ひっそりと…磐余池



 


一面田んぼや畑に囲まれた、のどかな風景が広がる。
歌碑の後ろには稲が青々と茂り、ここに昔、池があったこと物語っているように葦も生息していました。
長岡良子先生の作品の中にもやはり登場する磐余池。「眉月の誓」2巻に、藤原不比等と大津皇子が偶然出くわす印象的なシーンが思い出されます。
ただ、あのシーンには池とも川とも記載はないので、これは私の想像でしかないのですが。

朱鳥元年(天武15年)(686)9月9日 天武天皇崩御。
                 10月2日 大津皇子謀反。
                 10月3日 大津皇子死を賜る。

 日本書紀にはこう書かれています。

「冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反発覚。逮捕皇子大津。・・・(中略)・・・庚午。賜死皇子大津於譯田舎。時年廿四。妃皇女山邊被髪従跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。・・・(後略)・・・」
 ”10月2日 大津皇子の謀反が発覚する。大津皇子は逮捕される。…(中略)…3日。大津皇子は於譯田舎(おさだの家)にて死を賜る。この時24歳だった。妃の山邊皇女は髪を振り乱し裸足で駆けて行き、共に殉死された。見るものは皆哀しんだと言う。・・・(後略)・・・”

万葉集(巻三・416)に残る大津皇子の歌

        大津皇子、被死らしめらゆる時、磐余の池の陂(つつみ)にして
        涕(なみだ)を流して作りませる歌一首

   ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

        右、藤原宮の朱鳥元年冬十月なり。

訳「磐余池に鳴いている鴨を、今日を限りに見て、私は死んで行くのだろうか。」

24歳という若さで、この世を去らなければならなかった悲劇の皇子。彼はどのような想いでこの歌を歌ったのでしょうか。

 

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口惜しいことよ。
やり残したことはある。
我は間違ってはいない。

だが、行かねばならない。

それが
我の運命だと
言うのなら仕方ない。
運命ならばこの身に受けよう。

 


 



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2002.08.17