興福寺は和銅三(710)年、元明天皇の平城京遷都と共に創建されたことになってます。元々は藤原鎌足の病気平癒の為に天智八(669)年創建された山階寺が移されたものです。藤原氏が檀越(在家信者、檀家のことです)となってたおかげで藤原氏の氏神である春日社と結びつき、平安時代には相当な勢力を持っていたようです(『源平盛衰記』には延暦寺と興福寺の僧兵は11世紀末、院政を始めることになる白河上皇をして「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随はぬ者」とまで言わさしめたと書かれています)。鎌倉・室町時代にも大和国支配を幕府から任されるほどの力を持ち、江戸時代にも春日社と併せて2万100石という大名クラスの知行を安堵されていました。しかし慶応四(明治元=1868)年の神仏分離令で春日社と分離されて極度の混乱に陥り、追い討ちをかけるような廃仏毀釈で一気に衰退してしまい、再興できたのは明治十四(1881)年からでした。平成十(1998)年12月2日、 「古都奈良の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。

それにしてもなぜか鹿が一匹もいませんでした…
南円堂です。西国三十三所観音霊場第九番札所となってます。弘仁四年(813)にあの藤原冬嗣が父追善のために建てたもので、鎮壇には弘法大師空海が関わったようです。ここも例に漏れず焼けてしまい、現在の建物は寛保元(1741)年のものです。

仮金堂周辺の復元状況です。要するに何にもありません。昔の興福寺を御存知の方はあれって感じられるかもしれませんが、中金堂が無くなってます。中金堂はもともと文政二年(1819)に、仮再建されたもので、本当はその後に本格的な再建をしようとしたのですが経済的に進展せず、更に輪をかけた明治の廃仏毀釈で止めを刺され、今日まで再建はされませんでした。興福寺創建1300年にあたる平成二十二(2010)年に向けて調査・再建が行われていく予定で、落慶法要は盛大に挙行されることでしょう。
廃仏毀釈のときに50円で売り飛ばされそうになった五重塔。ちょうど塔内部の一般公開のときだったので、受付のテントが塔の前に設置され撮影の大きな邪魔になりました(まぁ中に入れてもらえるんですからいいんですけどね)。
塔の内部です。もちろん内部の撮影は禁止ですので、しっかり外から撮らせていただきました。内部には薬師、釈迎、阿弥陀、弥勒の各三尊像(写真は出入り口として開放された東側の入り口で、薬師三尊です。ちなみに南は釈迦三尊、西が阿弥陀三尊、北に弥勒三尊が安置されてます)。
宝物殿では何と天龍八部衆像が全員そろって公開されていました。もちろん館内の撮影は禁止ですので、会場を出て廊下から撮影しました…(詭弁かな?)。奈良時代の乾漆像としては最高峰の作品です。個人的には阿修羅像(左端)と迦樓羅像(その右隣)が好きなんですが、幸い一枚に収まってくれました。さらにその右隣は鳩槃茶(クバンダ)、そして畢婆迦羅(ヒバカラ)と続いてます。もちろん画面外(要するに奥の方)に五部浄・乾闥婆・緊那羅・沙羯羅もおわします。また山田寺仏頭にもお目にかかれました。
国宝東金堂です。神亀三年(726)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造立されたものですが、例によって兵火に消え、応永二十二年(1415)に再建されたものが現在に残っているのです。本尊は薬師三尊です。
現在南大門とともに再建作業が進んでいる所に残っている仮金堂です。昭和五十(1975)年に造られたもので、元々ここには講堂がありましたが享保二(1717)年に焼失以来そのままになっていました。
国宝北円堂です。ここも特別一般公開されました。養老五(721)年に元明・元正天皇が、あの悲劇の皇子長屋王に命じて建てさせたものです。治承四(1180)年に兵火で焼け、承元四(1210)年頃に再建されたものがこれです。
かの有名な無著像でございます。もちろん撮影禁止ですので堂外から…。
無著は北インドはガンダーラのプルシャープラの方で、仏滅後1000年の後バラモンであったキョウシカの長男として生まれました。後出家して、神通力を以って兜率天に至って弥勒菩薩の下で大乗空観を受け大乗瑜伽の教えを説きました…と調べつつ書いてても何のことかよくわからん…それでもこの仏像が有名なのは…運慶ら慶派仏師の作になるため、やたらと鎌倉文化の代表作として覚えさせられる羽目になるからです。受験生達も誰なのかよくわからん像を覚えさせられるその哀れな身をただただ恨むだけでしょう…
もちろん撮影は…。中心の金色の仏像は弥勒如来で無著像を始め、この北円堂の諸仏は承元二(1208)年12月17日から造り始めたらしいです、もちろん運慶の作です。左は世親像で、無著の弟です。ただ弟である宿命か、教科書や参考書レベルでお目にかかることはほとんどありません…
興福寺十三鐘(菩提院大御堂)は奈良時代の僧玄ム(?〜746)の創建と伝えらています。しかし治承四年(1180)年、平重衡の兵火により焼失。鎌倉期に再建されたが天文元(1532)年にまた焼失。そして天正八(1580)年)に再建されたものが現在に残る堂です。
やっぱり撮影は…御堂の中は本尊は重文の木造阿弥陀如来座像、脇侍に観世音菩薩立像と勢至菩薩立像、その他に不動明王座像や、朝近上人感得の秘仏稚児観音が安置されています。ただ中は鉄筋の建物のような風情で、何となく興ざめしました。
猿沢の池から興福寺を望みました。いつ見てもこの位置からの景観はすばらしいです。約450年前、興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄がこの猿沢の池に浮かぶ三日月を突き、十文字鎌槍を創始したと伝えられています。ピンと来た方もおられるでしょう。これこそ宝蔵院流槍術誕生の瞬間です。
第二回 法相宗大本山 興福寺