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桃太郎伝説


岡山駅前の桃太郎
(岡山県岡山市)
 
桃太郎神社の桃太郎
(愛知県犬山市)

吉備津彦神社の桃太郎
(岡山県岡山市)

桃太郎の凱旋
(香川県高松市)
 全国に伝わる桃太郎の物語は,実は大和政権(大和朝廷:大和王権)による全国統一の戦いと
深く関わっているようです。桃太郎の三大伝説地である岡山県,香川県,愛知県を訪ねてみました。
<このページの内容>

桃太郎の物語

桃太郎の前の予備知識 日本神話に登場する「桃」のこと

岡山県の桃太郎『温羅(うら)伝説』

香川県の桃太郎

桃太郎伝説発祥の地 奈良県磯城郡田原本町

愛知県犬山市・岐阜県東濃地域の桃太郎

日本ライン桃太郎伝説

桃太郎神社(岐阜県加子母)
 退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で,一説によると鎌倉時代まで遡(さかのぼ)ると言われています。主人公のモデルとしては,古事記にも登場する神話上の人物,吉備津彦命(きびつひこのみこと)がいます。日本全国で桃太郎の話の舞台となっているところがあり,吉備地域(岡山県総社市を中心とする地域)と尾張・美濃地域(愛知県犬山市を中心として岐阜県可児市を含む)は特に有名です。日本に伝わる桃太郎の話はいくつかありますが,広く知られた話として,青森県に伝わる民話を基にしてわかりやすく表現してみました。
 々あるところに子供のいない老夫婦が住んでいました。ある時,お爺さんは山へ柴刈りに,お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが洗濯をしていると,どんぶらこどんぶらこっこと川上からたくさんの桃が流れてきました。一つ拾って食べてみると大変うまかったのでお爺さんに持って帰ろうと考えました。ところがたくさんあってどれにしていいか迷ってしまったので,「うまい桃はこっちへ来い。苦い桃はあっちへ行け。」と声をかけたところ,大きくてうまそうな桃が寄ってきました。その桃を拾って家へ持ち帰りました。晩になってお爺さんが薪を背負って戻ってきたので,桃をまな板にのせて切ろうとしました。すると,桃が割れて中からかわいい男の子が生まれたので驚いてしまいました。これは大変と,湯を沸かして産湯で体を洗い,着物を着せました。二人は桃から生まれた子なので「桃太郎」と名付けました。1杯食べれば1杯,2杯食べれば2杯分,粥や魚をたくさん食べて桃太郎は大きく育ちました。また,1つ教えたら10覚えるほど賢くなり,また,たいへんな力持ちにもなりました。
 る時,山に鬼がいて,村人たちを困らせていることを聞いた桃太郎はお爺さんお婆さんの前で両手をつき,鬼ヶ島へ鬼退治に行きたいと言いました。二人はまだ若いから鬼を退治することは無理だと言いましたが,「勝てる」と言って全く聞きません。仕方なくそれを許すことにしました。
 退治に出かける日,お婆さんは桃太郎に新しい着物を着せ,袴をはかせて,頭にはちまきをまかせ,日本一と書かれた旗を持たせました。そして,吉備団子をたくさん作って腰にぶら下げてやりました。
 のはずれで犬と出会いました。犬が桃太郎にどこに行くのかと尋ねるので,鬼退治に行くと答えると,腰に付けてる日本一の吉備団子を1つくれたら家来になってついて行くと言いました。そこで,1つ与えて家来にしました。(「もーもたろさん,ももたろさん/お腰に付けた吉備団子/一つわたしにくださいな。/あーげましょう,あげましょう/これから鬼の征伐について行くならあげましょう/行きましょう,行きましょう/あなたについてどこまでも/家来になって行きましょう。/・・・・」)山の方へ行くとキジがやってきたので,吉備団子を1つやって家来にしました。二人の家来を伴ってさらに山の奥へ進んでいくと,今度はサルがキャッキャッと叫びながらやってきたのでまた吉備団子を1つやって家来にしました。そして,犬に日本一の旗を持たせて鬼ヶ島へ向かいました。
 ヶ島に着くとサルが大きな門をたたきました。すると中から鬼が出てきて何の用かと聞くので,桃太郎が「俺は日本一の桃太郎だ。鬼退治に来たから覚悟しろ」と言って刀を抜いて中に入っていきました。サルは長い槍,犬とキジは刀を持って桃太郎に続いて入って行きました。奥では鬼たちが宴会の最中で,桃太郎が来ても馬鹿にしていました。しかし,日本一の吉備団子を食べた桃太郎と家来たちですから,力は何十人力にもなっていました。瞬く間に鬼たちをやっつけてしまいました。大きな鬼が眼から涙を流しながら,「命ばかりは助けてくれ,もう悪いことはしません」と言うので,命を助けてやりました。そして,宝物はみんなやると言うので,車にのせて持ち帰ることにしました。
 に帰るとお爺さんとお婆さんが大喜びで出迎えました。そして,この後みんなが幸せに暮らしました。

