【原始と古代】二上山(トロイデ火山)は数回の噴火により、各種の安山岩があり、サヌカイトは石器用材に、松香石は古墳の用材に、寺院の基礎石に利用された。この二上山は古来から眺望絶景で、信仰(山岳信仰・雨乞い)や歌謡(万葉集)など の対象となってきた。この山の麓には数々の古墳群があって、古代から開けた土地柄を 物語っている。【中世】当麻荘は摂関家領平田荘から分離、近衛家領となった。そのほか摂関家領平田荘も存 在した。当町は古代豪族当麻氏の本拠地と考えられるが、中世では当麻氏は高田氏として大和 高田市域にいたと考えられ、当町内には同氏一族の万歳氏の支配が及んでいた模様であ る。大和志には新在家・当麻・染野・今在家・勝根・大橋の7か村は万歳氏のうちとな っている。また万歳氏の城塁の一つに万歳山城(当麻)がある。さらに香芝町の岡氏の支配も当当麻に及んでいて、岡荘のうちに加守が見られる。【近世】江戸期の村々当町域の村々のうち、太田・竹ノ内・木戸の三か村は旗本知行地で、その他は幕府領。元和5年郡山藩領に属す。八川村など八か村は幕末まで同藩領であった。当麻村・中村は延宝七年に幕府領に、天和二年近江水口藩領を経て、元禄八年下野壬生藩領になり、大橋村は同じく幕府領、享和元年郡山藩領に属した。元禄郷帳には、今市・太田・兵家・竹ノ内・長尾・木戸・尺土・八川・大畠・当麻・大橋・中・染野・新在家・加守・勝根・今在家の17か村があげらえている。このうち木戸村は「天保郷帳」以後木堂村と記されている。「旧高旧領」では今市村は南今市村、大畠村は大畑村、太田村は上太田村・下太田村に分村し、前記村々のほか中村新田が記されている。【近現代】明治四年奈良県・郡山県・櫛羅県・壬生県に分県し、同年にすべて奈良県に帰属す。同九年堺県に、同十四年には大阪府を経て、同二十年奈良県となる。明治22年4月1日の町村制の施行によって、葛下郡の加守村・新在家村・染野村・今在家村・勝根村・當麻村(明治20年3月8日大橋村・西中村を編入)の6村が合併し當麻村、同じく竹之内村・長尾村・今市村・兵家村・太田村・大畠村・八川村・木戸村(含む尺土村)の8か村が合併して磐城村が誕生。明治30年4月1日、葛下郡と広瀬郡が合併し、北葛城郡となった。昭和31年4月1日、當麻村と磐城村が合併して北葛城郡當麻村が成立する。同41年4月1日、町制施行によって當麻町となる。現在・人口15,500余人、人口密度972.2、面積15.96kuであって、奈良盆地西部、金剛山地の岩橋山・万歳山・二上山の東麓一帯に立地、東は大和高田市、南は新庄町、西に平石峠・竹之内峠・岩屋峠を越えて大阪府、北は香芝市に接している。當麻町の中心地は、当麻寺門前にあって、古代の當麻郷の地で、交通の要所でもあった。日本書紀・垂仁天皇7月7日の条に「當麻邑に勇み悍き士有り。當麻蹶速と曰ふ」とみえ、古くは「タギマ」といったとある。河内から関屋峠を経て大和に入り、當麻村を通り長尾村で、竹之内街道に合流する交通の要所。また大阪府と接していることから平石峠・竹之内峠・岩屋峠など交通の要所でもあった。平安朝以降、当麻寺詣でによって門前町として繁盛。鎌倉時代には、当麻寺仁王門北側に当麻国行一門が居住、世にいう当麻鍛冶といわれた。
當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)當麻町新在家相撲の始祖として知られる當麻の蹶速の塚(墓所)である。「日本書紀」によると、垂仁天皇の時代に、天皇が自分の強力を自慢していた蹶速と出雲の野見宿禰の力比べをさせた。これが日本最初の天覧相撲となったが、この時に蹶速は、脇の骨を蹴り折られ死んでしまった。勝った野見宿禰は蹶速の領地を賜り、命を落とした蹶速は當麻の地に墓を建てられた。その墓所が遺跡となっている五輪塔である。
綿弓塚(わたゆみづか)當麻町竹之内この塚は、竹之内街道に面した竹之内集落の西部に芭蕉の門人の苗村千里の屋敷跡があり、その筋向かいの脇道を南へ150m入ったところにある句碑。文化6年10月の建碑。正面に「綿弓塚」、右側に「綿弓や」の句、左側に「文化第六己巳十月高田紅園愚公建之」と刻されている。芭蕉が貞享元年千里を伴って、千里のふるさと竹之内に実家に泊まった時に詠んだ句を記念碑して建てられ、「綿弓塚」として残され、現在は、休憩所として整備されている。「野ざらし紀行」に次のようにみえる。大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる。此処はれいのちりが旧里なれば、日比とどまりて足を休む藪よりおくに家有わたゆみや琵琶になぐさむ竹の奥はせを當麻寺本堂下古墳當麻町當麻昭和32年2月からの本堂解体修理の際に発見。基壇中央部にほぼ南北方向に検出され、木管の周辺や上部を塊石群で覆った礫槨とよばれる形式のもの。人頭大の塊石の平らな部分を上にして敷き詰め、木管を安置したのちに礫を積み上げ礫槨を造ったものである。