画像は飛鳥板蓋宮から蘇我氏の邸宅、天橿丘望む
このページの画像はHP「夢殿」のJUNさんに頂きました

伝飛鳥板蓋宮伝承地

乙己の変(大化の改新)

時は皇極4年6月8日(645年)、中大兄は密かに倉山田麻呂臣に「三韓(今の韓国、北朝鮮:高麗、百済、新羅の総称)の調(貢物)が贈られる日に、必ず上表文を読み上げて欲しい。」と頼んだ。
ついに入鹿を切る為の謀(はかりごと)を麻呂は了承したのだった。
12日、天皇は大極殿(おおあんどの:大極殿の名が史上初めてここででてくるのですが、大極殿自体本当にあったのかどうかは疑問が残る所です。)に出てきた。
古人大兄が侍べる。中臣鎌子連は蘇我入鹿臣が疑い多く昼夜太刀を持っている事を知っているので俳優(わざひと:歌舞などをする人)に教えて騙して解(ぬ)かせた。
入鹿の臣笑いて剣を解く。倉山田麻呂臣は進んで三韓の表文(ふみ)を読む。中大兄、御門府(ごもんのつかさ:ここで御門府が史上初登場、御門府がこの時代にあったかどうかは疑問が残る)に戒めて、12の通門(みかど:宮城の12門の事)をさしかためて、通行止めにした。
中大兄はみずから長き槍をとって殿の側に隠れた。中臣鎌子連達、弓矢を持って護衛。
海犬養連勝麻呂に命じて箱の中の二つの太刀を佐伯連子麻呂(さえきのむらじこのまろ)と葛城雅犬養連網田(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に「すばやく斯れ」っと告げた。
小麻呂たち、水をかけて飯を流しこんだが恐ろしくて吐きもどしてしまうのであった。中臣鎌子連はこれと責め励んだ。
倉山田麻呂は上表文を読み終わろうとするが、小麻呂達が出てこないのが恐ろしく、汗だくに・・・。声も手も震えた。鞍作臣は怪しんで「なぜゆえにふるえているのか?」と聞いた。
山田麻呂は「天皇の近くで恐れ多くて汗が流れ出るのです」と答えた。
中大兄は小麻呂達がいるかの威勢に恐れているのを見て「ヤァー!」(書記にはほんまに咄嗟(やあ)って書いてあるんです)と掛声とともに踊りでて、剣で入鹿の頭から肩を斬り付けたのだった。
入鹿は驚いて経とうとすると、小麻呂が剣で片方の脚を斬った。入鹿はひざまづいて「日嗣の位にいるのは天子である。鞍作(蘇我入鹿のまたの名を鞍作という)になんの罪があるのか?」と言った。
天皇は立って殿の中に入ってしまった。佐伯連子麻呂、葛城雅犬養連網田は入鹿を斬った。

この日は雨が降っていて、庭は水でいっぱいになっていた。

「日本書紀:皇極天皇」より


画像は板蓋宮から北の飛鳥寺を望む。
飛鳥寺の左手に入鹿の首が
飛んでいったと言われている。

この遺跡は3層に渡って宮が重複しています。
現在ではこの遺跡の最下層が第34代・舒明天皇「後飛鳥岡本宮」、
二層目が第35代・皇極天皇(第37代として再び斎明天皇と名前を変えてここで天皇となる)「板蓋宮」、再上層が第40代天武天皇「飛鳥浄御原宮」ではないかとの見方が一般的です。


板蓋宮は当時コンクリートやアスファルトが無かった為、白い石を敷き詰めて屋根にはそれまでの茅葺屋根とは違い、当時貴重品だった板を使われていました。
明日香は石の都だったと言われていますがその代表格の宮です。
入鹿殺害の時、中大兄達は柱に隠れていたと書記では書かれていますが、それが本当ならよほど大きな柱(巨大な建物)なのでしょうね。それか入鹿が酔って見つけられなかっただけか・・・。(笑)
中大兄はこの跡次々に倉山田石川麻呂や古人大兄が殺していきます。中大兄が恐れられた始まりです。

書記ってほんと小説風で演出(この場面では雨が強調されていたり)も入れて公式の歴史書とは思えない創りで面白いのですが、ここがまた詳細については疑いたくなってくる点でもあるんですね。
ここから1kmほど離れた蘇我氏が日本ではじめて建てた本格的寺院、飛鳥寺の門跡の前に入鹿の首塚があります。
入鹿の首が切り落とされてそれがここまで飛んできたと言われています。この話に関してはまだ続編があるのでまたおいおい・・・。

この乙己の変の後、天皇の地位は皇極天皇から軽皇子が孝徳天皇として大阪・難波の地に宮を移します。
難波宮です。この辺もまたおいおい・・・。(^^;