** 大海人皇子 **

+++訳は準備中+++


天皇の蒲生野に遊猟したまへる時、額田王のよみたまへる歌
0020 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる

皇太子の答へたまへる御歌
0021 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも

      天皇の吉野の宮に幸せる時にみよみませる御製歌
0027 淑き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見

天皇の藤原夫人に賜へる御歌一首
0103 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後

藤原夫人の和へ奉れる歌一首
0104 我が岡のおかみに乞ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ

壬申の年の乱、平定らぎし以後の歌二首
4260 皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
      4261 大王は神にしませば水鳥の多集く水沼を都と成しつ 作者未詳

     

大海人皇子・天武天皇
天渟中原真人天皇・瀛浄御原天皇(第40代)


・父:田村皇子(舒明天皇)
・母:皇極天皇(皇極天皇・斉明天皇)
・兄弟:葛城皇子(天智天皇)・間人皇女
・正妃:讃良皇女
・妻子は前図の如し

672年:壬申の乱
673年:天武天皇、即位
686年9月9日:天武天皇、崩御

大海人皇子は長い間、中大兄皇子の皇太弟としての地位にいた。
天智天皇がいよいよ崩御されるというときに呼び出された。
大海人皇子は、謀反の疑いをかけられるのではないか、と思い、
その場で出家し、吉野に逃れる。
連れて行ったのは妻は讃良皇女1人、
子は草壁皇子と忍壁皇子だった。
大海人が吉野に入ったことに対して
「虎に翼を着けて放したようなものだ」
と当時の人は噂した。
そして天智天皇の崩御後、近江朝廷と戦う。
壬申の乱である。

勝者として飛鳥入りした天武天皇は律令の整備
都城の土地探し、歴史書の編纂などを精力的にこなした。
一番難しかったのが後継者問題である。
皇太子草壁皇子を立てたが、大津皇子の人気も実力も
上がってきており、無視できないものになっていた。
天武の対応一つで歴史は変わっていたかもしれない。
(言い出したらきりがないが・・)





更新日 2003年1月26日