甘樫丘から皇極天皇の宮、板蓋宮を覗く

甘樫丘

(「あまかしのおか」、かつては「うまかしのおか」と呼ばれていた)

時は644年11月、乙己の変(大化の改新)の前年の事、 蘇我蝦夷とその子、蘇我入鹿は家を天橿丘に並べて建て、父である蝦夷(大臣:おおおみ)の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷(はざま)の宮門といった。 子供達を王子(みこ)と、まるで自分が天皇(すみらみこと)であるかのよう呼ばせていたという。 家の外には城柵(きかき:とりでとしての柵)で囲み、門のわきには兵庫(つはものぐら:武器庫)を設けていたのだった。 、門ごとに用水桶を置き火の災に備えた。 つねに力人(ちからひと:ちからあるもの)に兵(つわもの:武器)を持たせ家を守らせたのだった。

「日本書紀:皇極天皇」より

蘇我氏の邸宅、天橿丘はその当時の天皇の宮、板蓋宮が見下ろせる岡の上に邸宅を構え、自らの家を宮門と呼び子供を皇子と呼ばせ外国の文化を取り入れ飛鳥寺を日本で最初のお寺として建立(587年、石舞台古墳に眠る蘇我馬子が発願)
それまで無かった瓦ぶきの建物はそりゃ〜もう、蘇我氏の力をありありと民に見せつけられた事でしょう。
大陸から難波津(難波の港)を経由してやってきた大陸の使者に対しても日本の顔として 天皇も曽我氏の財力をあてにせざる得ないのも面白くなかったのであろう。
中大兄皇子(のちの天智天皇)は表立っては皇極天皇を天皇に立てて、政治の実権は実際には中大兄皇子が握っていた(まぁ、今の小沢党首みたいなもんですわ)が のだが、中大兄皇子にとって蘇我氏はかなり目障りな存在であった為暗殺する事に、大化の改新である。
入鹿は中大兄皇子達によって暗殺し、蘇我氏の氏寺、飛鳥寺に立てこもっていた所、父の蘇我蝦夷は自らの家を放火したのだった。

時は経ち、1994年天橿丘から七世紀中頃の炭化した建築材や焼けた壁土、須恵器に土師器が大量に出土している。
これが蘇我氏の建物かどうかの決定的な証拠はないがもし蘇我氏のものであればドキドキものである。