礫槨の外寸法は、長さ2.4m、幅90cm、木棺は腐朽していたが、長さ1.9m、幅58cm、棺の東側に沿って鉄剣二振り、その東側に鉄斧2丁などを出土した。古墳築造時期は、5世紀中期と考えられるが、副葬品としての土器がないため決定しがたい。首子古墳群(くびここふんぐん)當麻町當麻当麻寺北方の東方にのびる尾根上に点在する七基一群の古墳で、首子七塚とも呼ばれてきた。昭和五一年、五二年の調査で8基の古墳の存在が確認された。一号墳は櫟山古墳。二号墳の墳丘は削平されていたが、丘尾を切断する形で溝が半円形にめぐり、構内から多数の円筒埴輪・家形埴輪・須恵器が出土。三・四号墳は、方墳であるが、三号墳は木棺を直葬、四号墳では横穴式石室を主体としていた。五号墳はこの古墳群中最大で、帆立貝式前方後円墳で円筒埴輪をもつ。櫟山古墳(くぬぎやまこふん)當麻町當麻通称樫山とよばれているところにあり、首子古墳群の第一号墳をいう。採土のために変形しているが直径10m以上の円墳であったらしい。竹内古墳群(たけのうちこふんぐん)當麻町竹内竹内集落の北側、キトラ山を中心に、前方後円墳一基、方墳一基を含む三十四基の古墳が確認されている。その多くは直径10m・高さ2m程度の円墳で五世紀末から六世紀中頃にかけての築造と推定されている。ナベ塚古墳(なべつかこふん)當麻町竹内竹内と兵家集落のほぼ中間地点、墳丘は大部分が畑と竹藪となっており、墳頂部がかなり削平されているが、直径40mを超える大型円墳であった模様である。的場池古墳群(まとばいけこふんぐん)當麻町竹内竹内集落の南側の尾根に連なる十一基の古墳群。いずれの古墳も直径10m前後の小円墳で、全体に副葬品は貧弱である。古墳群の築造期は五世紀後半から六世紀にかけてのもので二基の横穴式石室は七世紀に下るものと見られる。以上のほかに、兵家古墳群・平林古墳・如意古墳群等が確認されている。孝女伊麻(こうじょいま)當麻町南今市旧吉野御所街道から伊邪那岐神社に向かう小道を少し入った所に「孝子碑」と刻まれた石碑が建てられている。その昔、病弱な父親への孝行に生涯を捧げ尽くした伊麻を讃えるために建てられたものである。伊麻は、寛永元年に南今市で生を受け、竹之内村の庄屋粕屋甚四郎(芭蕉の門人千里の実家)で働きながら弟と二人で父の看病に努めたという。俳人の芭蕉が竹内村を訪れたとき、伊麻の孝行ぶりを知り、その感激を「當麻に詣でて万のたつときも伊麻を見るまでのことにこそあれ」と述べている。大磯虎女の旧蹟(おおいそとらめのきゅうせき)當麻町南今市「和洲葛下郡今市地蔵尊略記」によると、この地蔵院は、富士の裾野の仇討ちで、有名な曽我十郎佑成に愛された「大磯虎女」に始まる。鎌倉時代初期、建久4(1193)年、兄の曽我十郎佑成と弟の五郎時致とが、ともに苦節18年の末、父の仇・工藤祐経を討ち取ったが、仁田忠常に討ち死し、空しく草場の露と消えたのである。これを悲しんで虎女は、出家後、この草庵に侘び住まいし、十郎佑成の供養をした。それがこの地蔵院である。当大字南今市には、虎女が架けたという「虎が橋」という橋が残されている。またこの地蔵院には、「虎石」というのがあり、虎女の墓石であると言い伝えられている。この曽我兄弟の仇討ちは、「吾妻鏡」「曽我物語」に記され後世に伝えられている。地蔵が辻五輪塔(じぞうがつじごりんとう)當麻町當麻当麻寺門前から東へ約400m余、当麻寺参道の脇の地蔵堂に傍にあり、鎌倉時代の作と見られる。一般に相撲の開祖・當麻の蹶速の塚(墓所)といわれているが、享保17年の当麻氏の高田由緒記に「麻呂親王四代の孫、当麻八郎為信卿延暦二十四年乙酉八月十四日御年六十六歳にて終わり給う。即ち当麻寺の東四町余、地蔵が辻に葬る。其後人皇五十一代平城天皇大同二、丁亥年藤原貞影を勅使として為信卿石塔を地蔵が辻に建てれ当代に至る迄もこれ有る也」と記している。「西国名所図会」の挿図にも、この石塔付近の様子が描かれ、古くから当麻詣での人々に親しまれたものと思われる。寺院石光寺 當麻町染野宗派浄土宗・知恩院末、創建当時は三論宗で、創建は不明だが、元明三年に再建本尊弥勒菩薩(坐像)ほか伽藍本堂(国宝指定・入母屋造桟箭瓦葺・7間×7間・明和27年上棟)、東塔、西塔、金堂(国宝・重要文化財)、講堂、薬師堂、仁王門、鐘楼等庫裡(明和27年の建築)寺伝当麻寺の北約1kmの所にあるこの寺は、天智天皇の時代、光を放つ所があるので掘ってみると光り輝く弥勒三尊の石像が出てきた。そこで勅願を受けて役行者が堂宇を建て、石光寺を称したのが起源であるという。この寺も中将姫ゆかりの寺で、境内には蓮糸曼陀羅の蓮糸を染めたという「染の井」があり、寺名も別称「染寺」ともいう。平成三年に弥勒堂が建て替えるために基礎を発掘すると、石像の弥勒仏が発見された。この弥勒仏は、石仏としては日本最古(白鳳時代)の貴重なものであると判定された。また、牡丹の名所として世に知られているが、寒牡丹・春牡丹ともに見事なものである。