難波の「難波の堀江」


和光寺あみだ池の放光閣(難波の堀江)

第一章

自分が「難波津」というサイトを立ち上げようと考えたきっかけは、是非ともこれをネット上で公開したかったからです。

仏教が伝来した直後、物部氏が蘇我氏が崇拝する仏教の廃絶する為日本に入ってきた仏像第一号である 佛像を蘇我氏から奪い、「難波の堀江」に捨てたと書紀に書かれている。

「難波の堀江」、これは明日香にもありますが実は大阪にも2ヶ所があります。
私の家の近くの小さな飛鳥。

いつも空気のような存在だったその場所が飛鳥との関わり合いがあるかもしれないという事がわかると
その日からそこは私の聖地と化するのであった。

前置きはそれぐらいにして話すとしますか。

冬十月に、百済の聖明王(またの名清王)釈迦佛の金銅像一体・幡蓋和若干(はたきぬがさそこら)・ 經論和若干巻き(きゃうろんそこらのまき)をたてまつる。
「日本書紀・欽明天皇」


人皇三十代欽明天皇御位十三年壬申十月十三日初めて百済国より善光寺如来攝津の国(摂津の意)
難波の浦に来らせ玉うなり其由来をたつぬるに
聖明王より第九代推明王まで凡千十二ヶ年の間如来を供養ありしがこの時に當て如来推明王に告て曰く吾日本に因縁ありはやく日本へ
おくるべしとこれにより推明王より是非なく如来をこの日本に送り奉る。
「阿弥陀池畧縁記・攝州大阪難波堀江和光寺蔵版」


日本にはじめて仏教が伝来したシーンです。
それまで、日本には神道を重んじ、記紀にも神の話からはじまる。
そこにあらたに異国の宗教が入ってきては混乱するのは当然。

しかし、異国になめられない為には大陸の宗教を取り入れなければとの思いも強かったのでしょう。
事実、仏教を通して建築技術、鋳造技術他多くの大陸の技術、文化、法が急速に流入してきたのは仏教の力なしには
このよに急速には入ってこなかったでしょう。

群臣(まへつきみたち)に歴問(となめと:一人一人つぎつぎに問う)ひて曰(のたま)はく、
「西蕃(にしとなりのくに)のたてまるれる佛のかほきらぎらし。全(もは)ら未だかあつてあらず。
禮うべきか不や」とたまふ。
「日本書紀・欽明天皇」


天皇が臣達に仏教を祭るべきかどうかを一人一人に聞いてきた。

蘇我大臣稲目まうして曰さく、「西蕃(にしとなりのくに)の国々、一(もはら)に皆敬う。豊秋日本(とよあきづやまと)、
あにひとり背(そむ)かむや」とまうす。

物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じくまうすて、曰さく、「我が国家(みかど)の、天下に王とましますは、つねに天地社につやしろの
百八十神(ももあまりやそかみ)を以って、春夏秋冬、祭りたまうことを事とす。まさに今改めて蕃神(あたしくにの神)を拝みたまはば、恐らくは
国神(くにつかみ)の怒りを致したまはむべし」とのたまふ。「日本書紀・欽明天皇」


発展の為には伝統をも捨てるポジティブな曽我氏と大和魂の強い伝統重視でネガティブな物部氏の対立です。
曽我氏には仏教を取り入れる事による将来的な国家のビジョンが見えていたのでしょうか?
その一方物部氏には異国に対する反感しかいだけなかったのだろうか?仏教を取り入れる事による将来的ビジョンもわかって
反対していたのでしょうか?
当時の韓国史を見てみると韓国でももうすでに戦国時代が始まっていました。
城壁に囲まれた城、そして戦争の戦術をはじめ当時の日本人には向こうにわたると
カルチャーショックもいい、大陸と戦争ともなればひとたまりもないのは明らか。

例え異国と戦争をしなくても、自分の豪族が異国の文化を取り他の豪族よりリードすれば
日本の国家の実権はにぎれたも同然と蘇我稲目は考えたのだろうか、仏像は蘇我稲目の手に渡る事となる。曽我氏にビッグチャンス到来!!

大臣、ひざまずきて受けてまはりて喜ぶ。小墾田の家に安置せまつる。
向原の家を清め払ひて寺とす。
「日本書紀・欽明天皇」

テラという言葉は朝鮮古語からきているのだが、向原清原宮とはここから語源がきていたんですね。
現在の豊浦寺の地下には清原宮後が眠っていてその一部は今でも見れるようになっているのだが、
そのすぐ隣、目と鼻の先に明日香の「難波の堀江」が存在する。


向原清原宮(春兎さん提供)

次回「難波の堀江」「和光寺」につづく。お楽しみに。