伝説・・・伝承された説話。史実として信じられてきた言い伝え、と辞書にはあります。
必ずしも史実ではないと言えるでしょう。

しかし、史実とまったく無関係の話が生まれる、ということがあるでしょうか。
何かが関係しているからこそ言い伝えは生まれるのでは?

ここに、ひとつの伝説があります。
それは私の故郷近くに伝わる話であり、かなり小さい頃に聞いた話です。

和歌山県に道成寺というお寺があります。安珍・清姫の話でも有名なお寺です。
しかしここには、道成寺の成り立ちを伝える話(縁起)があるのです。

それが、髪長姫つまり、宮子姫の伝説です。

宮子姫とは何者か。
姫は、藤原宮子であり、正史(続日本紀)によると藤原不比等の娘。そして文武天皇の夫人になり、聖武天皇を生んだ人物なのです。
藤原不比等の娘の伝説が、紀州道成寺に伝わっているのです。

『道成寺絵とき本』によると、道成寺開創縁起として「宮子姫髪長譚」が書かれています。
話のあらすじを以下に記します。


「宮子姫髪長譚」

 宮子姫イラスト(※1)

九海士(くあま)の里に、早鷹と渚という夫婦がいた。40過ぎても子宝に恵まれず、八幡宮にひたすら祈願してようやくみごもり、白鳳8年(679)に女の子を出産した。八幡宮から授かったので、「宮」と名づける。しかし、宮の頭には髪の毛が1本もなかった。

夫婦は宮を珠のように育てるが、依然として髪が育たないことを悩み続けていた。

ある年、九海士の浦は不漁が続き、人々は困惑した。
どうも海底からさす不思議な光が原因のようである。誰か怪しい光の正体を確かめにゆく者はいないか、というが誰もいない。

そこで宮の母、渚は
「娘に髪が生えないのは、前世の報いであろう。罪滅ぼしをすれば」
と思い、村の人々を救おうと犠牲になり、海に入る。

 怪しい光を確かめに海へ(※2)

無我夢中のまま海底を目指し、帰ってきた渚の髪には光るものが。
光の正体は小さな黄金仏であった。

海から光は消え、浦は大漁続き。人々は渚のおかげと尊敬したが、渚は黄金仏を庵に大切に祀り、浦人のために毎日礼拝した。

ある夜、渚の夢に黄金仏が現れて「補陀洛浄土の観世音なり」と仰せられた。
夢の中で、髪の生えない不憫な娘のことを訴えた。

夢からさめ、ますます祈願に精進すると、宮に美しい黒髪が生えた。

髪はますますのび、身の丈よりも長く七尺あまりの美しい黒髪となり、年頃の娘は「髪長姫」と呼ばれるようになった。
渚と宮は、髪は観音様からの賜りもの、粗末にしてはならないと、抜けた髪さえ捨てたりせず木の枝にかけていた。

ある日、一羽の雀が木の枝にかかった長い髪をくわえて飛び去った。

奈良の都の宮廷の軒端にかかった雀の巣から、長い髪が垂れ下がっているのが発見された。
衛士たちが取り除こうとすると偶然にも、右大臣の藤原不比等が参内し、この有様を見た。
長さ七尺あまりもある女の美しい黒髪を見て、不比等はこの持ち主を宮仕えさせようと考え、このことを帝に申し上げた。

時の帝、持統天皇は粟田真人に勅命を賜り、諸国を尋ねさせることになった。

真人の一行は九海士の浦にたどり着く。そして宮に出会い、あの麗しい髪の持ち主と知る。真人は帝の勅命を伝え、早鷹と渚はこれを受けて宮を都へ上らせたのである。

都で宮は藤原不比等の養女として迎えられる。名を宮子姫之命と改め、時の帝文武帝の妃となった。宮子姫が産むのが、聖武天皇である。

 宮中の宮子(左) 髪が長く美しい(※3)

宮子は雲の上の人となったが、故郷のことが忘れられない。特に庵の観音像が気になり、思い悩む。
やがて悩みは天皇の耳に入り、観世音のために寺を建立し、国の鎮めの霊場とせよと
命じられる。

そこで紀伊国司の紀道成が伽藍造営を命じられた。道成は早速任務につき、自ら材木を
求めて日高川をさかのぼった。良材を選んでの帰途、筏(いかだ)に乗って川を下るが筏師が棹を繰りそこねたために筏がきれ、道成は筏師もろとも水没した。

道成の霊を祀る紀道明神の社が今も三百瀬(みよせ)の里にある。

道成の殉職に心打たれた工匠たちは工に励み、その後は何の障りもなく寺の造営は進んだ・・・・・。


以上が、紀州道成寺に伝わる伝説です。

この伝説は、まさかというような話です。
海人の娘が天皇の妃になり、そして皇子を生み、皇子は天皇となる。
出自の低い娘(しかも海人)が入内することも難しいし、ましてや産んだ子が天皇になるなど考えられないことではないでしょうか。

ところが、宮子姫の話は道成寺に長い間失われることなく伝えられてきました。
道成寺には「文武天皇勅願所」の碑も立っています。

上記の『絵とき本』と、その元となった『道成寺宮子姫傳記』の絵巻物には違いがあります。
(例えば絵巻では、海に入ったのは母の渚ではなくて宮。もともと髪は豊かであった)
しかし、髪が縁で不比等の養女になり、文武の妃になって聖武を生んだけれど、故郷が恋しくて帝に頼んで道成寺を建てた、というすじは変わりません。

正史では、宮子は不比等と賀茂比売との娘とだけ記されています。
伝説は、どこまでも伝説なのでしょうか。

私は、この話は真実を含んでいるのではと思っています。
・・・そうではなく、ただ髪長姫のお話を信じたいのかもしれません。

 御坊市にあった宮子姫の像(※4)

 

※1・・・・・イラスト画像の原画は山崎容子さん
※2.3・・絵巻の画像は『道成寺絵とき本』から転載しました(道成寺から許可済)
※4・・・・・像の画像はryujinさんのページからお借りしました

参考文献
『海人と天皇』梅原猛 この本を読んで、小さいころ聞いた話を思い出しました。
当たり前だと思っていた話が正史に無いことに驚きました。
『道成寺絵とき本』 道成寺発行。100ページのカラー本です。
「宮子姫髪長譚」「安珍清姫の話」「娘道成寺後日噺」の三部構成。
参考関連サイト
藤原宮子について (正史による系譜:水垣さんのページ)
髪長姫伝説 (宮子姫伝説の紹介:ryujinさんのページ)