さらに、境内には折口信夫の歌碑や与謝野鉄幹・晶子の文学碑が建てられている。そして、古今の歌人・俳人がこの寺を訪れ、数々の句や俳句を残している。初春や當麻の寺へ文かけば奈良の都に住む心地する与謝野晶子寒牡丹咲きぬ見に来とたよりあればこころは動く染めの古てら前川佐美雄風ありとうなづきあふや寒牡丹青畝傘堂 當麻町染野傘堂とは、文字通り傘に似た形から付けられた名前であるが、この傘堂は左甚五郎の作と伝えられ、大池の東側にある。一辺40cmの方柱に上に方形造りの屋根がのせられている珍しい建物である。屋根は本瓦葺きで、屋根の頂には宝珠露盤をのせてある。この傘堂には、ぽっくり信仰が伝えられている。本尊傘阿弥陀は石光寺に、鐘は明円寺に保管されている。高雄寺 當麻町新在家本尊薬師如来坐像(平安後期の作)聖観音立像(平安初期の作)ともに寺宝となっている。二上山の山裾、雑木林に囲まれた中にたたずむこの寺は、白鳳年間・役行者によって創建されたと伝えられる寺である。寺伝によると、恵心僧都源信の母が、この寺の観音菩薩に祈願して源信を授かったという。平成11年冬、放火により観音堂を焼失。寺宝は無事に現存している。當麻寺 當麻町當麻宗派現在は高野山真言宗・浄土宗の両宗併立。創建当時は三論宗本尊弥勒菩薩(坐像)伽藍本堂(国宝指定・入母屋造桟箭瓦葺・7間×7間・明和27年上棟)、東塔、西塔、金堂(国宝・重要文化財)、講堂、薬師堂、仁王門、鐘楼等庫裡(明和27年の建築)塔頭高野山真言宗の「中の坊」「松室院」「不動院」「西南院」「竹之坊」、浄土宗の「奥院」「護念院」「念仏院」「来迎院」「紫雲院」「極楽院」「千仏院」「宗胤院」がある。寺伝用明天皇の皇子麻呂子王が、河内國交野に建てた万法蔵院に始まり、その後麻呂子王の孫當麻の真人国見が、役行者縁の現在の地に移し、禅林寺と改称したものといわれ、當麻氏の氏寺として天平期の初頭に創建されたとされている。天平期には、興福寺の末寺になり、治承4年・平家の南都攻めの際に金堂が大破し、講堂が焼失したが、間もなく源頼朝が施主となって再建された。創建当初は三論宗を奉じていたが、弘仁14年空海が参籠してから真言宗となり、のち浄土信仰が起こると當麻曼陀羅を中心とした霊場として栄えた。現在は真言宗と浄土宗の両宗併立となっている。多くの仏像、仏画、曼陀羅等貴重な寺宝、国宝、重要文化財を所蔵している。行事等とくに有名な行事として、當麻お練り(正式には「聖衆来迎練供養会式」という。)がある。恵心僧都源信が、二十五菩薩の来迎によって大衆を浄土信仰に導くために始められたものである。五月十四日は中将姫が生身のまま成仏したという日に由来するという。伝承治承四(1180)年、平重衡の乱によって罹災したともいわれる當麻寺は、源頼朝によって再建されるが、その七年後、文治三(1187)年2月、兄頼朝に追われた義経が、その門前で一夜を明かし、追っ手を逃れて、弁慶ほか僅かな家来とともに吉野へと赴くのである。受福寺 當麻町当麻宗派臨済宗妙心寺派補陀落山と号す。開山:和峯尼本尊観世音菩薩(通称「契観音」)寺伝享保6年、知峯尼により創建。寛政2年第三世知仙尼が本堂を創立。天保7年第四世智光尼が庫裏を建立。創立以来、少林寺の末寺であったが、明治25年現宗派となった。八代祖栄尼の時、天誅組の伴林光平がしばしば訪れたようで、光平の書跡が多く保存されている。なかでも陵墓の荒廃を嘆いて描いた「河内国御陵墓図」は貴重な資料である。西光院 當麻町竹内宗派浄土宗・黒谷金戒光明寺末白雲山未来寺西光院と称す。本尊阿弥陀如来(創建未詳)寺伝享保年間に第十三世浄誉が本堂を再建したという。本堂には地蔵菩薩・長谷式十一面観音などがあり薬師堂にも地蔵菩薩を安置。本堂の地蔵菩薩立像は平安後期の作で、国の重要文化財である。神願寺跡 當麻町染野寺伝によると、高雄寺の別院で、白河院勅願所と伝えられ、時願寺ともいう。五條市の棚本家所蔵の大般若経の建仁元年の奥書に、「観興寺高雄寺別院神願寺書写了」とある。「諸山縁起」には時願寺として「香寺なり。大石神は大高石なり。行道所あり。」と注記。「帝王編年記」永仁六年四月十日条に「西大、招提、大安寺以下三十余ヶ寺為関東将軍家後深草院皇子一品久明親王御祈祷所、停止寺領之違乱禁遏殺生之重罪」としてみえる諸寺の中に「神願寺葛下郡二上山」とあり、平安末から鎌倉末期にかけて栄えたが、その後の沿革は不明。「大和志」にはすでに廃寺として「在万歳山東」とあり、寺跡は神願寺谷と考えられる。現徳寺 當麻町南今市宗派浄土真宗本願寺派東光山と号す。本尊阿弥陀如来寺伝開基は布施導光、文明年間に当地に庵を結び「東光庵」と号していたが、延徳三年に真宗となり、東光山現得寺と改めた。本堂のほかに庫裏・鐘楼・客殿などを構える壮大な寺院である。境内には根部は松。その上部は柿という珍しい霊木がある。照久寺 當麻町八川宗派真宗興正派宝珠山慈悲光院照久寺と号す。本尊阿弥陀如来(立像)ほか寺伝開基は布施裕西(布施城主布施行国の次男、布施照久とも称した)。