*吉備(=現在の岡山地方)団子がいつの間にか桃太郎の団子として特定されてしまったようで,もともとは様々な団子がそれぞれの地方で桃太郎の団子として伝わっていたらしい。
*日本各地に伝わる桃太郎の話は,流れてきた桃の数や桃太郎の育った環境など細かな部分で違いがあります。ここでは最も一般的な話しとして伝わる「桃太郎」を紹介しました。
*桃を持ち帰って仲良く食べた老夫婦が若返り,二人の間に生まれた子に「桃太郎」と名付けたという話もある。桃の形から連想してこのような話が出来上がったとも言われる。
  
・・・・桃太郎の前の予備知識・・・・

日本神話に登場する「桃」のこと
 昔,昔,神の世界でのことです。イザナキノミコト(伊耶那岐命)とイザナミノミコト(伊耶那美命)は天の神たちから「海に漂う大地をしっかりと固めて形よくしなさい。」と命じられて下界に降りてきます。やがて,2柱の神は互いに結ばれ,淡路島を産み,四国を生み,続いて,隠岐島,筑紫島(九州),壱岐島,対馬,佐渡,本州島の8つの島を生みました。これらは大八島国(おおやしまのくに)といいます。その後6つの島を生むと,次に海の神を含めて10柱を生み,さらに,風の神や山の神などを生み続けます。しかし,火の神(ヒノカグツチ)を生んだ時,大やけどを負ってしまい,それがもとで命を落としてしまいました。嘆き悲しんだイザナキノミコトはイザナミノミコトを出雲と伯耆(ほうき)の境にある比婆山(ひばやま)に葬りました。そして,イザナキノミコトは憎しみのあまり自分の子のヒノカグツチの首を剣で斬り落としてしまいました。
 なかなか悲しみがおさまらないイザナキノミコトは黄泉(よみ)の国(死者の国)に出かけ,イザナミノミコトを連れ戻そうと考えました。黄泉の国の館で妻に会うと,イザナキノミコトは「まだやり残したことがあるから戻ってきてほしい。」と頼むのですが,イザナミノミコトは「残念です。もう既にこの国の食べ物を口に入れてしまったので帰ることが出来ません。」と言いました。しかし,「せっかく会いに来てくれたのだから黄泉の国の神にお願いしてみます。」と言いました。そして,「私がもどるまで絶対に私を見ないでください。」と言い残して館の中に入っていきました。しかし,いつまで待っても戻ってきません。仕方なく髪に挿していた櫛の歯を折って火を付け,館の奧に入っていきました。そこでイザナキノミコトは,ゴロゴロと音をたててウジ虫がはい回っている変わり果てた妻の姿を見てしまいました。そして,今まさに8の雷神が生まれるところでした。あまりの恐ろしさにイザナキノミコトは大あわてで逃げ出しました。それに気づいたイザナミノミコトは,「よくも私に恥をかかせたな。」と怒って追っ手を差し向けてイザナキノミコトを捕まえようとしました。鬼のように恐ろしい女たちが追ってくるので,髪につけていた飾りを投げつけて時間稼ぎをしましたが,雷や黄泉の国の軍勢も加わって追ってきました。イザナキノミコトは十拳剣(とつかのつるぎ)を後ろ手に持って,それを振り回しながら逃げ,黄泉津比良坂(よもつひらさか)にたどりつきました。そこには桃の木があり,イザナキノミコトはその実を3つ取って投げつけました。すると,追っ手はみな黄泉の国へ戻っていきました。イザナキノミコトは「人々が苦しい目にあって困っている時に助けてやってくれ。」と言って,桃に「オホカムヅミ」という名を授けました。
 イザナキノミコトが追っ手に桃を投げる前に,黒い髪飾りと櫛の歯を投げつけています。それぞれブドウの実とタケノコになり,追っ手がそれらを食べている間は時間かせぎが出来ましたが退治することはできませんでした。しかし,桃の実を投げると撃退することができ,身を守ることが出来ました。桃にはそのような優れた力があるようです。桃の栄養価は高いので,元気で健やかな子を育てることができます。また,中国から入ってきた言葉に「桃源郷」があるように,平和で安心できる世界というイメージも桃から生まれます。イザナキノミコトが桃の実で救われたのは,中国の思想によるものであり,その思想は日本神話にも影響を及ぼしていたと言えるでしょう。
 この「桃」に力強く元気という意味を持つ「太郎」が結びついて桃太郎の話が出来上がっていったのでしょう。
  
