飛鳥資料館/飛鳥の寺/山田寺東回廊再現



飛鳥資料館1997年春期特別展示

「山田寺東回廊再現」


山田寺東回廊の再現

7世紀、日本に仏教が根をおろし、それまで人々がみたこともない、異国風の大建築が、飛鳥地方を中心につぎつぎと造られていく。これらの仏教寺院はわが国に流れこんだあたらしい文化を代表するものだった。

こうした最初期の大寺院の建築のほとんどは、時代の変遷のなかで地上から姿を消し、永遠に失われた、とするのがこれまでの常識とされてきた。しかし1982年、山田寺の発掘調査が、この常識をくつがえすことになる。東回廊が倒壊した状況のまま、土中からみつかった。その後の数次にわたる調査の結果もあわせると、東回廊の建築部材、千点以上が確認された。

理没していた東回廊は、木造寺院建築の現存する最古の実例であり、日本の建築をはしめとする文化の歴史を考える上で、かけがえのない資料となっている。はるかなときをへだてて掘り出された、もろく、壊れやすい部材の科学的な保存処置のためには、14年の歳月がかかった。飛鳥資料館第二展示室では、最も残存状態のよかった回廊の三間分の部材を使用して、当時の構造と規模とがわかるかたちで組立て、山田寺の東回廊を再現している。

1997年4月
奈良国立文化財研究所 飛鳥資料館長 田中 琢

※この内容の編集には、田中琢、杉山声、次山淳かあたり、飛鳥藤原宮跡発掘調査部、建造物研究宝、理文センタ遺物処理研究室の協力を得た

※写真撮影は、飛鳥藤原宮跡発掘調査部 井上直夫が担当した

協力者(敬称略)
乾春男、大谷照子、川越俊一、木村勉、工藤圭章、肥塚隆保、高妻洋成、左右田進、鈴木嘉吉、沢田正昭、鳥田敏男、中村一郎、中西健夫、花谷浩、藤田頼伯、藤本溝、村上隆、村田健一


●東回廊の連子窓(第6次調査)
●回廊の発掘(第5次調査)

山田寺の建立については、聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』の用紙の裏に6行にわたって記した『裏書』にくわしい。その第l行目には「十三年辛丑年春三月十五日、浄土寺を始む」とある。浄土寺は山田寺の別名で、舒明天皇13年(641)3月15日に山田寺の建設がはじまったのである。
山田寺は、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂が氏寺として計画し、建設を関始したものであった。石川麻呂の一族は、山田寺のある山田の地を地盤としており、この地は、飛鳥への東の入り口を押さえる、交通上・戦略上の要地だった。

大化5年(649)、願主石川麻呂が中大兄皇子に対する謀反の疑いにより、完成間もない金堂の前で自害。寺院造営は中断する。天武朝にはいって、伽藍の全体が完成することになるが、これには石川麻呂の孫に当たる、後の持統天皇の力が大きかったのだろう。


↓出土した部材(大斗)               山田寺伽藍配置↓














「裏書」の2行目以降には、堂塔の建設次第を記している。

1.舒明13年(641)浄土寺を始む。地を平す
2.皇極2年(643)金堂を立つ。
3.大化4年(648)初めて僧住む。
4.大化5年(649)大臣害に遇う。
5.天智2年(663)塔を構える。
6.天武2年(673)塔の心柱を立つ。舎利を納める。
7.天武5年(676)露盤を上ぐ。
8.天武7年(678)丈六仏を鋳造す。
9.天武14年(685)仏眼を点ずる。


1982年、4回目をむかえた山田寺の発掘は、東回廊の調査に着手した。回廊を埋めていた土を取り除くと、おびただしい瓦が基壇を覆いつくしていた。そのなかには、屋根に葺かれているように重なり合っているものもあり、瓦が屋根にのったまま崩れ落ちたことがわかった。
この瓦を取り上げると、その下からは回廊の建物が姿をあらわした。東回廊全体は、以後1990年までの4次にわたる発掘で掘り出されることになる。

↓基壇を覆った瓦(第5次)

↓基壇上の建築部材(第5次)

再現された東回廊↓

                         回廊復元立面図↓
東回廊は、7世紀のなかばに造られ、11世紀前半ごろまで地上に建っていた。建物として使われていた350年の間に部分的な改修を受けてはいるが、倒壊したのち1000年のあいだ、全く人手にふれない状態で、地中にねむっていたことになる。これまでも断片的に建築部材が出土した例はあるが、山田寺のように主要な構造がほぽ完全なかたちで見つかったことはない。復原された回廊は、現存するいずれの建物より古く、古代の建築技法や様式の歴史を考えるうえで、このうえなく貴重な資料といえよう。

東回廊は23問、全長で87mあった。建物の部材は、北から数えて、第13・14・15間で最もよく残っていた。展示では、この三間、中央扉口の南脇にあたる部分を再現した。回廊は、東から西、つまり伽藍の外から内にむかって倒れ、西側を下にして埋まっていた。このため部材は地中深くにあった回廊内側の面で保存状態が良く、たとえば腰長押(こしなげし)などは内側のみが原形をとどめている。上図に内側から見た東柱筋の部材の残り具合を示す。この面で部材は斗(ます)・肘木(ひじき)から下側が、ほぼ完全にちかい状態で発見された。柱や束(つか)の一部など科学的保存処理のすんでいないものを除いて、出土材は本来の位置で展示している。

↓東回廊第15間(再現)      東回廊第15間(第4次調査)↓


                        回廊復元見取り図↓
東回廊では、古代の建物の構造がわかるだけでなく、個々の部材の寸法やその組み合わせ方、組立の順序の細部までを知り得る。当時、最高級の技術でつくられたと推定される回廊の建物は、飛鳥時代の基準的な作品となるもので、法隆寺西院伽藍のいわゆる飛鳥様式とは異なる建築様式が存在したことを明らかにした。また建築用材についても、柱が後に交換された一本以外は、クスノキであること、虹梁にマツが使われていることなど、これまでの古代建築の常識をくつがえす資料となっている。





柱・連子窓・頭貫などの軸部は、部材がよく残っており、展示は当初の形式を、ほぼ完全に復原している。一間の柱間は柱心々で3m78cm、柱の高さは2m26.6cmある。 虹梁からうえの架構部については、当初の形式を完全に復原できるだけの部材が残っていない。扠首の寸法や棟木高、垂木の傾きなどは、部分的に残った資料から想定復原した。本再現では礎石上面から棟木までの高さを約4mとした。


東回廊の部材は、粘土に覆われ、地下水に浸った状態で埋まっていた。木を形成しているセルロース分は失われ腐朽がすすんだ構造は、大量に水を含んでおり、かろうじて本来の形をとどめているにすぎない。そのまま乾燥すれば縮み歪んで原形は全くうしなわれてしまう。保存のためPEG(ボリエチレン・グリコール)をしみこませて固める処置をとった。含まれていた水分をPEGでおきかえた部材は、非常に重く、本来の強度も失われていて、このまま建物に組み上げることはできない。一点一点を、鉄の枠からのばした腕で支え、上部の加重を受けないかたちにする必要があった。窓枠のうえの横木・頭貫は三間をつらぬく長大なもので400kg以上の重さをもつ。このため、連子がわの柱筋内側に設けた支持枠も、これに応じて頑丈なものとなった。欠損の大きな部材は、残った部分から原形を推定して、新材におきかえている。クス材の柱など保存がむずかしく、処理の終わっていない部位については将来、実物と置き換えていきたいと考えている。


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