応永三年、行国の別業の地に一寺を建立し、天台宗に属した。にち永享七年、現京都市の興正寺第十一世性雲の化導により真宗に改めた。以後真宗興正派の中本山となったが、明治七年宗規綱令によって一般末寺となった。観音寺 當麻町今在家宗派浄土宗本尊観世音菩薩立像蓮生院 當麻町如意宗派浄土宗本尊阿弥陀如来坐像寺伝由緒は不明。中興は雲貞大徳にかかる。境内には延宝8年に雲貞のためにたてられた石燈籠があり、「延宝八年為宝誉雲貞」の銘を残している。また室町期の五輪塔残欠を見る。常楽寺 當麻町太田宗派浄土宗本尊阿弥陀如来坐像ほかに地蔵菩薩像、聖観音像、阿弥陀如来坐像、祖師像などがある。東林寺 當麻町大畑宗派真宗興正派本尊阿弥陀如来立像寺伝本尊は側面観の美しいすらっとした姿で、藤原時代の作といわれ美事な姿である。大正時代までは尼僧が在住していたが、今は無住で荒れるに任された状態である。聖福寺 當麻町大畑宗派曹洞宗本尊四十二臂十一面千手観世音菩薩立像寺伝長尾葛城寺の第二世奇岩和尚が、晩年ここに卜し、休廬の知として一宇を建立し、以来伝承され今に至る。境内本堂横に室町時代の大きな五輪塔がある。受福寺 當麻町当麻宗派臨済宗妙心寺派本尊観世音菩薩立像寺伝享保六年知峯尼の開基、創立以来摂津少林寺末であったが、明治二十五年妙心寺末となったという。西導寺 當麻町勝根宗派浄土真宗本尊阿弥陀如来立像寺伝宇陀郡宇賀志村勝林寺の末寺であったが、明治九年京都の興正寺が本願寺から独立してから興正寺派の属し、勝林寺から離れて独立した。大竜寺 當麻町染野宗派真言宗醍醐寺派本尊八大龍王、不動明王をまつる。祐泉寺 當麻町染野宗派四天王寺末本尊釈迦牟尼如来像永延二年性空上人の開創にかかり、以後幾たびか変遷。大正六年時の住職梅田無定師が私財を以て現在地に移築したものと伝えられる。岩屋峠道の中腹にあって庫裡からの眺望は抜群によい。教善寺 當麻町加守宗派浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来立像寺伝もとは西本願寺派で、現徳寺末であった。中興は宗伝で、元禄八年に再建され、正徳二年九月二十九日に本仏尊像が許されたという。文化二年の銘のある燈籠がある。清教寺 當麻町木戸宗派真宗興正派本尊阿弥陀如来像寺伝もとは八川照久寺の末で木戸村の中央にあったが、大正十年に改築を行い現在地に移転した。境内に室町期の五輪塔の残欠がある。極楽寺 當麻町大畑宗派真宗興正派本尊阿弥陀如来立像寺伝本尊の背面に、「興正寺門徒覚応寺下現得寺下和ш級コ郡布施郷平田荘尺土村」とある。由緒は不明だが、天文二十二年の三条西公条の大和紀行日記「吉野詣記」にこの寺の名を記していることから、室町時代にはかなり立派な寺として存在していたのであろう。明円寺 當麻町新在家宗派浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来立像寺伝宝永五年九月、明円寺という寺号を用いることになったと伝える。「西国三十三所名所図会」には「妙栄寺」とある。専光寺 當麻町兵家宗派浄土宗当麻寺末西方庵 當麻町当麻宗派浄土宗本尊寺伝法善寺 當麻町竹内宗派真宗大谷派本尊阿弥陀如来立像浄土寺 當麻町長尾宗派真宗興正派本尊阿弥陀如来立像寺伝本堂正面の鬼瓦に「天明五年九月吉日」の陰刻が見られる。葛城寺 當麻町長尾宗派曹洞宗本尊薬師如来坐像脇侍仏として、聖徳太子・如意輪観音・達磨大師などの像がある。書画には大般若本尊・観音・達磨大師・祖師などを描いた三幅も見られる。寺伝大般若波羅密多経六百巻も残されている。光照院 當麻町長尾宗派浄土宗本尊阿弥陀如来立像寺伝磐城村誌には、堂内に安置する十一面観音像は「西光院に存す身鍛観音像を全ふせるものと見るべし」と記している。阿弥陀寺 當麻町兵家宗派真宗興正派本尊阿弥陀如来立像寺伝由緒不詳。堂庫裡の鬼瓦に「明和三戌年五月吉日」の刻印を見る。神社
葛木倭居坐天羽雷神社(かつらぎのしとりにいますあめのはづちのじんじゃ) 當麻町加守祭神雨羽雷神別殿に摂社加守神社(祭神・天忍人命)と二上神社(祭神・大国魂命)を祀る。加守集落西方の高台に鎮座。背後に二上山の雄岳の尾根が迫っている。旧村社。近世には五社明神と称し、享保九年の和洲御領郷鑑に「五社明神・天神・春日・八幡・二上権現社地四十七間、弐拾七間」と記されている。摂社加守神社は、産婆の神として信仰を集める。二上神社は、山頂の葛木二上神社の遙拝所であったと伝えられている。行事として、お田植え神事が四月十五日に行われるが、この時子牛を出産する所作が行われる。これは当麻山口神社でも同様。葛木二上神社(かつらぎにじょうじんじゃ) 當麻町染野祭神豊布都霊神大国魂神近世には岳の権現と称し、二上山から流れる水の恩恵を受ける山麓数十ヶ村(岳郷)の郷社であった。古来二峰の山に男女に神を祀る例があったといわれ、二上山には雌岳に神蛇大王(竜神)を祀る社があった。