** 十市皇女 **

十市皇女が伊勢神宮に参宮した時、
波多の横山の巌を見て、吹黄刀自が詠んだ歌

河の上のゆつ磐群に草むさず常にもがもな常処女にて(1-22)

(この河のほとりにあるたくさんかたまり合った巌の上には、
一本の草も生えていない。いつまでも古めかず、新しく見える。
そのように我が皇女さまもいつまでも年をとらず
処女でいらせられることでありたいものだ)

    十市皇女が薨去したとき、高市皇子が詠んだ歌が三首ある。


十市皇女・弘文天皇皇后

・父:天武天皇
・母:額田王
・夫:大友皇子
・子:葛野王

672年:大友皇子、弘文天皇として即位、十市皇女、皇后に
672年:壬申の乱、夫(大友皇子)対父(大海人皇子)
679年4月7日:十市皇女薨去

天武天皇と情熱的な歌人額田王の間に生まれる。
壬申の乱のとき、夫(大友皇子)対父(大海人皇子)
という状態に置かれる。そのため、吉野にいる父に知らせるため
鮎の中に手紙を詰めて送っているという噂を立てられる。
夫、大友皇子亡き後、大海人の子ということで命は助かる。

天武天皇7年、斎宮として選ばれ、いざ出発という時に急死。
自殺ではないかという疑いもある。
斎宮として伊勢にはすでに大伯皇女がおり、
すでに結婚して葛野王という子があるにも関わらず
斎宮としてなぜ選ばれたのか。
その理由として三輪山に奉仕するためではないかとする説もある。

天智系の大友皇子、天武系の十市皇女の間に生まれた
葛野王はかなり微妙な位置に立つことになった。
後に持統天皇の後継者を決める時に葛野王が
正統な皇位継承者として珂瑠皇子を推した話がある。
それはきっと皇位継承争いがいかに嫌なものか
両親の生き方を見てきた葛野だからこそ
言えることだったのだろう。




更新日 2002年12月12日