大津皇子は、飛鳥時代の皇室の人である。大津は、大伯皇女の同母弟で、天武天皇と、 大田皇女(天智天皇の長女・持統天皇の同母姉)の長男である。 容姿が良く、頭も良く、人望もあり、血筋も良く、最高の次期天皇候補者であった。だが大津は、すべての悪条件にみまわれる。 もし、母、大田皇女が生きていたら。。 もし天武天皇の第一子だったら。。 もし草壁より年上だったら。。 大津は天皇になれたかもしれない。 だが、母、大田は大津が5才のときに亡くなり、大田の妹、讃良皇女が天武天皇の皇后の座を射止め、 持統天皇として即位する。その時、大津の悲劇は起こった。

草壁皇子と大津皇子

讃良皇女には草壁皇子がいた。年齢は大津の一つ上とされているが、疑問もある。草壁、大津とも に福岡の「那の大津」というところで生まれているらしい。地名で名をつけるのだったら、 草壁が大津になっていてもおかしくない。ゆえに、先に生まれた大津が大津という地名を取れたのではないだろうか。 一方、反論もある。当時、皇子の名は乳母の出身地などから取った。 草壁には乳母がおり、大津にはいなかったから地名から取ったのではないだろうか、とする説である。 いずれにせよ、生き残っているのちの持統天皇にとっては、草壁が年上の方が都合がいいはずであるから、 史実ではなかったら変えた可能性は充分に考えられる。

磐余の池

ももづたふ 盤余の池に 鳴く鴨を 
今日のみ見てや 雲隠れなむ(万葉集巻3ー416)
という大津皇子の有名な臨終の歌がある。盤余の池というのはどこにあるのか定かではない。 ある説では天香具山の裏にある古池ではないかという説や、 桜井にある御厨子観音ではないかという説などがある。 磐余は歴代の天皇が宮都を作った場所である。今の奈良県桜井市の南西方向らしい。 大津も磐余の辺りに住んでいたのではないかと考えられている。



大津皇子と壬申の乱

皇位継承をめぐって天智天皇の子、大友皇子と弟大海人皇子が対立したのは672年のことである。 古代最大の内乱といわれる壬申の乱である。 天智天皇に謀反を疑われた大海人皇子は、讃良皇女とその子、草壁皇子や、 忍壁皇子など数人を連れて吉野に逃れた。大津皇子は、飛鳥に残ったようである。 大津皇子はこの時わずか10才。それでも乱の途中、朝明川で大海人皇子が祈っている ときに丁度大津皇子が到着した。姉の大伯皇女がのちに斎宮に選ばれることを暗示しているような伊勢神宮との縁である。

皇位継承と伊勢神宮

大津皇子は同母姉の大伯皇女に、伊勢まで会いに行っている。身内といえども斎宮は男子禁制。 そのうえ、天皇以外は、容易に畿内から出られなかった当時、その禁を破る大津は自由奔放といえるが、 軽率ともいえる。大津皇子が唯一の肉親大伯皇女に会いにいったのは、伊勢斎宮という地位も見逃せない。 王権にとって伊勢神宮の存在がいかに大切であったか、はその後の歴史を見ても分かる。 すなわち、直系重視の天皇家にとって直系以外の筋から天皇が即位することは、良くないことであり、 神の承諾が必要であった。その役割を果たしたのが伊勢神宮だと考えられる。 天皇家、伊勢神宮ともに現在まで続いており、その関係性は重要である。

大津皇子の家族

大津皇子には山辺皇女という正妃がいた。正史は明らかにしていないが子は粟津王というらしく、 その後、豊原氏になっている。山辺皇女は蘇我赤兄の孫である。 蘇我赤兄といえば有間皇子を陥れた人物。讃良皇女が快く思っているはずがない。 大津皇子が天皇になると赤兄の血を引く山辺皇女が皇后となってしまう。そこが讃良には気掛かりだったのではないだろうか。

詩賦の興(おこ)り、大津より始まれり

と絶賛されるほど、大津は詩歌の才能に恵まれていた。『万葉集』に見える石川郎女との相聞歌、 『懐風藻』に見える漢詩文・臨終の詩がある。

大津皇子の謀反

686年10月2日、大津皇子の謀反が発覚。翌、686年10月3日、大津皇子死刑。 天武天皇は9月9日に崩御していた。大津の叔母、讃良皇女が天武天皇の死後、最初に行なった判断であった。 正妃の山辺皇女は髪を振り乱してあとを追ったと正史は記している。 問題の謀反についてだが、実際に行なわれたのか、行なわれたとしたらどういう形で行なわれたのか、 については様々な論がある。正史が記す情報は少なく、讃良の判断はあまりに早かった。 将来を期待された皇子だけにその死は多くの人の涙を誘ったという。 そして1300年以上経った今でもなお惹かれて止まないものがある。

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更新日:2002,11,17