●記されなかった女帝と彷徨える皇子たち
(飯豊〜仁賢天皇時代)

 オホハツセワカタケル(雄略天皇)という大君は、その位を手にする為に、自分の兄弟は勿論、継承権を持つ親族を殺しまくった、ある種恐ろしい方です。
 しかしながら、悪い事をするとそれは自分に還って来るもので、彼は余り子宝には恵まれませんで、男女一人ずつしか得られませんでした。(「日本書紀」の方では数人いるようですが。)その皇子シラカノオホヤマトネコ(清寧天皇)はどうやらアルビノだった様で(漢字表記が白髪大倭根子なのです)身体が弱かったのか、即位して間もなく亡くなってしまいました。
 シラカの大君が亡くなると、後を継ぐべき御子が誰もいません。困り果てた末に選ばれたのは、オホハツセワカタケルに殺されたイチヘノオシハ(雄略天皇の従兄弟で、履中天皇=イザホワケの息子)の同母妹オシヌミノイラツメ、またの名をアヲミノイラツメイヒトヨという姫御子でした。取り敢えず、中継ぎの役目を当てられた訳です。
 イヒトヨは歴代の天皇の数の中には入っていません。「古事記」の記述では、何年間か治世があった様なのですが、天皇家と言うのが徹底した男系の家系なのか、番外の扱いを受けています。
 日本最初の女帝は推古天皇と教科書には掲載されていますが、それ以前にも女帝がいた事を、一応、知っておいても損はないと思います。


雄略天皇丹比高鷲原陵
(たじひのたかわしのはらのみささぎ)


清寧天皇河内坂門原陵
(こうちのさかどのはらのみささぎ)


【飯豊天皇陵】

「日本書紀」では「葛城埴口丘陵」。
北葛城郡新庄町北花内にあります。

【看板】

入口の看板です。

【角刺神社】

イイトヨが即位したと伝えられる
葛城の忍海の高木の角刺の宮跡。
現在は角刺(つのさし)神社。
北葛城郡新庄町忍海にあります。

倭辺に 見が欲しものは 忍海の
この高城なる 角刺の宮

【鏡の池】

角刺神社の東側にあります。
イイトヨがこの池の水面を
鏡の代わりに利用したところから
「鏡の池」と呼ばれているそうです。
この池にはまた、
中将姫が曼陀羅を織る為に
捜し求めた蓮が生えていたそうです。

 さて、そのイヒトヨの治世に、針間の国(兵庫県)に大君の使いとして赴いたヲダテと云う者が、シジムという豪族の家に招かれました。
 宴もたけなわという時に、火焚きの童子が二人、皆の前で舞うように言われて、お互いに譲り合っていたのですが、
「賎しい者は何も出来ぬ故、ああして譲り合っているのだろう。」
 と言われると、まず、兄の方が皆の前に出て来て、見事な舞を見せました。それには一同呆然です。すると、今度は弟の方が舞いながら出て来て、声を長く引き、唱えたのです。

もののふの わが背子が とり佩ける
太刀の手上に 丹画きつけ
その緒は 赤幡のせ 赤幡立てて 見れば
五十隠る 山の三尾の 竹をかき刈り 末押し 靡かすなす
八つ絃の琴を 調べたるごと 天の下 治めたまひし
イザホワケの 天皇(すめらみこと)の御子
イチヘノオシハの 王(おおきみ)の 奴末
(訳:武士のわが御子が佩いた 太刀の柄には丹で絵を描きつけ
   太刀の紐には赤幡をつけ その赤幡を立てて見渡せば
   奥深い山の尾根に立つ竹を刈り取り その竹の末を靡かせる如く
   八弦の琴の調べの如く 天下を治められた
   イザホワケの大君の御子であるイチヘノオシハの末なる我ら)

 その歌を聞いたヲダテは、人払いをすると、喜びの涙に頬を濡らして、二人の童子を左右の膝に座らせました。
 二人はイチヘノオシハの遺児、オケヲケだったのです。
 オケヲケは、父がオホハツセに殺されたと聞くや、直ちに出奔し、途中では猪飼いの老人に糧を奪われるなどの苦難の末、身の上を隠し、シジムの家に下働きとして雇われていたのでした。

顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵
顯宗天皇傍丘磐坏丘南陵
(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)


仁賢天皇埴生坂本陵
(はにゅうのさかもとのみささぎ)

 さて、今度はどちらがその位に即くかで譲り合っていた兄弟ですが、名を明かしたのが、弟のヲケの方だと言うので、ヲケノイハスワケ(顕宗天皇)が先に即位しましたが、子が無いまま、早世してしまいました。
 その後を兄のオケ(仁賢天皇)が継ぐ事になります。

 同じような名前なので、区別がつき難いかと思いますが、兄のオケの方が思慮深く(理論派)、弟のヲケの方が行動的(直情径行型)です。
 ヲケは即位して、例の糧を奪った猪飼いの老人への復讐を忘れませんでした。老人は斬首、その一族は尽く足の筋を断ち切られました。
 そして、父の遺骨を探し出し、手厚く葬ると、今度はその父を殺したオホハツセへの復讐心を抑える事が出来ません。オホハツセの御陵を壊そうと人に命じた時、自ら進んでその役を引き受けたのは、兄のオケでした。
 オケオホハツセの御陵の傍らを少し掘ると、そのまま帰って来てしまいました。それを責めたヲケに、オケはこう答えました。
「父の恨みを晴らす為に、オホハツセの大君の御霊に報いを示そうと言うのは、理に適っています。けれども、その恨むべき相手は、我らとは血の繋がった従父であり、天の下を治めたもうた大君でもあるのです。それを今、父の仇に報いをするという志だけで、すっかり壊してしまっては、後の世の人々は、必ずや我らの振る舞いを誹り、嘲笑うでしょう。しかし、父の仇だけは、どうしても報いなければなりません。だから、その陵の傍らを少しだけ掘り返して来たのです。この辱めだけで、後の世への示しとしては充分でしょう。」
 その答にヲケも納得したのです。

 オケヲケの物語は、火焚きの童子と云う点からして、まるでシンデレラです。
 放浪と逃避行の様は、一種の「貴種流離譚」とも読めます。
 仇本人が死んでいるので、その墓を壊すと言う発想は、「史記」の伍子胥列伝を思い出します。‥‥あれは死体に鞭打つんですが。


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