徐福伝説 | ||
今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされています。そして,徐阜村には石碑が建てられました。驚くことに,その村には現在も徐福の子孫が住んでいます。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。 徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い,莫大な資金を費やして一度旅立ちますが,得るものがなくて帰国しました。何もなかったとは報告が出来ず,この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告しました。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。 若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。そして,何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際,徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれています。この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。 中国には,徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものです。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。 日本各地に徐福伝説は存在します。実際はどこにたどり着き,どこに居住し,どこに行ったかはわかりません。もちろん,徐福という人物の存在を証明する物は何もありません。しかし,徐福の伝説地はあまりに多いのです。徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがありません。実在したかどうかもわからない人物を重要視しないのは当然かもしれない。今から2000年以上も前のことなのに,江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもあります。語り継がれる間に,背景となる時代が混乱してしまうのです。でも,それでも許せてしまうのは,歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれません。徐福は確かにいたのです。それでいいのです。数多い伝説地の中で,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などを訪ねてみました。 |
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徐福像(和歌山県新宮市 徐福公園) |
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東シナ海を出た船は季節風によって南向きに進みます。そして黒潮か対馬海流に乗れば日本海沿岸,太平洋沿岸のどこかにたどり着きます。 大船団なのでひとかたまりで動くことはなく,ある船は対馬海流に乗って東北地方まで,またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾,遠州灘に面した地域や伊豆半島,八丈島などにばらばらに流れ着いたはずです。 船に乗っていたのは,青年男女数千人と機織り職人,紙職人,農耕技術者,漁業特に捕鯨などの専門家,木工技術者,製鉄技術者,造船技術者など生活に関わる技術を習得しているもの多数でした。
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この表の作成のため中日新聞2000.8.12を参考にしました |
赤神神社 五社堂入り口 秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川35 |
秋田県の男鹿半島に赤神神社があります。 景行天皇の時代,この地に中国の王朝前漢の皇帝である武帝(正式な諡号(しごう=おくりな)は孝武皇帝)が天から降りてきたという伝説があります。 秋田の昔話では,武帝は5匹のコウモリとともに,白い鹿がひく飛車に乗って男鹿にやってきました。コウモリは鬼と化し,武帝の忠実な家来になりました。 |
また,神社縁起の中に「日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。」という記述があり,日本武尊の伝説とも関係があるようです。 | 赤鳥居 石塔の横に徐福塚 |
徐福塚 |
徐福塚は五社堂の赤い鳥居近くにありました。実は,この塚は徐福塚復元実行委員会によって古図をもとに復元されたものです。実際に塚とされていた石は不明ですが,江戸時代の古図にはこの位置に記されています。 |
この古図を描いたのは江戸時代の管江真澄という人で,東北地方や北海道を歩いてその記録を残しました。 1754年に愛知県豊橋市で生まれた管江真澄は,1783年から旅に出ます。そして,各地に「菅江真澄遊覧記」を残しています。東北地方では,新奥の細道として多くの名所旧跡にその足跡を紹介しています。 |
管江真澄の図 案内板より |
五社堂 |
赤紙神社の前から999段の石段を上ったところにあるのが五社堂です。 五社堂は赤神神社の本殿です。左から,「十禅師堂」,「八王子堂」,「赤神権現堂」「客人(まろうど)権現堂」,「三の宮堂」と呼ばれています。 中央に祀られているのが祭神の赤神です。赤神神社の名前の由来ともなっています。 |
五社堂には男鹿半島のなまはげ伝説があります。 武帝が連れてきた鬼たちは大変よく働きました。あるとき,鬼たちが武帝に一日でもいいから休みがほしいと頼みます。そこで,武帝は5月15日を休みの日としました。喜んだ鬼たちは,村に下りて畑を荒らし,家畜や娘たちをさらっていってしまいました。怒った村人たちは,鬼を退治することを決心します。武器を持って戦いに挑みますが,力の強い鬼たちに勝てるはずがありません。さんざんな目にあって負けてしまいます。 |
五社堂 |
鳥居から見る港 |
力ではかなわないと考えた村人たちは鬼に知恵で勝負をします。「毎年一人ずつ娘をさしあげるので,一晩で五社堂まで千の石段を築いてほしい。もし一番鳥が鳴く前に完成しなければ二度と村には来ないでほしい」と頼んだのです。村人たちは一晩で千の石段は鬼といえどもできるはずがないから勝てると考えていました。 |
日が沈むのを待って,鬼たちはさっそく石段造りに取りかかりました。山から石を運んでは積み上げていきました。すると,夜が明ける前に完成しそうなほど早く石が積み上がっていきます。これを見て慌てた村人たちは,物まねのうまい者(昔話ではあまのじゃく)を連れてきて,鬼たちがあと一段で千段というところで「コケコッコー」と鳴き真似をさせました。 | 999の石段 終点 |
男鹿半島に続く国道脇の なまはげの館 |