式内葛木二上神社は、定款元年正月二十七日に従五位下より従五位上に昇叙。長尾区有文書によると、当麻寺真言方が年預となって、修復等は葛下一郡の村々によって行われたが、明治の廃仏毀釈により、当麻寺とは切り離された。しかし雌岳の社は、当麻寺中の坊鎮守として境内に遷祀されたと伝えられ、現在中之坊の稲荷神社末社に龍王社の小祠がある。本殿は昭和四十九年の二上山大火で類焼。翌年再建。旱魃の年には岳郷によって雨乞いが行われ、「嶽の神様のぼりがおすき、のぼりもてこい、雨降らせ」と叫びながら山上へ参ったという。また、四月二十三日の例祭には、「嶽のぼり」といって、河内・大和の近郷の人々が山にのぼる「ハルゴト」が行われる。当麻山口神社(たいまやまぐちじんじゃ) 當麻町当麻祭神瓊瓊杵命・大山祇命・木花佐久夜比売命旧村社。熊野新宮と称し、宝永七年の棟札によれば、万歳郷平田庄の鎮守で、享保七年の当麻村明細帳には今在家村・染野村・勝根村・大橋村・中村・当麻村・鎌田村・築山村・有井村・神楽村・大中村・岡崎村・池田村の十五ヶ村の氏神とある。長尾神社(ながおじんじゃ) 當麻町長尾祭神水光姫命白雲別命竹内街道と長尾街道の交差点に鎮座。旧村社。創建不詳。嘉吉三年の放光寺古今縁起には、法光寺の南の鎮守で、伊勢の内宮・外宮の垂迹であるとし、ほかに諏訪・住吉・熱田を祀るとある。現祭神は江戸期の社記によるもので、それによると、水光姫は吉野連の祖で、竹内の「三石」という所に三角磐があり、ここに同神が降臨したと伝えている。近世には、竹之内村・八川村・尺土村・木戸村・長尾村の五村の氏神であった。当麻都比古神社(たいまつひこじんじゃ) 當麻町当麻祭神彦坐皇子当麻氏の祖・麻呂子皇子当麻山口神社摂社として、本殿の左右に配置。江戸時代の当麻寺付近古図によると、当麻集落のほぼ中央、当麻寺への参道の南側、春日神社付近に記されている。当社は土着の男女二神を祀った産土神と考えられ、おそらく後に当麻氏の氏神として祭祀されたと考えられる。一説には、仁寿三年の創祀。延喜式に、四月と十一月の上申の日に行われる当麻祭のことを記し、祭には五色衣・安芸木綿・曝布・緋絹などが充てられた。当麻氏は、中世に平田庄荘官となるが、同氏の退転とともに同社も衰微したようである。伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ) 當麻町南今市祭神伊奘諾命天児屋根命祭典は十月六日。南今市の氏子が九組に分かれて順番に奉仕する。金比羅神社(こんぴらじんじゃ) 當麻町兵家祭神春日神社(かすがじんじゃ) 當麻町兵家祭神天津児屋根命春日神社(かすがじんじゃ)當麻町伏越祭神天津児屋根命明神神社(みょうじんじんじゃ) 當麻町如意祭神天照大神応神天皇春日大明神如意集落の北西部の丘陵上に鎮座。この神社は一歳未満の子供達の健康を願って、毎年七月十七日の祭礼に小型の絵馬を奉納するという。豊玉神社(とよたまじんじゃ)當麻町太田祭神海積豊玉彦命創立年代不詳。旧磐城村誌に「伝説に曰く、往古、当社に毎年一度は必ず妙齢の処女の生供をなさざれば、五穀実らず、田野山林大いに荒れ損じたりといふ。故に太古は毎年神の御験ある家の娘を白長持に封じて供えたりといふ」と記している。春日神社(かすがじんじゃ) 當麻町大畑祭神武甓槌命天児屋根命天押雲命姫神明治二十六年の明細帳には「往古ノ事ハ憑拠無シ現今ノ社殿ハ文化元年ニ同拝殿ハ明治二十二年ニ改築シ・・・・」とあり、さらに境内社として「金刀比羅神社」を祀っている。この境内社について「蓋シ該神社ハ素ト大和国葛下郡磐城村大字大畑聖福寺境内ニ鎮座アリシヲ去ル明治元年神仏混合廃止ノ令出デシ時現今ノ所ニ遷宮セシモノナリ・・・・」とある。市杵島神社(いつくしまじんじゃ) 當麻町八川祭神道主貫命近鉄尺土駅の西南八川の南端通称池の上に鎮座。この祭神は古来水辺に齋つる神として崇められてきた。春日神社(かすがじんじゃ) 當麻町尺土祭神天児屋根命近鉄尺土駅のすぐ北に接した平坦地にくぬぎ・よのみ椋などの古木の繁みの中に鎮座。東隣に極楽寺がある。鳥居の所に石灯籠が3基あり、一基に「寛政五癸丑霜月吉日」とあり、古さを示している。この神社では、旱魃時に雨乞いをし「雨をくだされ大明神、きゅうりもなすも焼けけるがな」と唱えたという。菅原神社(すがはらじんじゃ) 當麻町竹内祭神菅原道真高峰神社(たかみねじんじゃ) 當麻町竹内祭神天押雲命竹内集落の西端旧竹内街道の北丘陵上に鎮座する。旧参道は竹内街道の右側にあったが、道路改修によって今の参道になったという。石段登り口の石灯籠には「金比羅大権現享和二年九月吉日当村宮田嘉兵衛」などと刻されている。菅原神社(すがはらじんじゃ) 當麻町当麻祭神菅原道真春日神社(かすがじんじゃ) 當麻町当麻祭神天児屋根命稲荷神社(いなりじんじゃ) 當麻町染野祭神稲倉魂命厳島神社(いつくしまじんじゃ) 當麻町新在家祭神市杵島比売命浄土門の高僧で「往生要集」を遺した恵心僧都が、幼少の頃勉学したのはここだと伝えられている。祭典は10月7日という。八幡神社(はちまんじんじゃ) 當麻町木戸祭神誉田別命本社の祭典は、毎年土用の入りと寒の入りの日に行われ、天祷御供と称する塩餡入りの土用餅を供えて、宮講九人が拝殿内に蚊帳を持ち込んで一晩泊まり込み、四時頃になると缶を叩いて村中に参拝を触れ込んで祭典を執行、参詣者に土用餅を配る。寒の入りには甘酒を配る加守神社(かもりじんじゃ) 當麻町加守祭神春日若宮大社(かすがわかみやたいしゃ) 當麻町勝根祭神天押雲根命新宮大明神社(しんぐうだいみょうじんしゃ) 當麻町今在家祭神瓊瓊杵命祭典は、春祭を4月6日、秋祭を9月19日に行われる。
