浪速


画像は上町台地の最北部。この北側に仁徳朝時代に難波の堀江が開削された。

現在の大阪、「難波」の地の名がはじめて古事記に登場するのは今から約2600年余り前の事です。
初代天皇、神武天皇が吉備(岡山県)の高島宮から天下を取る為軍をひきつれ難波の渡(難波碕)につこうとした時早い潮流に合い 早く着いた。
これより浪速(なみはや)と名ずけられた。
今ではなまって難波と呼ばれている。
神武天皇に興味のある方なら記憶の隅にもあるかもしれませんが、川をさかのぼり青雲の白肩津にて停泊したとき、登美能那須泥毘古 (とみのながすねびこ)が天皇軍と戦を起こし天皇は「日の神御子として日に向かって戦うことはタブーで戦には勝てない。
日が背になるよう紀伊国(和歌山県)に迂回して戦をするよう」
に戦略を変え退却したが、その直前の事でった。

地図は7〜8世紀の難波。
上の赤い印は高津宮、下の赤い鳥居は住吉津、白色は砂州、焦茶色は台地。

次に難波の地が表舞台に出てくるのは応神天皇の大隅宮。
世界最大の面積をもつ墓として知られるあの仁徳天皇陵に眠る仁徳天皇 (ほんまに仁徳天皇陵に眠っているかはうさんくさい所もありますが)
大雀命(おほさざきのみこと)、 難波の高津宮に坐(いま)して天(あめ)の下(天下)を治めき」と記されている。
なぜ大和の地から難波の地に宮を開いたかは不明です。 仁徳朝時代、大きな工事を行っている。難波の堀江である。 古事記には「秦人(渡来系の人物で大陸文化を取り入れるのに一躍をかった。
秦氏もまたいずれスポットを当てたいとおもう)
を労役にあて、 茨田(うまらた:寝屋川市のあたり)(つつみ:淀川の堤)と茨田三宅(うまらたのみやけ)とをつくり、 又、難波の堀江を掘り川の水を海に通し、又、小椅江(おはしのえ:生魂神社の東の方に 大阪市天王寺区小橋町があるがそこではないかと言われている)また、墨江(すみのえ:奈良時代まではすみのえとよんでいた)(津とは大津の事で朝廷権力下の港の事: 住吉津は住吉神社前の港、そんな訳で住吉神社は海の神のみならず国家的な神でもある)を定めた。」

当時上の地図のA部の河内湖が水の排水性が悪くよく洪水を起こしていた為治水工事をしたと思われる。
難波の堀江を掘ることができたのも上町台地の北側は天満砂洲が広がっている為掘りやすく工事が成し得たのであろう。
後の時代に上町台地をまともに横断して掘削しようと試みたが、失敗に終っている。
この住吉津(墨江津)の津守(住吉神社の神主でもある)は大阪市西成区津守に住んでいたと思われる。
関係無いけど私の通ってた自動車学校はこの津守にあるんです。
くおぉぉ、あの地はそんな聖域だったのかぁ。なんかうれしいなぁ。
しかし、難波の堀江の掘削により難波津から大和川や淀川へのアクセスが良くなり難波津は急激に繁栄し、住吉津が衰退していったのだった。