これを聞いた鬼たちは,大変驚きました。やがて怒りに変わり,髪を振り乱しました。雷のような声を出したかと思うと,近くの千年杉を引き抜いて大地に突きさし,山に帰っていきました。それ以来二度と姿を見せることはなかったそうです。 村人たちは五社堂に鬼たちを祀り,怒り狂った鬼たちの様子は,なまはげとして伝えています。 |
権現崎 |
中泊町の海岸から権現崎・尾崎山を見る。 |
国道339号を北上,小泊港に向かう道を左に,するとライオンベイブリッジの両サイドにライオン像が立っています。 | |
左右2個のライオン像が合計4個立っています。 | |
右手に道の駅「徐福の里」があります。 青森県北津軽郡中泊町大字小泊字下前 |
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この像は以前,尾崎神社にあったそうですが,中泊町の広報課の話では,下前から権現崎の道が崖崩れで通れなくなっている(2009年8月現在)ため,ここに移転したとのことです。 日本各地にある徐福像でも最北のものです。 |
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小泊港へ続く道は通行止めとなっているため,山を越えて半島の北側に向かうことになります。 | |
小泊港の全景です。 写真左下方,自動車が止まっているところに駐車場があります。 |
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尾崎神社・権現崎展望台へは山越えの道を行くことになります。土砂崩れがあってからは,地元の方も行ってないそうで,どのようになっているかはわからないので危険だと言われました。片道約2時間の山道になりそうです。 神明宮の鳥居をくぐり,柴崎城方向に向かいます。 |
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神明宮への近道の案内があったので,神明橋を渡ります。 | |
神明宮の大鳥居までは細い道を通って車でも来ることができそうです。 | |
ここから山登りの道が続きます。 | |
所々に権現崎方向を案内する標識が立っています。あと何キロかがわかりますが,小泊港から展望台へは6キロぐらいあるように思います。 | |
山道は草が刈ってあり,東北自然歩道として整備されています。そのため,道に迷うことはなさそうです。 次への移動時間を決めていたため,時間短縮のため,軽装で,ランニングしました。 |
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休憩所は2か所ありました。今年はなかなか梅雨が明けず,長雨が続きました。そのためここまでの山道の所々で小さな土砂崩れがありました。十分注意して進みました。 | |
行程全体はガレ場はなく細い土の道が続きます。上り道が多いのですが,左写真程度で急角度の上り道はありません。 | |
あと少しで頂上というところで日本海が見えました。眼前に崖が広がります。 | |
ここまでで約1時間。歩いたり走ったりの道でしたが,あと500mぐらいで神社に着きそうです。 | |
権現崎へはあと400m。最後のダッシュです。 | |
平坦な道が続きますが,いよいよゴールです。 | |
突然に尾崎神社の鳥居が見えました。 |
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尾崎神社は807年,平安時代に建てられました。山全体が修験者の聖地とされていたようです。 | |
飛龍大権現を祭神とし,徐福が航海の神として祀られています。 そのため,飛龍宮と呼ばれていたそうです。 | |
明治時代の神仏分離で,伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神として尾崎神社と改称されました。 尾崎神社の神主は徐福の子孫だと言われています。 |
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毎年8月16日に大祭が行われているようです。 | |
尾崎神社本殿の右から展望台への道が続きます。北緯41度25分,東経140度15分,標高229mにある津軽半島小泊権現崎の展望台です。 |
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眼前に日本海が広がります。 動画 |
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眼下に灯台が見えますが,ここに行くことはできません。 | |
徐福は小泊岬に上陸しました。 尾崎山で仙薬の行者ニンニクを採っていたと伝えられています。また,村人に薬草や漁法を教え,生活をともにしていたそうです。 |
有明海(佐賀県) 中国から船で渡来した徐福が着いたのは九州西部の有明海でした。 |
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海童神社(佐賀県佐賀市白石町) (園内は入り口にある石碑) |
徐福一行が最初にたどり着いたのは杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)でしたが,ここに上陸するには困難な場所と判断されました。有明町の海童神社にある石碑にはこの地に徐福が来たことなどが書かれているそうです。海童神社を訪問した時(2003.8.19)は神社入口の改修工事中で,石碑(円内)も空き地に倒されて置いてあったため,碑文は確認できませんでした。 |
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徐福一行は上陸地点を決めるために大きな盃を海に浮かべて占いました。そして,盃が流れ着いたのが佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)とされています。筑後川河口にあるこの町に「浮盃(ぶばい)」という地名が残っています。 |
佐賀県佐賀市諸富町寺井津 |
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金立神社境内にある案内と石碑 |
諸富町大字寺井津にある金立神社下宮(金立権現社跡)に「徐福上陸地」の石碑が立っています。 |
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金立神社と徐福像 |
堂の中には徐福像が祀られています。 | ||
一行が上陸した場所は一面の葦(アシ)原で,それを手でかき分けながら進みました。そのため片方の葉だけが落ちてしまったそうです。現在もこの一帯には片方にしか葉をつけないアシが生えています。この時落ちた葉は,「エツ」という魚になったとも言われています。 エツはカタクチイワシの一種で,「斉魚」と書きます。成魚で30〜40pになり,ペーパーナイフのような細長い形をした魚です。有明海に流れる川にしか生息しておらず,珍しい魚です。昔,筑後川を渡ろうとした弘法大師が貧しい漁師を助けた話として,葦の葉がエツになったという話も伝わっています。 |
片葉の葦 |
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「御手洗井戸」 |