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀740)
 淡路島にある一宮で,伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ),伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)を祀っています。この国生みの神々が最初に生んだのが淡路島です。この地は全ての国生みを終えた伊弉諾大神が余生を過ごされたところです。

弥生時代から神聖視されていた桃
 鳥取県にある青谷上寺地遺跡は弥生人の脳が良好な状態で発見されたことで有名です。 
 2001年6月,この遺跡の楕円形の祭祀跡から桃の種23個が動物の骨とともに見つかったことが発表されました。桃は中国の神仙思想とつながりがあります。桃の種がこの遺跡の祭祀場から見つかったことで,桃が弥生時代より中国の影響を受け,神聖なものとして扱われていたことが分かりました。
 さらに,桃を横穴式石室の入り口に置いた古墳もあったようです。桃は邪鬼を払う神聖な食べ物であったようです。
 神聖で勇敢な男の子として「桃太郎」が誕生します。

 
岡山県の桃太郎

鬼ノ城(きのじょう:岡山県総社(そうじゃ)市) 遠景
 
 岡山県に「温羅(うら)伝説」があります。

伝説の場所(山・川・神社)を地図で示しました。
 昔,昔,吉備(きび)という国のこと,瀬戸内海を見下ろす現在の岡山県総社市の鬼ノ城(きのじょう)に砦(とりで)を築き,温羅(うら)という恐ろしい鬼が住んでいました。温羅はもと百済(ペクチェ:くだら)の王子だったともいわれています。
 鬼ノ城のある鬼城山とそれに続く岩屋には巨岩がたくさんあり,今にも鬼が現れそうな景観(けいかん)を見せています。
鬼ノ城 屏風(びょうぶ)折れの石垣 鬼ノ城 温羅遺跡碑
岩屋 鬼の昼寝(ひるね)岩 岩屋 鬼の差し上げ岩・岩窟(がんくつ)
縦15m,横5m,厚さ5mの大岩を天井石として,
ここに鬼が住んでいました。

 温羅は悪事を働いて人々を困らせていたので,大和政権は討伐(とうばつ)軍を送りました。しかし,温羅はこれを負かしてしまいます。温羅は虎(とら)や狼(おおかみ)のような目,赤く燃えるような髪,身長は約4メートルもある鬼だったのです。

鬼の餅(もち)つき岩
岩の上にあとが残っている

温羅が使ったと言われる大釜で直径約1.6m
深さ約1.3mあります。
岩屋(岡山県総社市)
 
  大和政権は次に吉備津彦命(きびつひこのみこと)を送りました。吉備津彦命は孝霊(こうれい)天皇の皇子の一人で,彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)です。
戦が始まって,温羅は鬼ノ城にこもりました。

鬼ノ城西門付近の石敷
実は鬼ノ城は飛鳥時代に天智天皇の命令で築かれた山城です。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は吉備の中山に陣をかまえていました。
吉備の中山は大きな鯉(こい)の形をしています。

この山の中央付近に吉備津神社があります。
ここから温羅(うら)のいる鬼ノ城に矢を射まくります。

吉備津神社入り口 矢置き岩
吉備津彦命が温羅との戦いの際,ここに矢を置きました。

吉備津神社入り口(岡山県岡山市吉備津)
 吉備津神社の祭神は吉備津彦命で,仁徳天皇の代に創建されたと言われています。本殿と拝殿は室町時代に再建され,比翼入母屋造りの優美な建築様式が「吉備津造り」とも言われ,国宝に指定されています。
 
