〜史料に見る氷高皇女〜



●天武天皇11(682)年8月28日条

己丑に、勅して、日高皇女、(更の名は、新家皇女)の病の為に、
大辟罪より以下の男女并て一百九十八人、皆赦す。


〜〜『日本書紀』(以下書紀)上の氷高皇女記事の初見です。
書紀には氷高皇女はこの記事にしか出てきません。
書紀が作られたのは氷高が元正天皇であった時代、
自分の記事を敢えてこういう形で残したのでしょうか。
氷高の別名、「新家皇女」の木簡も出てきています〜〜



●元明天皇和銅7(714)年正月20日条

己卯、二品氷高内親王に食封一千戸を益す。

〜〜『続日本紀』(以下続紀)上で最初の記事です。
二品という高い位がつけられています。
二品は左右大臣にも相当する位で、
当時内親王がもらうのは珍しいです〜〜



●元明天皇霊亀元(715)年正月10日条

二品氷高内親王に一品を授く

〜〜氷高皇女、さらに位が上がり、一品です。
一品は太政大臣クラス。
穂積皇子・舎人皇子・新田部皇子等がついた位です。
続紀の時代の内親王で一品をもらったのは氷高と多紀内親王
のみです。多紀は斎宮として長く勤め、さらに長生きした為
一品をもらえたのではないかと考えられます〜〜



●元明天皇霊亀元(715)年9月2日条

  庚辰、天皇、位を氷高内親王に禅りたまふ。詔して曰はく
「(中略)一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、
夙に徳音を彰せり。天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、
華夏載せ佇り、謳訟帰くところを知る。
今、皇帝の位を内親王に伝ふ。
公卿・百寮、悉く祇 み奉りて、朕が意に称ふべし」とのたまふ。
 

〜〜母・元明天皇から、娘・氷高皇女への譲位の記事です。
「皇帝の位」を譲るといっています。
皇太子・首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がいるのに
元明女帝は娘に皇位を譲りました。
この歳の正月に氷高を一品にまで繰り上げたのは
この時の準備のためだったのでしょうか。
氷高は「若いうちからめでたいめぐり合わせにあい、
早くから良い評判が世に知られている。
心広くあわれみ深い性質を天から授かっており、
物静かで若く美しい」と評価されています
「美貌の女帝」はここからきたようです〜〜



●元正天皇即位前紀(715年)巻第7

日本根子高瑞浄足姫天皇 元正天皇 第四四
日本根子高瑞浄足姫天皇は、天渟中原瀛真人天皇の孫、
日並知皇子尊の皇女なり。天皇神識沈深にして、言必ず典礼あり。


〜〜氷高皇女が元正天皇として即位した時の記事です。
元正天皇は、天武天皇の孫、草壁皇子の皇女である、と書かれています。
「神識沈深にして、言必ず典礼あり」この評価も「美貌の女帝」へと
結びついたのでしょう〜〜



●神亀元年(724)2月甲午詔。第5詔

今神亀の二字を御世の年名と定めて、養老八年を改めて、
神亀元年として、天日嗣高御座お食国天下の業を、
吾が子みまし王に、授け賜ひ譲り賜ふ


〜〜叔母・元正天皇から、甥・首皇子への譲位の記事です。
氷高にとって首は、弟・文武天皇の子・・つまり甥に当たります。
それをここでは「吾が子みまし王」私の子である王に譲るとしています。
首の生母・藤原宮子は体調を崩していた為、氷高が首の母代わりを
していたのでしょうか〜〜



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更新日 2003年7月15日