水の都・飛鳥

飛鳥

古代、7世紀に都が築かれ、政治の中心地であり、万葉文化華やかなりし土地、「飛鳥」は
現在の奈良県高市郡明日香村を流れる飛鳥川流域を指す地名らしい。
飛鳥については様々な説がある。
語源については、スカ(川べりの砂州)に接頭語の「ア」がついたという説があり、
『古事記』『日本書紀』には飛鳥、明日香、阿須箇、安須可、阿須可などと表記がされている。
また、『万葉集』には「とぶとりの」という枕詞を使った歌が3首あり、そこからきたという説もある。

和銅3年藤原の宮から寧楽の宮に遷られた時に、御乗り物を長屋の原に
お立てになって天皇(元明)の詠まれた御製(1-78)
飛ぶ鳥のあすかの里をいきて往なば、君があたりは見えずかもあらむ
  (住み慣れた飛鳥の里を離れてしまうと愛しい人が住む家のあたりも見えなくなってしまうであろう)

飛ぶ鳥のあすかの川の、上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れ触らへ・・(以下略)
(飛鳥川の上の瀬に生えている美しい藻が川下の瀬に流れあたる・・)
柿本人麻呂 川嶋皇子への挽歌(万葉集194)

飛ぶ鳥のあすかの川の、上つ瀬に岩橋渡し、下つ瀬にうち橋渡す・・(以下略)
(飛鳥川の上の瀬には石の橋を渡し、川下には作りつけの橋が渡してある・・)
柿本人麻呂 明日香皇女への挽歌(万葉集196)

また、飛鳥の代表的な歌としてこの歌もある。
・采女の袖吹きかへす明日香風、都を遠み、いたづらに吹く
   (宮仕えの采女たちの袖を吹き返していた飛鳥の風よ、都が遠くなって詮なく吹いていることだ)
志貴皇子 飛鳥宮から藤原宮に遷ってからの歌(万葉集51)

飛鳥が水の都である所以

万葉のふるさと、飛鳥は水の都だったと考えられるのだが、正確にいえば「石と水の都」である。
明日香村(飛鳥)を歩くと、あちこちに石がある。
それらの石は1300年もの間、口を閉ざしたままで何も語ってはくれない。
だが、その石の間を水が流れていたと考えられ、
飛鳥は水を使った都作りをしていただろうということがうかがえる。

代表的な歌としてこの歌もある。
・大君は神にし在せば、水鳥の集く沼を、となしぬ 
  (天皇様は神様のようなお方なので、水鳥が集まる水沼を都とされたことだ)
作者不明 壬申の乱が治まった後の歌(万葉集4261)

酒船石・酒船石遺跡


飛鳥寺南東の丘陵上にある石造物。
長さ5.3m・幅2.3m・高さ1mの花崗岩である。
その名の通り、お酒を作った場所ではないかといわれていたが、
今は宮廷の水を引く庭園施設ではないか、とも考えられている。
石の表面には大小4つの窪みがあり、 それらをつなぐ溝が掘られている。

亀形石造物

酒船石のある丘から降りると亀形石造物と呼ばれる石がある。 小判形石槽と亀形石槽が連結されており、水が流れている。 谷の湧き水を使ったまつりごと(政)の場とも考えられている。 斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)(天宮)」 の一部ではないかとも考えられている。


飛鳥京跡苑池遺跡

飛鳥板蓋宮跡の北西に位置する。1999年に発見された苑池。
天武紀に白錦後苑(しらにしきのみその)という記述があり、
今までどこにあるのか分からなかったのだが、この発見により ここではないかといわれている。
築造年代は斉明期にさかのぼるらしい。
池底に石が敷き詰められており、真ん中には石積みが島のようにある。
おそらく宮廷の庭園施設であっただろうと考えられている。

石神遺跡

飛鳥寺の北西。石人像や須彌山石が出土した所から石組みが発見された。
斉明期には建物郡や石組池が作られていたと考えられている。

水時計・水落遺跡

660年に中大兄皇子が時を図るために漏刻台(水時計)を作ったという記述があり、
その遺構ではないかと考えられている。飛鳥寺の北西、石神遺跡よりは南に位置する。
飛鳥川の水を利用して時を図っていたようである。


今実際に水の流れを見ることは出来ない。より多く知るためには発掘の結果を待つしかないのが
現状である。飛鳥という土地は、発掘されるたびに歴史を塗り替えている。それは謎をさらに
深める結果にもなるのだが、古代史ファンの想像力を膨らませる結果にもなり、ますます
のめりこんでいくことになる。
ともあれ、飛鳥はこれからどんな姿を見せてくれるのだろうか、 考えるだけでわくわくしてくる。


飛鳥へ戻る/ 更新日:2003,1,26