** 川島皇子 **

白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ(1-34,9-1716)

(白波の打ち寄せてくる浜松の、根元に捧げる道祖の神の手向け草よ。
それは計算すれば幾代までも年を経て変わらぬ習慣なのであろう)
(有間皇子を悼んだ歌、一説に山上憶良の歌とも)

〜山斎〜
塵外 年光満ち
(浮世を離れた山の中にも光は満ちみち)
林間 物候明らかなり
(林の中は春の色どりが美しい)
風月 遊席に澄み
(さわやかな風、澄んだ月の光が宴席に流れこむ)
松桂 交情を期す
(松や桂にあやかり変わらない交友をつづけたいものだ)

『懐風藻』より


・父:中大兄皇子(天智天皇)
・母:色夫古娘(忍海造)
・兄弟:大江皇女・泉皇女
・妃:泊瀬部皇女

683年:帝紀の編集者に
686年:大津皇子謀反事件で大津の謀反を密告
691年:川島皇子薨去

天武天皇の代になって天武系の皇子たちが活躍する中で
天智系の皇子たちは肩身の狭い思いをしていた。
だが、川島皇子は天智系の中でも一番上で、
草壁・大津・高市に次ぐ地位にいた。
683年には忍壁皇子と共に帝紀の編纂を任されている。

686年、川島皇子は大津皇子の謀反を密告したとされている。
藤原不比等の差し金か、大津自身が頼んだのか、説はあるが
友人として密告という行為はいかがなものか。
どうしても大津側から見てしまうが、密告する程、川島に
なにがあったのか知りたいところである。




更新日 2002年12月12日