** 大友皇子 **

〜宴に侍す〜
皇明 日月と光り
(天子の威光は日月のようにこの世に光輝き)
帝徳 天地に載つ
(天子の聖徳は天地に満ちあふれている)
三才 ならびに泰昌
(天・地・人ともに太平で栄え)
万国 臣義を表す
(四方の国々は臣下の礼をつくしている)

〜懐ひを述ぶ〜
道徳 天訓を承け
(天の教えをいただいてこの世の教えとし)
塩梅 真宰に寄す
(天の教えに基づいて正しく国家を運営する)
羞づらくは 監撫の術なきことを
(恥ずかしいことだが私は大臣の器ではない)
安んぞ能く四海に臨まん
(どのように天下に臨んだらよいのだろう)

『懐風藻』より


伊賀皇子・大友皇子
弘文天皇(第39代)


・父:天智天皇(中大兄皇子)
・母:伊賀宅子
・正妃:十市皇女
・子:葛野王

天智天皇の第一皇子
遠智娘の子である建皇子が夭折したため天智天皇の子は
大友皇子・川島皇子・志貴皇子となった。
天智は特に大友皇子を可愛がっていたようで
母の身分が低いにも関わらず
後継者とする。
それが壬申の乱の原因となり、しいては
大津・草壁のころにも影響を与えたと考えられる。
すなわち後継者がしっかりしていないから
皇位継承争いが起こるのだという認識と恐れが
生まれたようである。

母の身分のせいで退けられた大友皇子も「悲劇の皇子」である。
壬申の乱は大友皇子の死により終わりを告げたのであった。
25歳であった。
大友皇子の即位を正史は記していないが
のちの時代に即位した天皇として
数えられることになった。
『懐風藻』には風格や器量のよさが褒め称えられている。



更新日 2002年12月12日