難波の「難波の堀江」


和光寺あみだ池の放光閣(難波の堀江)

第二章

難波の堀江

仏像が日本に入ってきて、国内では疫病がはやる事になる。

後に、国に疫気行(えやみおこ)りて、民夭殘(おほみたからあからしまにしぬること)致す。
物部負大連尾輿・中臣鎌子、同じくまうして曰さく、「昔日臣(いむさきやつかれ)が計(はかりこと)をもちえたまはずkして、
この病死を致す。今遠からずして復(かへ)らば、必ずまさに、喜び有るべし。早く投げ捨てて、ねむごろに後のaiさいはひ)を求めたまへ」とまうす。
天皇曰(のたま)はく、「奏(まう)す依(まま)に」とのたまふ。
有司(つかさ)、乃ち佛像(ほとけのみかた)を似て、難波の堀江に流し棄(す)つ。復火(またひ)を寺につく。
焼つきてまたままり無し。ここに天に風邪雲なくして、たちまちに大殿に災あり。
「日本書紀・欽明天皇」


豊浦寺(春兎さん提供)


疫病は異国の神を大和につれてきたから大和の神がお怒りになったと思い、
豊浦寺を焼き、仏像を難波の堀江に投げ捨てたのだった。


画像は豊浦寺横、明日香の「難波の堀江」(春兎さん提供)

同じシーンを阿弥陀池畧縁記ではこう書かれている。

諸国に疫病はやり人おほく死す尾輿の大臣これ佛をまつるかみのとがめなりと仏法禁ずべきよし奏問をとげはや勅命なりて豊浦寺にせめよせ
本堂講堂に火をはなちやきはろぼすといへども如来は火の中ですこしも損じ玉はずこれによりたつらにかけうちくだけどもすこしも損せず
今はせんかたなく池中にしづめけるこの佛はちにて尾輿の大臣には悶絶てんどうして死すその後天皇崩御敏達天皇御即位あり
この後また候池中より佛を上げて奉り御き依ありしにしさるあって森屋の大臣おやのかたきなりとて攝津河内の鋳物師を大勢よび
寄七日七夜たづらにかけうちくだけども如来は光明を放ちすこしも損じ玉はずこれにより守屋の大臣おふひにいかりぜひなく
とうき津の国難波の浦にしずめける
「阿弥陀池畧縁記・攝州大阪難波堀江和光寺蔵版」

和光寺に関する書物はいろいろ探し回ったが、この一冊以外見当たらなかった。
HP上でもただ単に和光寺の難波の堀江は、明日香の難波の堀江ではなく大阪の難波の堀江にでも捨てたかのような書き方がされてるが
実はそうではなかった。両方尊重されていたのでした。

蓮池山 智善院 和光寺


和光寺


さて、ここで「難波の堀江」のある和光寺についてふれる事にしよう。

尼寺三十六所巡礼 第21番、摂津88ケ所 第3番にも指定されているのですが
この寺の起源を「阿弥陀池略縁記」から探る事にしよう。

難波の浦に臨幸在して水中に向ひ御祈念あれば如来御出現あって光明を放ちわれはまつものありとてまた候水中に入玉ふ夫より
聖徳太子は日本国中大小の神々ならびに佛法守護の四天王に御祈誓ありて副将軍には河内国秦の川勝跡身の一尾等
御勢三千騎守屋の方には5万余騎これより都大混乱となり終には守屋を亡ぼし直様四天王寺御建立あって仏法をこの国に
広め一切衆生を済度なしたまふなり。
「阿弥陀池畧縁記・攝州大阪難波堀江和光寺蔵版」