 吉備津彦命は温羅に矢を射ますが,温羅の投げる大岩に当たって落ちてしまいます。それでもなお射まくるのですが,そのたびに温羅が岩を投げ,矢を落としてしまいます。矢喰宮には温羅が投げたとされる巨岩があります。
(この話は後世の『鬼ノ城縁起』によるもので,別に,温羅の射た矢と吉備津彦命が射た矢が空中でぶつかって落ちた場所という伝承もあります。) 
  
矢喰宮(岡山市高塚108)
矢喰宮は吉備津神社と鬼ノ城とのほぼ中間地点に位置しており,境内には4つの大岩があります。
 なかなか勝負がつかないので,吉備津彦命は一度に2本の矢を射ることを考えました。(これは住吉大明神のお告げによるものとも言われています。)
 すると,1本は温羅が投げた岩に当たって落ちましたが,もう1本は見事に温羅に命中しました。(1本は温羅の左目に命中したようです。)
 温羅は血を流しながら逃げました。この血が流れたところが川となり,「血吸川」と呼ばれています。温羅はキジに姿を変えて逃げましたが,吉備津彦命はタカとなって追いかけました。次に温羅は鯉に化けて血吸川に逃げました。(このとき逃げた川の水が真っ赤に染まったので,血吸川(ちすいがわ)と呼ばれるようになったとする伝承もあります。)
 吉備津彦命は鵜になって逃げる温羅を追いかけました。そして,鯉に化けた温羅を食い上げました。この場所に神社がまつられました。
 
鯉喰(こいくい)神社 (岡山県倉敷市矢部)
 こうして激戦の末,吉備津彦命は見事温羅を退治することができました。戦いの後,温羅の首をはねました。そして,長い間さらしていましたが,夜になると温羅の首は不気味なうなり声をあげ続けたのでした。そこで,その肉を犬に食わせました。それでもうなり声は鳴りやまず,地中深く埋められました。
 ある夜,吉備津彦命が寝ていると夢枕に温羅がたち,これまでしてきた悪いことを償(つぐな)うために,吉凶(世の中のよいことや悪いこと)を釜をうならせて知らせることにしようと言いました。そこで,温羅の首がうめられた上に釜殿を設けて祀るとようやくうなり声は聞こえなくなったと言います。(温羅は「吉備津神社のかまどの下に首を埋めてくれ。そうすれば釜を鳴らすことで世の中の吉凶を知らせることができよう。」と頼んだとも言われています。)
 吉備津神社にはこのような話が残っており,鳴釜神事(なるかましんじ)の起こりとなっています。

吉備津神社 お釜殿
鳴動の音の大小や長短で吉凶を占うお釜殿鳴動神事が現在も行われています。
 
吉備津彦神社(岡山県岡山市一宮)
崇神天皇の代に創建されました。吉備津彦命を祭神としています。 本殿(右端)は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で元禄年間に建てられたものです。

温羅神社 吉備津彦神社境内
  
 桃太郎伝説のもとになった四道将軍
 崇神天皇の時代,大和朝廷の支配を固めるため日本各地に軍が送られました。これは,「教えに従わない者は兵をもって討て」という天皇の命令があったからです。北陸には大彦命(おおひこのみこと),東海に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと),丹波に丹波道主命(たんばみちぬしのみこと),そして,西海に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)を送りました。当時吉備地方で朝廷に叛いていたのは吉備冠者(=温羅)で,鬼ノ城に住んでいました。(岩屋辺りと思われる。)彦五十狭芹彦吉命はこの吉備冠者と戦いました。吉備を平定したために吉備津彦命(きびつひこのみこと)と名乗りました。西海には吉備津彦命のほか,樂樂森彦(ささもりひこ)命,吉備武彦(きびたけひこ,吉備津彦の子で,のちにヤマトタケルの東征に副将軍となって出かけています。)命,吉備津彦命の部下の遣霊彦命らが同行しました。さらに,吉備津彦命の后となった吉備大井姫(百田弓矢姫)の父である百田大兄命も戦に参加しています。百田大兄命は大井神社(岡山市大井)に祀られています。また,鼓神社(岡山県岡山市上高田)の社伝によれば,先方として大活躍したのが遣霊彦命で,吉備津彦命らと協力して吉備を平定することができました。鼓神社の主祭神となっている高田媛命は吉備津彦命の后,樂樂森彦命は高田媛命の父です。
 