○万葉集當麻真人麻呂の妻の作れる歌吾が背子は何処ゆくらむ奥つ藻の名張の山を今日か越ゆらむとある。當麻真人麻呂が持統帝の伊勢行幸に従駕した時、都に残ったその妻が夫の安否を気遣って詠んだことだろう。「行幸におともしてもう幾日になるだろう。私の夫は今ごろ何処を旅しているだろう。名張の山を今日は越えているだろうか。」二句切れのこの歌は、従駕した吾が夫の旅行きに思いをはせ、三・四句で具体的に地名・時を示し、その切実さを歌い上げている。まさに孤影悄然・寂寥に悶々として情緒が横溢している。○記紀・歌謡と当麻「当麻」の地名が古代文学に出てくる例はほとんど無い。「古事記」や「日本書紀」の中の歌謡にわずかに見出すのみである。「履中記」に、皇弟に追われた天皇は、かれ大坂の山口に到幸しし時。一女人遭へり。その女人白ししく「兵を持たる人ども多にこの山塞ぎをり。当岐麻道より廻りて越え幸でますべし」と申しき。かれ天皇歌ひたまひしく大坂に遇ふや嬢子を道問へば直には告らず当芸麻道をのるとあり。履中記では大坂より倭に向ひたまふ。飛鳥山に至りまして少女に山口に逢へり。問ひて曰はく「この山に人有りや」とのたまふ。対へて曰さく。「兵を執れる者、多に山中に満めり廻りて当摩徑より踰えたまえ」とまをす。太子、是に以為さく。少女の言を聆きて、難を免がるること得つとおもほして則ち歌して曰くとして古事記歌謡と同じ歌を掲出している。○万葉と二上大坂越えをする古代の人々は峠にぬさを手向けつつ、あるいは秀嶺二上を仰ぎつつ、四季おりおりの情緒を歌に託したであろう。しかし残存しているものは少ない。わずかに「万葉集」に三首あるのみである。詠山紀路にこそ妹山ありといへ玉くしげ二上山も妹こそありけれ紀伊街道を大和から南下すると、橋本・高野口に至る。笠たを過ぎると紀の川をはさんで妹背の山容が真近になる。奈良、飛鳥から古代の旅行きも、この妹背の山にさしかかる頃ともなると、そぞろに旅愁に浸り、妻恋の思いしきりであろう。そして、この紀路の妹山が人口にのぼる時、それにもましてすぐれている大和の二上の妹山を自らの誇りとして読み上げたのであろう。「紀路に妹山があるというが、二上の山にも美しい妹山があるよ」というのである。詠黄葉大坂をわが越えくれば二上にももみぢ葉流る時雨ふりつつ大坂の峠をわたしが越えてくると、彩られた二上の山の紅葉が散っている。しぐれが降り続いた中にという意味になるのだろうか。奇物陳思二上に隠らふ月の惜しけども妹が袂を離るるこの頃二上に山に隠れている月のように惜しいけれども、あの娘の手枕をせぬこの頃よ。というのである。○大津皇子の墓大津皇子の屍を葛城の二上山に移して葬るとき大伯皇女の哀傷して作らす歌うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟とあがみむすでによく知られているとおり、大津皇子には異母兄弟が多く、わけても持統天皇を母とする皇太子草壁皇子を筆頭に、あるいは高市皇子等の皇兄たちで皇位継承をめぐる暗雲が渦巻いていた。父天武天皇の死は、この政権争いに決定的な断となって、大津皇子は渦中の人となり、謀反の罪を着せられ若干24才でこの世を去ったのである。その裏には我が子に皇位継承させんとする持統天皇の母心があったものと考えられている。朱鳥元年九月九日天武天皇崩御政争の中で悶々とする大津皇子は密かに伊勢の神宮に下り、姉大伯皇女に会いに行ったのである。その時に、大伯皇女が作った歌二首わが背子を大和へやるとさ夜更けてあか時露にわが立ちぬれし二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむやがて大和に帰った大津皇子は、十月二日謀反の罪をきせられ逮捕。翌十月三日には処刑されるのである。大津皇子、死を賜りし時に磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首ももづたふ磐余の池に鳴く鴨をけふのみ見てや雲がくりなむと歌い、死出の旅路を思いやったのであろう。心中察するに余りある。皇子の処刑は、妃山辺皇女をして、悲嘆の淵に陥れた。「妃皇女山辺、髪を被(くだしみだ)して徒跣(とあし)にして奔り赴きて殉ぬ」(書記)見る人皆悲しんだというのもむべなるものがあろう。