一行はきれいな水を得るために井戸を掘りました。上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」とよびました。この井戸は民家の庭に今でも残っています。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われます。 この井戸は8世紀になって再び掘られ,この地に来ていた高僧行基によって「照江」と名付けられました。その後,火災・疫病などが続き,「寺井」と改称されました。その後,僧侶の手によってこの井戸に蓋(ふた)がされてしまいました。いつしか忘れ去られた井戸でしたが,言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いはないとされました。 |
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しばらく滞在していた徐福一行でしたが,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにしました。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えました。白檀に似ているというビャクシンは天に向かってまっすぐに伸び,樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけています。この地域では,新北(にきた)神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここにしかないと言われ,徐福伝説が真実であることを証明しています。(実は本州,伊豆半島の大瀬崎一帯に百数十本のビャクシン樹林があります。大瀬崎は伊豆半島の西海岸側の根元にあり,徐福一行が最後に上陸したとされる静岡県富士市あるいは沼津市と向き合っています。) | 新北神社と「ビャクシン」 (佐賀県佐賀郡諸富町) |
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佐賀市金立町千布交差点より北を見る |
北に向かって歩き始めた一行でしたが,この地は広大な干潟地であり,葦原であり,とにかく歩きにくい所でした。そこで,持ってきた布を地面に敷いてその上を歩くことにしました。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布(ちふ)」と呼ぶことにしました。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分しました。 | ||
千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言いました。どこにあるかわからない不老不死の薬を探すためには,少しでも道に知った者がいれば心強いため,徐福は源蔵の案内で山に入ることにしました。 百姓源蔵屋敷は田の一角にありました。現在その場所を特定することはできませんが,徐福を案内した記念に庭に植えたという松(源蔵松)が残っている辺りとも言われています。 |
源蔵松(佐賀市金立町) |
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阿辰観音(佐賀市金立町) |
源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていましたが,やがて徐福を愛するようになりました。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったのですが,阿辰には「50年後に帰る」と誤って伝わってしまいました。これを聞いた阿辰は悲しみのあまり入水してしまうのです。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀りました。 |
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徐福はいよいよ金立山に入ることになりました。(源蔵の案内とされているが,金立山麓に住んでいた八百平の案内という説もある)金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探しましたがなかなか発見することはできなかったようです。 | |||
金立山 (標高502m) |
山頂までは車道がある また,教育キャンプ場からの登山道もある |
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やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会います。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねました。すると,「釜の中を見ろ」と言うのです。これこそが薬草で,「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまいました。こうして徐福はついに仙薬を手に入れました。 仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草でした。フロフキはカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生しています。煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われています。 |
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フロフキ(カンアオイ) |
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金立山には金立神社があります。祭神は保食神(うけもちのかみ),岡象売女命(みずはめのみこと)と徐福の三神です。以前は徐福だけを祭神としていたといいます。雨乞いには,金立神社の御輿を有明海まで担ぎ出すとよいと言われ,地元では徐福が雨を降らせる神として信仰されています。(徐福と雨乞いの話は富士吉田市にも伝わっています) 金立神社上社の拝殿裏には「湧出御宝石(わきでのおたからいし)」が立ち,この巨石の頂部には水がたまっているといいます。神仙思想に基づけば,この巨石は陽石であり,上宮から下ったところには陰石と思われる巨石が確かにあります。その石の割れ目からは水が出ているようです。 |
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左 金立神社上社 右 金立神社奥の院 |
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拝殿は石造り,裏山に巨石「湧出御宝石」が立つ |
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教育キャンプ場入り口近くに 金立神社中社があります。 |
金立神社下社(佐賀市金立町) 神社の前にある金立道を歩いて 徐福一行は金立山に向かいました。 |