香川県の桃太郎
 香川県高松市に「鬼無(きなし)」という地名があります。ここは,桃太郎が鬼を退治して鬼がいなくなったことから「鬼無」という地名になったといいます。
 では,桃太郎の話に登場する鬼ヶ島ですが,香川県では女木島(めぎじま)をさしています。女木島は高松の沖合約4km北に浮かぶ周囲9kmほどの島です。晴れた日は屋島の頂上からよく見えます。さらに,女木島と並んで,桃太郎から逃れた鬼が逃げ込んだ男木島(おぎじま)があります。

箸墓古墳
 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の被葬者と言われています。(この古墳は『魏志』倭人伝にある邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓とする説もあります)

田村神社(香川県高松市一宮町)
讃岐一宮の田村神社は倭迹迹日百襲姫命,五十狭芹彦命(吉備津彦命)ほか5柱を祭神としています。
 
田村神社 桃太郎と倭迹迹日百襲姫命の像
 倭迹迹日百襲姫命が讃岐で暮らしていたとき,弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)が瀬戸内海地方の平定のため兄の吉備津彦命とともに朝廷から派遣されてきました。兄は中国地方の平定に向かい,弟が瀬戸内海一帯の平定を任されることになりました。多分,当時瀬戸内海を荒らしまくっていた海賊たちを滅ぼすことが目的だったと推測されます。稚武彦命は倭迹迹日百襲姫命の家を度々訪れていたようです。 

勝賀山
 ある時,稚武彦命は姉の倭迹迹日百襲姫命に会うため河口から船に乗って本津川を上ってきました。そのとき,川で洗濯をしている美しい娘に一目惚れをしてしまい,娘の家に婿養子に入ります。この娘は鬼から逃れてこの村で暮らしていたのです。それを知った稚武彦命は 村人や娘たちを救うために鬼退治に出かけることにしました。実は鬼とは讃岐の海を荒らしていた海賊で,鬼大王とも呼ばれ,村人たちを苦しめていました。

大古家(おおふるや)
 おじいさんとおばあさんが住んでいたところが「大古家」です。この村に鬼たちがやってきて人々を苦しめていました。
 娘たちはここから西へ約1.5㎞離れた「神高(かんだか)」というところに避難していました。

屋島から見た女木島(左)と男木島(右)
 鬼たちは沖合に浮かぶ二つの島に住んでいました。それが女木島と男木島です。山の中に鬼が隠れていた洞窟があるそうです。

桃太郎神社
 稚武彦命には近くの村や島の人たちが援軍として参加しました。猿王は香川県綾歌郡の人で陶芸を職としていますから火を扱うことを得意としています。瀬戸内海の犬島(岡山県岡山市)の人たちは船を扱うことに秀でています。鬼無近くの雉子谷(かしがだに)の人たちは山野を駆けめぐり弓矢を得意としています。

袋山
 稚武彦命はおばあさんが作ってくれたきび団子を持って女木島に出かけ,鬼を退治しました。

桃太郎神社
 鬼に勝った稚武彦命たちは,鬼が村人から奪った宝物を持って村に戻ってきました。

鬼ケ塚
 数日後,生き残っていた鬼たちが逆襲してきました。しかし,せり塚での戦いで稚武彦命が圧勝し,鬼たちの屍(しかばね)を土の下に埋めました。そこを鬼ケ塚と呼んでいます。

JR予讃線 鬼無駅
 その後,村には鬼がいなくなり平和を取り戻すことができたので,鬼と最後に戦った村を「鬼無」と呼ぶようになりました。
  
 熊野権現桃太郎神社(桃太郎神社)
 熊野権現が正しい名称です。
 戦勝を祈願した勝賀山の南,おじいさんが柴刈りをしていた袋山の山麓にあります。
稚武彦命が祭られています。
 
