蘇我三代

蘇我氏の邸宅 甘橿丘東麓の発掘調査


甘橿丘に、本格的な発掘調査のメスがはいるのは、これで二度目のことである。前回は、1977年に西北麓の平吉(ひきち)遺跡で調査がおこなわれた。6世紀〜9世紀にかけての遺構が検出されているが、このときには蝦夷・入鹿邸につながる手がかりはつきとめられていない。

この年の調査地は、飛鳥橋から野口ヘ南北にぬける県道豊浦・小山田線に面した小さな谷の出口のところ。甘橿丘の東南の裾にあたる。調査が計画されたのは、飛鳥国営公園整備事業の一環として、この場所に一般登山者向けの駐車場を建設することになったためである。字名は極楽寺。道路を挟んだ正面は川原寺の裏の丘陵、谷からの視界は東北方向に開け、約500メートル先に飛鳥寺の伽藍を望むことができる。

風化が進み黄褐色となった花崗岩の岩肌の上に、鮮やかな紅色の焼け土の層が顔をのぞかせたのは、調査がはじまって15日目のことである。そのきっかけは、調査区北隅のほんのわずかな範囲であったが、焼け土の存在は、「甘橿丘の家」とのかかわりを期待させるのに十分であった。

今ではこの谷は、平担な地形を利用して、夏みかんなどの柑橘果樹を栽培しているが、7世紀の後半以降、尾根を切り崩して幾度かの埋め立てがおこなわれ、本来の地形が大きく改変されていることが、調査の結果明らかになった。焼け土の層は、谷の傾斜に沿ってこの埋め立て上の下に深くもぐっていく。その性格を突きとめるために、層の広がりを追いかけていくことになった。

埋め立て土を取り除くと、現在の地表から谷底までは約4メートル、とても立ってはいられないような急斜面が姿を現した。焼け上は、谷の北壁の斜面の全面をおおいつくし、さらに調査区の外へ尾根をつつむようにのびている。焼け上の中には、焼け焦げた建築部材・炭・草木灰・土器片・焼けた壁土などが多量に混じり込んでいた。

この焼け土の層は、谷の北側の尾根上に存在した何らかの建物が焼失し、その灰燼が投棄されたか、もしくは谷に流れ込んだためにできたものと考えられた。斜面上には真っ黒に焦げた建築部材が散在していたが、谷底には、そうした木材は少なく、むしろワラやカヤのものと思われる灰がぴっしりとつまっていた。あるいは炎に包まれた建物は、屋根からまっさかさまに谷底へ崩れ落ちて行ったのだろうか。

多武峯縁起(談山神社蔵)
多武峯縁起(談山神社蔵)




甘橿丘の家炎上(多武峯縁起 談山神社蔵)
甘橿丘の家炎上(多武峯縁起 談山神社蔵)




調査地より飛鳥寺をのぞむ
調査地より飛鳥寺をのぞむ




焼けた壁土
焼けた壁土




甘橿丘東麓 出土土器
甘橿丘東麓 出土土器




建物が火を受けたことは、壁土の様子からも明らかであった。本来壁土は生のまま塗られるため、土中に埋もれると溶けてしまうことが多い。建物が火を受けてはじめて、土器と同じように固くなり、壁土は地中においても姿をとどめることになる。壁土にはスサとして、切り藁が混ぜ込まれていた。スサは土壁のひぴ割れを防ぐために混ぜ入れる植物繊維のこと。法隆寺金堂や五重塔の土壁にも用いられ、現在につながる手法である。

多量に出土した土師器の中には、もともと橙色をしているものが、灰色や白色になってしまったものが多い。火を受けたために、赤みが飛んでしまったのである。

このような状況は、私たちの多くが抱く蘇我本宗家の終焉のありさまと、まさにだぶって見えるものであった。問題は、この焼け土層の年代である。甘橿丘自体が、文献に姿を現すのは、允恭4年におこなわれた盟神探湯(くがたち)の場と蘇我氏邸宅の二度にとどまるといってもよい。しかしながら、平吉遺跡の調査においても明らかになったように、この丘は長年に亘り、人々に利用されてきた。火災のあったことがわかっても、それがいつの出来事か、その年代をできるかぎり絞り込んでおくことが求められた。

飛鳥時代の土器は、大きさやつくりが、時間に応じて細かく移り変わることがわかっている。幸いこの焼け土の層からは、多量の土器が得られている。そこで、「乙巳の変」のおこった645年といちばん近い、年代のはっきりとした土器をモノサシにして比べてみることにしよう。1989年におこなわれた山田寺南門の発掘調査で、寺地の造成工事をしたときの埋め立て土と、埋められた溝の中から出土した土器がある。山田寺の造成は、『上宮聖徳法王帝説裏書』に「辛丑年に始めて地を平し」とあり、641年におこなわれたものとされている。この土器は、641年頃をさかいに、それよりはやや古いものと考えられる。はたして、甘橿丘の焼土層から出土した土器は、山田寺の下層のものにたいへん近く、それよりはやや新しい特徴をもつものであった。

直接のつながりを示す文宇を記したものや、建物の柱穴などは発見されていないが、遺跡の状況と土器から見た年代からは、この焼け土の層を蝦夷邸と何らかのかかわりのもとで結びつけてもよいように思われた。「甘橿丘の家」の手がかりがおぼろげながら見えてきたのである。

それでは、尾根の上に立っていた建物はどのようなものだったのだろうか。もう一度、『書紀』の記述をひもといてみよう。「上の宮門」「谷の宮門」とよばれた蝦夷・入鹿の家の外には、城柵を巡らせ、門の傍らには武器庫が設けられていた。常に東国出身の兵士が武器を携えでその警護にあたっていたという。丘の東南の枝尾根の上という位置から考えて、この建物は、邸宅そのものというよりも、むしろこのような城柵の一部ではなかったろうか。本宅は、やはり「エビス谷」の地名の残る甘橿丘の最高所のあたりに営まれていたのであろう。出土した多量の土器も、宮跡などで出土するものとはつくりを異にし、やや見劣りのするものが多い。城柵の警護にあたった兵士たちの残したものかもしれない。

その一方で、この建物は板張りの壁ではなく、壁土を塗った土壁を備えていた。土壁を備えた建物は、この当時まだ寺院や宮殿に限られていたのである。このようなことも、蘇我邸との関わりを示す手がかりになりはしないだろうか。

「乙巳の変」は、板蓋宮大極殿、法興寺(飛鳥寺〉そして甘橿丘の蝦夷邸という三つの場所が舞台となっている。板蓋宮や飛鳥寺で、事件そのもののあり様を埋もれた土の中から浮かび上がらせることは、出来事の性格からいっても困難であろう。甘橿丘は、その具体像に近づく唯一の場所といえる。

注意深く『書紀』の記述に目を通していくと、甘橿丘の邸宅が実際のところ、どうなってしまったのかについては、何も述べられてはいない。私たちのイメージのなかにある炎に包まれた蝦夷邸も、実は『書紀』に記されたことではないのである。むしろ、発掘調査によって建物の焼失が確認されたことで、文献に記されていない出来事がはっきりと浮かび上がってきたと言えはしないだろうか。



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