大伯皇女はその訃報に接して慟哭した。しかし、齋宮の身で自由に行動できない。やっと解かれて帰京したのが、十一月。大津皇子薨ぜし後大伯皇女伊勢の齋宮より京に上る時に作らす歌二首神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに見まくほりあがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるにこのようにして帰京してどれほどたったか定かではないが、やがて大津皇子の墓が移葬されるのである。うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟とあがみむそれからすでに千三百年、皇女と皇子との悲しみは今も夕映えの二上に偲ばせているのである。
○和歌中古時代の当麻地方をよんだ和歌は比較的少ない。しかも二上山とごく少数の岩橋山をよんだものに限られている。また二上は他にもあって大和二上山と混同され識別しにくいものが多い。たくましげ二上山の木の間より出づればあくる夏の夜の月(金葉集)歌合わせにも若干見出せる。左たくましげ二上山のほととぎす今ぞあけくれ鳴き渡るなり右時鳥のちのさ月もありとてやながくうづきをすぐしはてつる○説話文学口伝されている巷間の「はなし」が、特に仏教的色彩をもって定着することによって成立したものである。長谷寺縁起に関わったはなしで、当麻は脇役であるが紹介しておく。近江の国に大水が出た時に、大木が流れ着いた。郷人がその木を切り取ると、家が焼けたり、病に罹って死人が出たのである。占師はやはりその木のためだという。その後、人々は次第にその木に近寄らなくなった。然る簡に、大和の国葛木の下の郡に住む人自ら要事ありて、彼の木のある郷にいたるに、その人、この木の故を聞きて心の内に願をおこしける様、「我、此の木を以て十一面観音の像を造り奉らむ」と思ふ。−−−中略−−−道行く人力を加えて、曳くほどに大和の国葛木の下の郡の郷に曳き付けつ。然れども、心の内の願を不遂して、その木を久しく置きたる簡にその人死にぬ。然れば、此の木、亦、その所にして徒に八十余年を経たり。其程、その郷に病発りて、首を挙げて病む者多かり。是に依りて、亦、「此の木の故也」といひて、郡司、国司等、集りて云はく、「故某がよしなき木を他国より曳き来りて、其によりて病発せる也」然れば、其子、宮丸を召し出して勘責すと云へども、宮丸、一人して此木を取り捨て難し、更にすべき様なければ、思ひ煩ひて、其郡の人を催し集めて此木を敷の上郡長谷川の辺に曳き捨てつ。その後二十年、僧徳道がこのことを聞いて、「これは霊木であろうから十一面観音をお造り申そう」と思い長谷に引き移した。しかし徳道にその力なく、七八年泣く泣く拝礼をつづけるばかりであった。これを聞かれた飯高(元正)天皇、房前の大臣など力をお貸しになり、神亀四年、二丈六尺十一面観音が完成した。これを供養したのが長谷寺だという。染殿の后、為天宮被嬢乱話第七文徳天皇の御母染殿の后が病気にかかられ、金剛山の僧に加持をもとめられてところ、、早速に治療する。が、その僧后の美麗さに心動いて、人のいないのを見はからって、后の臥せ給へる御腰に抱付きぬ。后驚き迷ひて、汗水に成て恐ぢ給ふと云へども、后の力に辞び得難し。然れば、聖人、力を尽してれうじ奉るに、女房達、此を見て、騒ぎののしる時に、侍医当麻の鴨継と云ふ者あり。宣旨を奉って、后の御病を療せむが為に宮の内に侍けるが、殿上の方に、俄に騒ぎののしる声のしければ、鴨継驚きて走り入りたるに、御帳の内より、この聖人出たり。鴨継、聖人を捕えて、天皇に此由を奏す。天皇大きに怒り給て、聖人を搦めて獄にいましめられぬ。
○和歌中古と事情がほとんど変わらない当麻は、和歌には縁の遠い存在であった。比較的少ない中にも歌われているのは、二上山と岩橋に限られている。時鳥飽かずもあるかな玉くしげ二上山の夜半の一声(読人知らず・続後拾遺集)岩橋の絶えにし中を葛葛城の神ならぬ身はなほも待つかな(新拾遺集)わがごとや久米路の橋も中絶えて渡しわぶらむ葛城の神(新拾遺集)○説話文学「中将姫」の伝説・説話がある。○謡曲謡曲「当麻」も世阿弥清元の作であり、仏寺の縁起を主材として、特に蓮の糸で織ったといわれる当麻曼陀羅の由来を脚色し、念仏讃嘆したものである。ワキ・念佛僧、ワキツレ、同従僧二人、前シテ・化尼、前ツレ・化女・狂言・所の者後シテ・中将姫を登場させる。ワキ次第、「教へうれしき法の門。教へうれしき法の門開くる。道に出でワキツレうよ」ワキ「これは念佛の行者にて候。われこの度三熊野に参り、下向道に赴きて候。又これより大和路にかかり、当麻の御寺に参らばやと思い候」ワキ道行「程もなく、帰り紀の路の峠関越えて、こや三熊野の岩田川、波も散ワキツレるなり朝日影夜昼わかぬ心地して、雲もそなたに遠かりし、二上山の麓なる当麻の寺に着きにけり、当麻の寺に着きにけり」を冒頭に、この念佛僧と従僧(ワキとワキツレ)が熊野参詣の帰途、大和の当麻寺に参る。すると老女と若い女の二人連れに出会うが、この二人は僧たちに尋ねられるままに当麻寺、染殿の井、桜のことなど教えた上、いわゆる中将姫伝説を語り、自分らが曼陀羅を織った化尼、化女であることをうちあけ、紫雲にのって天上する。僧たちは重ねて奇特を拝まんとする時、やがて中将姫の雲が出現し念佛の功徳を述べ、阿弥陀を来迎し、舞いを舞って後夜勤行する。これが梗概である。