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佐賀県には「金立山物語」というのがあります。これによると徐福は皇帝の第3皇子で,宋無忌という老人の提案に従って不老不死の薬を求めて東方海中の蓬莱の国に行くことになりました。徐福は二度と再び帰るつもりはなく,20隻の大船に500人の若い男女とともに船出しました。最初に着いたのが伊万里湾で,上陸して黒髪山→武雄の蓬莱山→杵島三神山→白鷺温泉→稲佐山→竜王崎→寺井津→金立山 と探し歩いたのです。そして,金立山で仙人と出会い,薬草を手に入れたのです。 | |||
徐福にかかわる伝説は佐賀県にはたくさんあります。 | |||
古湯温泉(佐賀郡富士町古湯) |
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古湯温泉 |
金立山の西方,脊振山と天山の山峡にあり,美人湯としても有名な古湯温泉は,2200年前に徐福が発見したと伝えられています。湯の神のお告げによって温泉を発見し,この湯守となったと言われているのです。彦山大権現には木造の徐福が祀られています。 | ||
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武雄温泉(武雄市武雄町) |
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武雄温泉と蓬莱山 |
楼門がシンボルとなっている武雄温泉にも徐福伝説があります。温泉を見下ろす蓬莱山は徐福一行が仙薬を探し求めた山としても知られています。 | ||
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黒髪山(有田町) |
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黒髪山 |
標高516mの黒髪山は山岳信仰の霊場とされてきました。ここにも蓬莱伝説があります。 徐福一行は各地の山に入って仙薬を探し求めました。 黒髪山の来訪については驚くべき話があります。しょうわ41年1月に雑木林から「阿房宮朝硯」と書かれた硯が発見されたのです。これは,佐賀市が発行している『太古のロマン 徐福伝説』に書かれていることで,徐福が確かにこの地にいたことを示す物ではないかとも考えられます。因みに「阿房宮」は秦の始皇帝が建てた宮殿で,「アホ」という言葉の語源ともなっています。 |
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犬走天満宮(山内町) |
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犬走天満宮 |
徐福像 |
黒髪山の南東にある山内町に犬走という地区があり天満宮があります。この鳥居の石段を登った神殿の横に祠が建ち,中に徐福が祀られています。 「阿房宮」の文字が入った硯が発見されたのが山内町です。後の調査でこの硯は始皇帝の時代の物ではなくて清時代のものとされました。 |
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吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市) | |||
吉野ヶ里遺跡から発見された絹や人骨などが中国と深く関わっていることもわかってきました。これらは徐福と吉野ヶ里遺跡とを結びつける史料ともなっています。徐福に同行してやってきた人たちが,吉野ヶ里に住み着き,一大王国を築いていったのではないでしょうか。 | |||
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徐福は最初に九州に住みつき,数年後,蓬莱山をめざしてさらに東方に船出しました。そして,九州南部の各伝説地に立ち寄りながら,四国から紀伊半島へと黒潮や季節風を利用して向かっていったと考えています。 しかし,この船出に同行せず,九州西北部の地に定住した者たちもいたのです。徐福の子孫たちがここで「クニ」をつくっていったのかもしれません。それが吉野ヶ里遺跡と考えてもよいかもしれないのです。 | |||
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佐賀市徐福長寿館・薬用植物園(佐賀市金立町金立)
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童男山古墳(福岡県八女市大字山内) |
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1号墳 石室内部 童男山古墳(どうなんざんこふん) |
この一帯は6世紀後半頃に造られた童男山古墳郡を形成しており,現在までに27基が確認されています。それらの中心にあるのが1号墳で,直径約48m,高さ約6.7mの円墳です。複室の横穴式石室で,玄室に凝灰岩の巨大な石屋形があります。石棚・棺床・石棺も多いのが特徴です。 嵐で遭難した徐福は山内の人達に助けられましたが,看護の甲斐なく息を引き取ったため童男山に葬られたと伝えられています。今でも毎年1月20日に徐福の霊を慰めるため「童男山ふすべ」という行事を川崎小学校の児童が中心となって行っているそうです。徐福の安らかな眠りを念じて煙が絶えないように火をたき続けてきたのがその行事の由来です。 しかし,徐福がこの地で亡くなったとすると,紀伊半島や山梨県の伝説は存在しなくなります。古墳の名前や数から,徐福ではなく同行してきた童男童女の墓ではないかと考えられます。 |
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徐福と童男童女の像 童男山古墳の近くに,2003年徐福像建立委員会によって建てられました。 |
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筑紫平野 |
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徐福が持ち込んだ稲は肥沃な九州北部の平野で育ち,ここから日本全国へ広まったのかもしれません。特に,佐賀県には多くの伝説が残っているので,「平原広沢を得て王となりて帰らず」と史記に書かれている「平原広沢」は筑紫平野を含む九州北部一帯を示すのかもしれないのです。 |
「徐福求仙登蓬莱之像」日本一の徐福像 (鹿児島県いちき串木野市) |
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徐福像は冠岳を背に東シナ海を見ている
いちき串木野市にある長崎鼻 ここから東に照島海岸が続きますが,上陸地点としてふさわしいところかもしれません。 |
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照島海岸 |
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いちき串木野市在住の方より情報をいただきました。それによると,照島海岸とつながる照島には照島神社があり,ここに行くのに赤い欄干の橋を渡るそうです。この橋を渡ったところに石碑があり,それには徐福が上陸したことが書かれているそうです。さらに島の奥まで行くとそこは東シナ海が目の前に広がります。 | |
