていたが、貯水施設工事によって墳丘は破損解されたが、古墳の輪郭はほぼ原形を保っている。この古墳は北北西に前方部を向け、全長約145m、後円部経80m、高さ12m、前方部の幅約110m、高さ11m東側には周濠の跡と見られる池が存在している。被葬者は不明である。この古墳からの出土品は中央公民館に展示されている。現在この地は公園として整備され、町民の憩いの地となっている。神塚古墳 (しんづかこふん)新庄町南藤井南藤井の上池の南側にあって、古くからコウ塚(神塚)と呼ばれていた。その大部分は削平され畑地となっている。古墳であったと確かめられたのは最近になってからのことである。北北西に前方部を向ける全長約90m、前方部の幅約40m、と推定される。谷を一つ隔てたところに位置する屋敷山古墳に次ぐ規模の、中期の前方後円墳ではなかったかと注目されている。笛吹神社古墳 (ふえふきいんじゃこふん) 新庄町笛吹笛吹神社の本殿のすぐ裏に位置している。この付近は笛吹連の本拠地といわれ、神社はその祖神を祀られているというが、古くから古墳と神社の関係を考える際にしばしば引き合いに出される著名な古墳である。古墳は直径20mの円墳で、横穴式石室がほぼ南に向いて開口し、玄室内には凝灰岩の家形石棺が納められている。家形石棺の形式としては比較的古いものであることから6世紀前半の築造と考えられている。この古墳が存在している同じ丘陵の西には、二基の前方後円墳と七〇基余りの円墳が確認されていて、笛吹古墳群とよばれている。山口千塚古墳 (やまぐちせんづかこふん) 新庄町山口笛吹神社の裏山から西に連なる丘陵地に、合計約100基ほどの古墳が集積している。これを山口千塚古墳という。やや破壊が進んでおり今後に学術調査が待たれる。
石見田(柿本)昔、柿本村に柿本宗人という者あり、朝廷に仕えて石見の国の国守となった。任 地で管内を巡視中に、同国戸田郡野邑に綾部と呼ぶ歌をよくする姫がいた。宗人は この姫を寵愛したが、竟に野合の恋が成り、綾部は玉のような男の子を産んだ。これが人麻呂だった。のちに宗人が任を終えて帰国したが、綾部と人麻呂は石見 にとどまり、綾部は百歳の長寿を保った。人麻呂は性慧敏で、母の私淑を享けて和 歌をよくし、母の在世中は孝養を尽くしたが、母の死後初めて任官の志を立てて、 父の郷里柿本村に帰った。柿本には今なお、石見田と称する人麻呂来住の地という のがある。ちんぽんかんぽん(柿本)柿本人麻呂の愛人の依佐良姫は、柿本村生まれで、人麻呂と恋に落ち、晩年同棲 して柿本村で逝去した。姫の墓は柿本から東に十数町を距てる根成柿の天満神社の 神苑内にあり、柿本神社とともに毎年三月十八日に「とんぽんかんぽん」と称する 祭典が行われている。柿本神社と天満神社とは、坑道が通じ、人麻呂と依佐良姫との切れない恋が死ん でからも通っているのだと伝えている。人麻呂に再従弟の真済僧正がわざわざ高雄山を出てこの地に柿本山影現寺を開基 し、隠棲したのも人麻呂追弔のためだという。ぶどう柿(柿本)柿本神社の鳥居の北側に筆柿という種の柿がある。ぶどうの実の大きさで沢山な り、甚だ美味である。人麻呂が明石から持ち帰ったものだという。楠の霊木で造った観音山(北花内)昔、江州高島郡三尾の白蓮花谷に十余丈の楠があり、その楠は常に瑞光を放ち、 異香を薫じていた。継体天皇の御代、この楠が雷雨と洪水のために流されて、志賀 郡大津の里に漂着していたが、元正天皇の養老五年三月十八日、当花内の里に移っ てきた。ここにあること七年、聖武天皇の神亀四年、天皇の初夢に異形の者数人が木を囲 んで坐し、その中の一童子が蓋を持ってこの木を覆っている。木の元方に坐してい る老人は世の常ならざる様相であったので、「翁、何人ぞ」と、お尋ねになると、「江 州高島郡三尾の神である。この木の守護のために眷属を引き連れて参った。その蓋 をさしかけているのはこの地の守護神である。その請いによって当地に来た。」と 答えた。天皇は夢から覚めて、ただちに道慈律師に命じて、霊木を加持せしめ仏工をして、 十一面観音像三体を彫らせた。一体は本寺に、一体は長谷寺に、一体は高田の砂子 寺に納められたという。(納められた先には異説もある。)寺口千軒(寺口)「寺口千軒」とは、その昔千軒の家があって、布施城の城下町として賑わった町 であった。布施城は通称「本台」という。布施氏の拠ったところで、頂上に三段の 平坦地と石垣の一部や桜並木の古木がその名残を留めている。また城の柱石・石垣 ・馬屋・調練場跡がある。大屋の慶雲寺の山門「四つ脚門」は、この布施城の城門であったが大阪夏の陣の 兵火を免れて、寺門として移したものである。鉄砲塚(南藤井)昔、この塚を掘ると金の鎧・兜をつけた侍の棺が出てきた。ほかにも色々なもの が出てきたが、刀を火打金にして分配した。するとそれを持っている者が首をつっ たり不慮の事故にあったりした。それから後村人が帯にものを吊っていると「藤井 の首吊り」と冷やかされたという。狐釣り(弁ノ庄)昔、新池のほとりに狐穴が多くあってよく化けて出た。そこで屈強な若者数人が、 油一合に鼠一匹を入れて、七輪で煮立てていると、そのいい臭いに誘われて、狐が 女に化けて出てきて、「お前の父親が急病だから早く帰りなさい」と告げた。騙さ れてなるものかと相手にせずに若者たちは互いを紐で結び合って狐に連れて行かれ ないようにと頑張った。その女は、その家の名や親類の名まで告げ何とか帰さんと したが、その手に乗らなかった。そのうちに急に村の方で火の手が上がった。あま りのはげしさにうち驚き、若者たちが帰ってみると、村には一向に火の手らしきも のがなく、騙されたと判って、元の場所に引き返してみると、油で炒めた鼠は取ら れていたという。雷の落ちない井戸(北道穂)昔、北道穂の光林寺の井戸に雷が落ちたという。村人がすぐに蓋をした。それ以 後、両道穂には雷が落ちないという。もと道穂は北方と南方に分かれていたという。布施の薬師(寺口)仁寿年間のこと、文徳天皇の玉体不予の時、聖窮悩窮宝算寝盡し給うたが、医薬 その験しなし、。この時、薬師如来医人の身に化して姿を現し給ひ、宮殿に詣でて 琉璃宝の瓶を献ぜらる。天皇一たびこの壺薬を嘗め給うと、その味、甘露の如くに して、その気醍醐の如くなり給い、忽ち心神蘇生するが如くであった。宿痾たちど ころに癒え給う。天皇、医人に「汝何所の何者ぞ、汝の名は何と申す」と問い給ひまふに、医人答 えて奏上す。「臣は和州寺口の里、医王山の薬師なり」と。そして忽ち紫金の身は 白雲に駕して南へ向かって去った。これによって、医王の恩恵を報じ二十八ヶ村を寄附し、僧戸の食邑に封じられた。 特に、寺額を「護国置寺」と号して永く後世に残された。この置恩寺を通称「布施寺」という。