○和歌依然として、当麻をよんだ和歌は多くない。辛うじて次に揚げたものが存在する程度である。岩橋のとだえて見えず葛城や峯にも尾にも霞わたりて(「常山詠草」=光圀)岩橋の絶え間も見えて葛城の久米路の谷に蛍飛ぶ影(「松山集」=橘保己一)岩橋のあえたるうき身には人にかくべき一言もなし(「泊珀舎集」=村田春海)○芭蕉と当麻この項については別記とする。
○散文折口信夫の小説に大津皇子と中将姫とを主題にした「死者の書」がある。原本「死者の書」には、文亀当曼の外に、四葉の山越し阿弥陀図が挿入されてゐて、そのうち禅林寺の山越し阿弥陀図は、恵心の体験を親しく書いたものと言われてゐるのである。それは恵心が、大和二上山麓の故郷狐井の里で、二上の間に入る夕日を見た感動に基づくといふ、詩人らしい迢空の想像に基く。迢空には西の空の彼方への憧憬が、幼時からつちかわれゐて、それが迢空の幼時体験を、あたかもわがことのやうに想ひ描かせたのである。」といっている。月は依然として照って居た。山が高いので、光に当たるものが少なかった。山を照し、谷を輝かして、剰る光は、又空に跳ね返って、残る隅々までも、鮮やかにうつし出した。足もとには、沢山の峰があった。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、辛みあって、深々と畝ってゐる。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになって、俄に出てきた霞の所為だ。其が又、此冴えざえとした月夜をほつとりと、暖かく感じさせている。哲学者和辻哲郎の紀行文を集めたものに「古寺巡礼」がある。大正八年の刊行であるが、その一節に、王寺で和歌山行きの小さい汽車の乗り換へる頃には、空が一面に薄曇りになって、何となく気持ちが晴々しくなかった。そのせいか汽車から見える当麻の山の濃く茂ったイ萃とした姿が、ひどく陰鬱に、少しは恐ろしくさえ見えた。その感じは、高田で汽車を降りて平坦な田畑の間を当麻寺の方へ進んでいく間にも、頻りに僕の心にまつはった。山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであるが、さういふお伽噺めいた心持ちさへも強く刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、秘密の国土でも蔵してゐるやうに見えた。当麻の寺が役ノ行者と結びつき、中将姫の奇蹟の伝説を育てゝ行ったのは、恐らくこの種の印象の結果だろう。麦の黄ばみかけてゐる野中の一本道の突当りに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れていかずにはゐない。茂った樹の間に立ってゐる天平の塔を眺めながら、んやりと心を放して置くと、濃い靄のやうな伝奇的な気分が、いつの間にかそれを包んでしまう。−−−−山の裳裾の広い原に麦は青々とのび菜の花は香るその原の中の一すぢ道塔の見える当麻寺へ。れんげたんぽぽ柔らげに踏むは白玉の足なおやかに軽く、裳をふく風もうるささうに塔の見える当麻寺へ。(以下省略す)○詩歌明星派の与謝野鉄幹が石こう時を訪なったのは、明治の末年という。時雨時雨降る日はおもひいず当麻の里の染寺にひともと枯れし柳の木京の禁裡の広前にぬれて踏みける銀杏の葉鉄幹の妻晶子も訪れていて、やや黄ばむ油菜のさき見るごとく夕月にほふ葛城の山という歌を残し、晩年当地をしのんでは、初春や当麻の寺へ文書けば奈良の都に住むここちする(石光寺・鉄幹)という歌を石光寺の麟海師のもとに届けている。会津八一も、この地を訪れて秀作を残している。ふたかみのてらのきざはしあきたけてやまのじづくにぬれぬひぞなきふたかみのすそのたかむらひるがへしかぜふきいでぬたふのひさしに川田順にもこの地に遊んだ歌がある。あふぎみる庇々のかさなりの静けきかもよ空の深きに(山海経)山もとの当麻の村の夕けぶり野道を行くにいつまでも見ゆ釈迢空(折口信夫)にものぼり来てひとりなりけりほろぼろに天二上嶽見ゆ葛城も見ゆ牡丹のつぼみいろたち来たる染井寺にはもそとももただみどりなる「死者の書」とどめし人のこころざし―。遠いにしへも悲しかりけり隻脚の詩人尾山篤二郎も当地を訪れて歌を残している。ひがしの塔の影さす泉には白雲ふかく沈みたるかな此庭に咲ける馬酔木を手にとりて哀哭たてましし大来の姫みこ○詩歌俳句については、人も作品も多い。ここでは割愛する。