冠岳 西岳と徐福像 冠岳は西岳,中岳,東岳からなる山で,薬草が多く自生していたと言われています。 |
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西岳(標高516m)は中国古代の冠の形に似ています。冠岳という名前はそれが元になっていると言われますが,別説として,冠岳にたどり着いた徐福が自らの冠をとり,ここで封禅(ほうぜん)の儀式を行って冠をここに留めたからついた名という説もあります。「封禅は天と地に王の即位を知らせ,天下が太平であることを感謝する儀式である。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)また,冠の紫の紐を納めた山が紫尾山です。この地でこのような重大な儀式を行ったということは,徐福自身が中国には帰らず,国をつくり,自ら王となるという意思の表れとも考えられます。 | |
冠嶽園及び公園 |
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冠嶽園内の徐福像 |
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いちき串木野市から南に行くと秋目浦という所があります。奈良時代の753年,日本に仏教を広めるため鑑真が遣唐使船に乗って中国から来日した所です。6度目の航海でやっとたどり着いたのが秋妻屋浦(秋目浦)です。 | |
秋目浦と鑑真上陸記念碑 |
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少し南下すると坊津(ぼうのつ)に着きます。リアス式の海岸で,双剣石(そうけんせき)などの奇岩を多く見ることができます。ここにも徐福伝説が残っています。ここから山に入った所に「がっくい鼻」と呼ばれる峠があります。「がっくい」は「がっかりする」の意味だそうです。何年も薬草を探し歩いたけれども見つからず,再び上陸地の坊津が見える峠まで戻ってきました。峠を越えて眼下の海を見ると自分が乗ってきた船がまだそこにあるのが見えました。それを見て疲れ果てて倒れてしまったのです。再び立ち上がることは出来なかったそうです。 坊津は古代の海上交通の要衝で,博多津(福岡県福岡市),安濃津(三重県津市)と共に日本の三大港となっていました。海の流れが自然とここに船を運んだようです。徐福一行が立ち寄った場所でもあります。 |
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坊津の港と双剣石(鹿児島県川辺郡坊津町) |
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長崎鼻及び龍宮神社 全国にたくさんある龍宮神社の一つで,浦島太郎と乙姫様が出会った縁結びの神として祀られています。 案内板には龍宮は琉球と解説してあり,興味深い。 浦島伝説は徐福伝説とも結びつきそうで面白い。 |
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ここで倒れては先に続きません。元気を回復して再び船出したことにします。 | |
開聞岳 再び出航した徐福一行は九州西海岸を左に見ながらさらに東方へ向かいます。 開聞岳を越えて南下すると日本海流(黒潮)と出会います。 |
日南海岸 堀切峠 青島
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写真中央からやや右上が芳士地区 右下はシーガイア と 日向灘
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平成6年,徐福の墓を中心として整備され「徐福公園」としてオープンしました。 (和歌山県新宮市) |
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蓬莱山と熊野川 |
不老不死の薬を求めて蓬莱山をめざした徐福は,熊野川河口にまるで椀をふせたような形の山を見つけました。これこそ神々が降臨するとされる蓬莱山だと思ったのです。 この小山は徐福の伝承が元になって蓬莱山(標高約50m)と名付けられ,現在もそう呼ばれています。 |
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蓬莱山南面(阿須賀神社) |
蓬莱山の南側からは竪穴式住居跡や弥生式土器などが出土することから,この地一帯には弥生時代より集落があったことがわかります。 また,遺跡が発見された場所と隣接して阿須賀(あすか)神社が鎮座しています。 |
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徐福上陸記念碑(阿須賀神社南) |
熊野川河口近くを航行していた徐福たちは蓬莱山を見つけてこの地に上陸することを決めました。 平成9年,徐福が上陸したとされる場所に記念碑が建てられました。 |
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徐福像(徐福公園) |
上陸した徐福は現在徐福公園として整備されている場所に居を構えたようです。 徐福公園の中心部には徐福の石像が立っています。高さ1.9m,御影石に彫られた徐福はたいへん温かい表情をしています。 |
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徐福の墓(徐福公園) |
熊野の伝説では徐福はこの地で亡くなったとされています。新宮市と交流のある中国でもここに徐福の墓があることが定説となっているようです。 1736年,紀州藩祖徳川頼宣が徐福の墓を建立しました。墓碑には儒臣の李梅溪が書いた字が刻まれています。 徐福の墓の場所には2説あって,徐福公園は徐福の住居跡であって,徐福の墓は阿須賀神社境内にある古い石碑ではないかとも言われているのです。 山梨県富士吉田市には『富士古文書』があり,これによれば,徐福はここ紀伊半島に3年滞在した後,富士山をめざして再び東へ旅立ったことになっています。そして,富士山麓で没したとされているのです。つまり,徐福の墓は山梨県に存在することになります。 |
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天台烏薬(徐福公園) |
徐福が探し求めた不老不死の薬とは,紀伊半島に自生するクスノキ科の常緑樹で「天台烏薬」(てんだいうやく)であると言われています。 この根は腎臓・胃・リウマチなどの薬となり,また体内で増えすぎた活性酸素を消す働きもあることがわかっています。 |
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七塚の碑(徐福公園) |
徐福の墓の横には,徐福の重臣7人を祀った石碑も立っています。 7人の墓はもとは円墳で,北斗七星の形を表していたらしいのですが,現在はここに合祀されています。(大正4年建立) |
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徐福顕彰碑(徐福公園) |