四天王寺誕生の時です。大阪の難波の堀江から光明を放ちながら水面にでてきたのだろうか。
それともそのような夢を見たのだろうか。

あの仏像が四天王寺を建てたのだとしたら、今度は四天王寺が難波の堀江を復活させる時がきます。

時は推古天皇八年(600)のこと、
信州より信濃守大番の役儀として奈良の都へ御詰ありそのとき本田善光(よしみつ)も官吏として
都に上がり、難波の浦を通りしに水中より本田善光とこへありつげてのたまはく。
水中より光明かくやくとして一光三尊の如来出現し玉ふて異香四方に薫し光明十方をてらし玉ふ善光頓に喜縁開発してたちまちに菩提心をおこし
如来を拝み奉るこの光明におどろきたれ云ふとなく諸人追々はせ来り難波の浦より守屋がしづめし三国の如来御出現なりと我もと老若男女
群集し御利益つのるものかぎりなし。
「阿弥陀池畧縁記・攝州大阪難波堀江和光寺蔵版」

下の画像は和光寺の阿弥陀池から見つかった像で鎌倉時代作とされている。


池から見つかった阿弥陀三尊立像(善光寺如来像)、両端は近年造られた和光寺所有の像

善光は如来をせなにおひ奉り信濃の国をさして出て立ちけるに
善光如来をおひ奉り夜は如来善光をおひ玉ふてぞ信濃国に趣き玉ふ扨諸人なごりをおしむ事
限りなしまことに闇夜に燈をうしなひ子の親にかわれしに異ならずせめて如来久敷すみ玉ふ所の池の水をいただき
御利益をたまわらんこと諸人群集なす。
「阿弥陀池畧縁記・攝州大阪難波堀江和光寺蔵版」


善光寺山門(ゆめこさん提供)

本田善光が「難波の堀江」から2体の金銅製阿弥陀像(善光寺如来)を拾い上げ、故郷に帰りこれが善光寺のはじまりとされています。
聖徳太子は善光寺如来と書簡を交わしたとも伝えられており、善光寺信仰とともに太子信仰とともに広がったのでした。

しかし平安末期の書、「扶桑略記」(ふそうりゃっき)には信濃(長野)の「善光寺縁起」に、百済から阿弥陀三尊像が
波にながされ、難波津に漂着したことが記されているのは興味深い。

聖明王が献上した仏像などが、朝廷の港(玄関口)であった上陸地難波津からもたらされた為その難波津に投棄したのだろうとも言われている。

さて、大阪の難波の堀江であるこの土地には現在和光寺というお寺が建っているのだが、
幕府の命により堀江新地開発の最、境内1800坪を永代寺地と定め、智善上人が善光寺如来出現の地として寺堂を建立、
蓮池山智善院和光寺と称した。元禄十一年(1698)の事だった。


『摂津名所図会』和光寺より

『摂津名所図会』に「世の人寺号を唱へずして阿弥陀池とのみいふ」

ここの「難波の堀江」は現在「あみだ池」と呼ばれ親しまれている。寺の名前より池の名前が一人歩きしているようだ

近くの大通りはあみだ池筋とも呼ばれ、地名も阿弥陀池と呼ばれる事からもそれが伺える。



もしかしたら、この辺り一帯の地名が「堀江」と呼ばれるのも関係があるのかもしれない。

余談ですが、このあみだ池の真横に変わったお地蔵さんがいる。
なにかかわった地蔵さんだとも思わずそれまで見過ごしていたこの引導地蔵。



地蔵さんに付けられたよだれかけは子供を死後導いてもらう為子供の遺品などをたくしたのだとも言われるが
ここの地蔵さんには別の意味が込められてるのかも知れない。
和光寺創建元禄十一年(1698)調度キリスト教が禁止されていた頃だった。

では、エプロンをたくし上げてみる。
すると・・・。



聖母マリア地蔵か?
一説には織部灯籠(キリシタン灯篭)ともいわれているのであるが
権威ある研究者の間でも否定説と肯定説とがあるが未だ決着はついていない。

この和光寺には他にもあごより上の病苦を取り除いてくれるあごなし地蔵他多くの地蔵さんがいる。
明治五年十一月の府令にようる町内の地蔵、稲荷社、道祖神などの撤廃の最、路地の奥などで難を逃れたのが
ここにきているのだろう。


和光寺あみだ池に写る放光閣と亀


次回「もうひとつの難波の堀江」「守屋没す」。お楽しみに。
いやっ、手を抜くので期待しないで(笑)