画像は板蓋宮から北の飛鳥寺を望む。 飛鳥寺の左手に入鹿の首が 飛んでいったと言われている。 |
この遺跡は3層に渡って宮が重複しています。
現在ではこの遺跡の最下層が第34代・舒明天皇「後飛鳥岡本宮」、
二層目が第35代・皇極天皇(第37代として再び斎明天皇と名前を変えてここで天皇となる)「板蓋宮」、再上層が第40代天武天皇「飛鳥浄御原宮」ではないかとの見方が一般的です。
板蓋宮は当時コンクリートやアスファルトが無かった為、白い石を敷き詰めて屋根にはそれまでの茅葺屋根とは違い、当時貴重品だった板を使われていました。
明日香は石の都だったと言われていますがその代表格の宮です。
入鹿殺害の時、中大兄達は柱に隠れていたと書記では書かれていますが、それが本当ならよほど大きな柱(巨大な建物)なのでしょうね。それか入鹿が酔って見つけられなかっただけか・・・。(笑)
中大兄はこの跡次々に倉山田石川麻呂や古人大兄が殺していきます。中大兄が恐れられた始まりです。
書記ってほんと小説風で演出(この場面では雨が強調されていたり)も入れて公式の歴史書とは思えない創りで面白いのですが、ここがまた詳細については疑いたくなってくる点でもあるんですね。
ここから1kmほど離れた蘇我氏が日本ではじめて建てた本格的寺院、飛鳥寺の門跡の前に入鹿の首塚があります。
入鹿の首が切り落とされてそれがここまで飛んできたと言われています。この話に関してはまだ続編があるのでまたおいおい・・・。
この乙己の変の後、天皇の地位は皇極天皇から軽皇子が孝徳天皇として大阪・難波の地に宮を移します。
難波宮です。この辺もまたおいおい・・・。(^^;
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