これは昭和15年に建てられた石碑で,徐福の墓に向かって左にあります。この徐福顕彰碑はもとは1834年に造られましたが,海上輸送の最中に嵐のため海に沈んでしまったので復元建立したとあります。 | ||||
阿須賀神社 |
阿須賀神社境内地から弥生時代の竪穴式住居跡が発見され,多くの土器も出土しました。 ここは熊野速玉大社とも関わり,主祭神として事解男之命(ことさかのおのみこと),他に家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神祭神を祀っています。 |
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徐福宮(阿須賀神社境内地) |
速玉大社に「紙本著色新宮本社附新宮末社図」があり,そこに「徐福宮」が描かれていました。このことから阿須賀神社境内には古くから「徐福宮」が祀られていたことがわかります。 |
熊野古道波田須案内板「徐福宮」にある西国三十三ヶ所名所図会の「新宮湊」(江戸時代) |
紀伊半島南部には熊野三山があります。 本宮大社(伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)) 本宮が熊野三山の中心として鎮座しています。神門をくぐると3棟で4つの神殿が見えます。 第一殿「西御前(にしのごぜん)」− 熊野牟須美神(くまのむすみのかみ) 事解之男神(ことさかのおのかみ) 第二殿「中御前(なかのごぜん)」− 御子速玉之神(みこはやたまのかみ) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」 第三殿本社「証誠殿(しょうじょうでん)」− 家都美御子大神(けつみみこのおおかみ 家都御子大神ともいう 熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていました。 第四殿「若宮(わかみや)」− 天照大神 那智大社(熊野牟須美神(くまのむすみのかみ) 熊野夫須美大神:伊奘冉尊) 神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸したとき光り輝く山の方へ入っていくと大滝があったとされます。以前よりこの地の住民の信仰の対象となっていた大滝は神武天皇を守り,八咫烏(やたがらす)の導きによって大和へ戻ったと社伝にあります。 この大滝を神とし,「大国主命(おおくにぬしのみこと)」をまつり,また,親神さまの「夫須美神」(伊弉冉尊:いざなみのみこと)を祀りました。 速玉大社(熊野速玉大神(いざなぎのみこと) 熊野夫須美 約2000年ほど前の景行天皇の時代,神倉山から現在の地に遷りました。 熊野速玉大神・熊野夫須美大神を主神とし,12の神々を祀っています。 平安時代から鎌倉時代,皇族や貴族たちは山岳信仰に救いを求め,「熊野御幸」をおこなうようになりました。やがて熊野信仰は武士や庶民へも広がっていきます。 |
熊野本宮大社(和歌山県東牟婁郡本宮町) 本殿撮影及び掲載の許可済 那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町) 速玉大社(和歌山県新宮市) |
紀伊半島南部には熊野古道と呼ばれる熊野信仰の道が整備されて残っています。熊野古道は,伊勢・吉野・京都などから熊野三山に参るための道で,紀伊半島西回りの「紀伊路」(平安時代から鎌倉時代が中心)と東回りの「伊勢路」(江戸時代以降)に代表されるコースが何本もあります。 紀伊半島南部は山が海岸線に迫り険しい山道が続きます。いくつもの峠越えが続く熊野詣はまさに苦行で,道が崩れたり土砂が流出しないようにと石が敷かれた狭い山道を一列になって歩きました。それがアリの行列にたとえられ,「蟻の熊野詣」などと呼ばれていました。 |
熊野古道 三重県紀伊長島町 |
三重県熊野市波田須にも熊野古道が残っています。鎌倉時代の道とされ,苔むした石畳が静かに旅人を待っています。 | 熊野古道 三重県熊野市波田須 |
三重県熊野市波田須(はたす)は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。 大船団で船出した徐福は嵐にあい三重県熊野市の波田須(はたす)・矢賀(やいか)の磯に流れ着きます。当時ここには3軒しか家がなかったそうです。 |
波田須 |
紀州に永住することを決めた徐福はこの3軒に焼き物の製法を教えました。今も「釜所」という地名が残っています。 また,製鉄などの技術や農耕・土木・捕鯨・医薬なども伝えたとされまする。徐福が残したと伝えられる御神宝の「摺鉢」や,秦代の半両銭などが出土し保管されています。 |
徐福宮 |
丸山は矢賀の蓬莱山とよばれており,祠の背部に徐福の墓の石碑が立ちます。しかし,ここに石碑があってもここれが徐福の墓とは言い難いように思います。 やはり,話を続かせるためにはこの墓は徐福のではありません。 |
徐福之墓 |
日本海を対馬海流にのって北上した徐福の船は丹後半島にたどり着きました。日本三景の一つ「天橋立」の近く,「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に徐福にかかわる伝説が残っています。 |
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海上に浮かんでいるように見える冠島。常世島(とこよしま)とも呼ばれており,ここに生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われています。冠島は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれており,「天火明命」は宮津市にあり伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社の祭神ともなっています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ,丹後半島へ上陸したようです。 | 冠島 |
丹後半島では岩が浸食されてできた地形が至るところで見られます。徐福は「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着しました。丹後半島の先端に近い京都府与謝郡伊根町新井の海岸に「秦の始皇帝の侍臣,徐福着岸の趾」と碑が立つ場所があります。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で,現在の海水面からはやや高い位置にあります。 | 「秦の始皇帝の侍臣,徐福着岸の趾」 |
「ハコ岩」から山の斜面を登ると新井崎(にいざき)神社があります。この神社には,医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた徐福が産土神として祀られ,今も土地の人たちが大切にしているそうです。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って,ここに住みついたと伝えられているのです。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)とも呼びますが,徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われます。実際,ご神体は男女二体の木像であるらしいのです。 京都府与謝郡伊根町新井松川8-3 |
京都府与謝郡伊根町新井 |
新井崎神社から北西約5qに浦嶋(宇良)神社があります。淳和(じゅんな)天皇の天長2年(825年)に浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀った神社です。
浦嶋子は龍宮城で有名な浦島太郎で,各地にその伝説がありますが,この地の伝承が元になっています。 中国の神仙思想と結びついて日本独自の伝説となって今に伝わっていると考えられています。 |
浦嶋(宇良)神社 |
現在,愛知県名古屋市にある熱田神宮は伊勢湾の海岸線から北へ大きく離れていますが,もともとは伊勢湾に面していました。つまり,神宮の南側は入り海だったのです。この近くには愛知の名の元になった「年魚市潟(あゆちがた)」の石碑もあり,古代は干潟に続き伊勢湾が広がっていたことがわかります。 地形的に見て,後に熱田神宮が建てられたこの地に徐福が上陸したと考えてもいいでしょう。 熱田の地は「蓬莱島」と呼ばれていました。海に突き出た地形が神仙思想に語られる不老不死の仙人が住むという島に見えたのでしょう。徐福が立ち寄ったことから「蓬莱」が付けられたかもしれません。 |
熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区) |
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熱田神宮境内地の北方に清水社があります。祭神はイザナギ神・イザナミ神の御子のミズハノメ神で,水を司る神です。社殿裏の一段下がった位置に今も絶え間なく湧き水が出ているところがあり,「お清水さま」とよばれています。この水は目や肌をきれいにするという信仰があります。清水が流れる真ん中に小さな岩が頭を出しています。この岩には楊貴妃にまつわる話があります。それは中国が唐の時代のことです。日本を侵略しようと考えていた6代皇帝玄宗を,楊貴妃に姿を変えた熱田大明神が救ったというものです。楊貴妃に夢中になった皇帝は日本侵略を忘れてしまうのです。やがて反乱が起こったので,大明神は熱田に戻ってきます。しかし,玄宗は楊貴妃のことが忘れられず,風の便りに東海の蓬莱にいると聞き,使者を送るというものです。『熱田神宮』(篠田康雄著 学生社)には,鎌倉末期,比叡山の僧が書いた『渓嵐拾葉集』の中で,「蓬莱宮は熱田の社これなり,楊貴妃は今熱田明神これなり」と紹介されています。熱田神宮一帯が蓬莱の字をとり,「蓬(よもぎ)が島」ともよばれる所以です。 | 清水社 湧水池 |
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今は三河湾から内陸に入っていますが,愛知県宝飯郡の莵足(うたり)神社もかつては海に面していました。ここには中国式の生贄(いけにえ)神事が伝えられており,生贄としてイノシシが供えられたこともあったらしいのです。 この神社のある三河地方は昔から絹や綿の織物の製造が盛んでした。また,この地域には「秦」「羽田」「羽田野」姓が多いと聞いています。 徐福たちは熊野にたどり着き数年暮らしましたが,後に御津港から上陸してこの地に移り住んだため,その子孫がこれらの姓を名乗ったのだと言われています。 熊野と三河は海上交通によって結ばれていて人の交流もあったらしいので,熊野の徐福の話がこの地に伝わったのかもしれません。 三河地方には古墳もあり銅鐸も出土していますが,これも徐福と何らかの関わりがあるのかもしれません。 |
莵足神社(愛知県宝飯郡小坂井町) |
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豊橋市・豊川市をはじめとする愛知県の東部(東三河地方)には本宮山,鳳来寺山,石巻山の古代より神仙として崇められる三山があります。その中の「鳳来」は「蓬莱」を意味していると考えられます。鏡岩と呼ばれる巨大な石(山そのものが1個の石)に対する信仰は今も残っています。鳳来寺山はもとは桐生山と呼ばれていました。鳳来寺は利修仙人(神仙思想とも結びついて仙人と呼ばれたが実際は僧であろう。より尊敬の念が込められた呼び方と考えます。)によって開かれた寺で,利修仙人はこの山にある杉の木で薬師如来を彫りました。文武天皇が病気になったとき利修仙人が祈祷によって病気を治したので,天皇が大変喜ばれ,この地に寺を建てて鳳来寺としました。聖武天皇が病気になったときも光明皇后が薬師如来に祈願したところ全快されたと伝わっています。戦国時代にも,三河の松平広忠と於大の方が後継ぎ誕生を薬師如来に祈願して竹千代(徳川家康)が授かったと伝わっています。 | ||
本宮山 | 鳳来寺山(695m) | 石巻山 |
東三河地方には和歌山県の熊野三山との関係が深い多くの熊野神社があります。豊橋市の牛川町にある熊野社は比較的大きな神社で祭神の中に速玉男神(はやたまのおのかみ)を祀っています。速玉男神は徐福との関係があるとされる神でもあるのです。また,牛川町の浪ノ上稲荷神社には多くの石碑が立ち,それぞれに神の名が刻んであります。これらは徐福に同行した子や従者たちの名であるとされています。その中に「保福大神」と書かれた石碑を見つけましたが,「保」ではなく「徐」の間違いではないかとも考えられます。社の横には蓬莱をかたどった弁天があり,ここにも多くの神の名が見えます。(参考:「消された古代東ヤマト」前田豊著 彩流社 及び 古代神都・東三河) | ||
浪ノ上稲荷神社(愛知県豊橋市牛川町)にある石碑(中)や蓬莱をかたどった弁天(右) |
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大瀬崎(静岡県沼津市江梨大瀬崎)と富士山 |
伊豆半島の西海岸側の根元にある大瀬崎(おせざき)は駿河湾に突きだした岬です。大瀬崎にある大瀬神社は照葉樹林に囲まれており,見事なビャクシン樹林も見られます。ここには樹齢1000年以上のビャクシンがあります。大瀬崎のビャクシンが徐福とどのように関わるかは全く不明です。しかし,九州佐賀県佐賀市諸富町の新北神社の神木でもあるビャクシンという木はもともと大陸の暖かいところで育つ樹木で,この種を日本に持ってきた徐福がまいたと伝わっています。また,徐福が最後に上陸した場所は大瀬崎の対岸の富士市か沼津市のどこかの海岸であろうと考えられます。このことから,大瀬崎のビャクシンも徐福と何らかの関係があると推測しています。 |
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山梨県 山中湖 |
山中湖に面した長池村は,以前は長命村と呼ばれており,蓬莱山に不老不死の仙薬を求めた徐福の子孫が住みついたとされる村です。 |
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山梨県南都留郡 河口湖町 |
河口湖にも徐福に関する言い伝えが残っています。 不老不死の仙薬を探し求めた徐福でしたが結局見つけることができませんでした。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意しました。連れてきた童子300〜500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をしました。この地の娘を妻として帰化し(注),村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えましたが,やがてここで亡くなりました。 亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡(つるごおり)と呼ぶようになりました。 (注)この部分の問い合わせをいただきました。河口湖町誌に書かれている内容ですが,原文の確認ができていません。町誌がどこにあるかもわからないままになっています。そのため,どのような女性が妻となったかは不明です。村の娘,同行者の娘のどちらかであろうと推測します。 |
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河口湖浅間神社(河口湖町河口) |
河口湖浅間神社の由緒書には「富士山の神,浅間明神を此の地に奉斎,・・・・伴直真貞(とものあたいまさだ)公を祝(はふり)に同郡の人伴秋吉公を祢宜(ねぎ)に任じ,富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀」とあります。 浅間神社本殿に向かう表参道両脇には杉の大木が立ち,境内地にも天然記念物の七本杉(直径2m以上,高さ40m以上)があります。 この参道の中央に波多志神社と呼ばれる小さな祠が建っています。浅間神社の宮司さんに聞くと,この神社の創祀者である伴直真貞公を祀ってあると言います。この人物は徐福の子孫ではないかと考えられるのです。 また,ここ河口湖周辺地域は昔から機織り・裁縫が盛んであったのです。徐福あるいは同行していた技術者たちが伝え広めたと考えます。 |
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山梨県富士吉田市 |
富士吉田市には真偽は定かではないのですが「富士古文書(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されています。 宮下古文書については東三河と徐福伝説(秦の徐福は東三河に定住していた!?)を参照 |
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明見湖近くの徐福像 (富士吉田市小明見) |
富士吉田市小明見にある徐福像は徐福がここ富士吉田市に最終的に到達し,機織り,養蚕などの技術を伝えたことを記念して建てられています。 「甲斐絹(かいき)」は山梨の織物として知られています。江戸時代に誕生したものと言われますが,甲斐国から「甲斐絹」と命名されたのは明治時代です。しかし,富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んでした。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられています。 |
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徐福雨乞地蔵祠 (富士吉田市小明見) |
徐福像の隣に建つのが徐福雨乞地蔵祠 この祠のある小明見地区には龍神伝説が残っています。ここより西へ少し歩いたところに明見湖があり,かつては湖であったのが,富士山の噴火によって埋まってしまい,小さな池のようになったと言われています。ここに龍神が住むと言い伝えられており,村人たちは五穀豊穣を願って雨乞いをした所でもあるのです。湖畔に明見龍神社もあります。 |
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太神社(富士吉田市小明見) |
上の祠から東へ100mほどの所に小山があります。民家の横を通り,細い道を行くと太神社の鳥居が見えます。そこから石段を上ると徐福祠の前に至ります。 |
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徐福祠 (富士吉田市小明見) |
ともに徐福祠。右は徐福大明神と書かれていました。 この祠が徐福の墓ではないかと言われていますが定かではありません。 |
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徐福碑(富士吉田市上吉田) |
富士吉田市の北口本宮富士浅間神社東側にある高さ約1.6mの徐福碑。中国仏教協会長の趙樸初氏が徐福故事をしのんだ詩が石に刻まれています。この横に高さ約2.3mの日中友好の碑が建てられています。 |
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聖徳山福源寺(山梨県富士吉田市) |
聖徳山福源寺は1724年の創建で聖徳太子の木造や自画像が納められた六角堂も建っています。 聖徳太子が諸国の様子を見に旅に出たとき,黒駒に導かれてここにたどり着いたが,その時3枚の自画像を描きました。ここに納められているのがそのうちの1枚です。 |
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鶴塚(福源寺内) |
徐福は不老不死の仙薬を求めて富士山に入りましたが,その途中で亡くなってしまいます。そして,3羽の鶴に化身して空に舞い上がったのですが,うち1羽が死んで福源寺に落ちてしまいました。この鶴を葬ったのが鶴塚です。 富士山北麓地域の人たちはこの鶴塚を徐福の墓としています。 |
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こうして徐福はおよそ70歳でここ富士山麓で果てました。徐福やその子孫たちは多くの知識・技術を伝え,日本の文化や国の発展に大いに貢献しました。徐福と関わりの深い町は今でも中国との交流があり,姉妹都市提携を結んでいるところもあります。徐福は2000年以上経ってもなお語り継がれ,国を越えて人々の心の架け橋となっているのです。 このように日本はこの国が出来る以前から中国と深いつながりを持っています。日本が今このように大きな国となった原点には,衣食住全ての生活面での,あるいは漢字を始めとする学問・文化面での,そして仏教に代表される精神面での,日中の長く深い交流があります。朝鮮半島の国々を含め,アジアの国々が互いを大切にする気持ちを忘れずに,より強い交流が出来るよう願っています。 |
参考文献等 ・「ロマンの人・徐福」奥野利雄著 大阪書籍 ・「徐福」新宮徐福協会 新宮市商工観光課 ・浅間神社 由緒書 ・「消された古代東ヤマト」前田豊著 彩流社 ・「佐賀に息づく徐福」村岡央麻 ・「太古のロマン 徐福伝説」 佐賀市 徐福関連リンク ・徐福協会website ・神奈備にようこそ index ・徐福伝説と三重県熊野市渡来伝承 ・古代史倶楽部yokosuka ・ほるほる放送局 ・整骨院 東洋医学史研究会 ・古代神都・東三河 ・佐賀市徐福長寿館・薬用植物園 ・ |
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