桃太郎神社には桃太郎と家来の墓があります。
おじいさんおばあさん,そして若い娘と桃太郎。稚武彦命対海賊との戦いとミックスされて物語が成立しています。
稚武彦命は実在の人物で,子の吉備武彦は,日本武尊の副将軍として東征に出かけて活躍しています。
  
桃太郎伝説発祥の地
奈良県磯城郡田原本町
 奈良県磯城郡田原本町には多くの史跡が点在しています。中でも唐子・鍵遺跡は弥生時代の大環濠集落です。現在も水田下に眠る遺跡の発掘調査が行われ,竪穴住居跡,環濠,青銅器の工房跡などが見つかっています。また,土器や石器も発見され,それらの中には楼閣などの絵が描かれたものもあります。楼閣の絵画土器をもとにして復元した楼閣が唐古池上に復元されています。また,出土遺物は唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されています。


唐子・鍵遺跡(田原本町)
 かつて,田原本町は桃の産地でした。ここに第7代孝霊天皇の宮である黒田廬戸宮 (くろだのいほどのみや)がありました。 吉備津彦命は孝霊天皇の皇子ですから,この宮で生まれ育ったと推測されます。そこで,この地を「桃太郎発祥の地」としました。
法楽寺の前
奈良県磯城郡田原本町黒田
 宮跡には聖徳太子の創建とされる法楽寺が建てられました。
法楽寺
孝霊神社
蘆戸(いおと)神社
祭神
孝霊天皇
  (大日本根子彦太瓊尊
   おおやまとねこひこふとにのみこと)
倭迹迹日百襲姫命
  (やまとととひももそひめのみこと)
彦五十狭彦命(吉備津彦命)
  
(ひこいさせりひこのみこと
  (きびつひこのみこと)-吉備を平定した後の呼び名
稚武彦命
  (わかたけひこのみこと)

 

孝霊神社
 「四道将軍の一人,彦五十狭芹彦命(吉備津彦)は朝廷から遣わされて西海を平らげ,その後,出雲振根を誅したと言う。」(「日本書紀」)
 また,「弟の若日子建と共に吉備を平定した。」「古事記」
 田原元町商工会による石碑より引用
 *若日子建は稚武彦命と同じ


愛知県犬山市・岐阜県東濃地域の桃太郎

国宝 犬山城
 日本の国宝4城の一つ,犬山城がある愛知県犬山市。この名前からも連想できるように,犬・猿・キジをともにして鬼退治に出かけた桃太郎の伝説が残っています。
 
 神体山でもある犬山市栗栖(くりす)にある桃山,子供の守り神として信仰されていて,子供の背丈の御幣(ごへい)を供えると元気な子に育つと言われていました。
三角の山が桃山

桃山の麓 栗栖神社(犬山市栗栖字大平)
 現在は桃山の麓に栗栖神社があり,祭神は「宇麻志麻知命(うましまぢのみこと)」です。
 桃山の麓,自然歩道の近くにある山神の石碑。ここで祭祀が行われました。
桃山の山神

 今も残るストーンサークル(環状列石)。祭祀が行われた磐座(いわくら)です。メンヒルと呼ばれるもので,山を信仰の対象とした遺跡です。
 桃太郎神社は飛騨木曽川国定公園内にあります。桃山から昭和5年にここに遷座されました。子供の守り神でもあります。
 桃は木曽川上流から流れてこの地に着きました。桃太郎は桃太郎神社の御祭神であり,その名を大神実命(おおかむづみのみこと)といいます

桃太郎神社(愛知県犬山市栗栖字古屋敷)

 桃太郎神社の境内には桃太郎の伝説にちなんだ像がたくさん置かれています。
 神社の由来が境内に掲示してあり,それによると,昔,天照大神の親神様「伊邪那枝命(いざなぎのみこと)が黄泉の国で悪魔に追われて難儀をしていたところ,比良坂という所でたくさんの桃の実を見つけ,桃を採って悪魔に投げつけたところ桃の持つ威力によって難を逃れたといいます。伊邪那枝命はこの桃に大神実命(おおかむづみのみこと)という名をつけ,これから後,人々が苦しむようなことがあったら助けてやってほしいと伝えました。後に鬼が出て村人たちが困っていると桃が桃太郎に生まれ変わり,鬼を退治して,幸せな村にしたといいます。
 
日本ライン桃太郎伝説 

お婆さんが洗濯をしていた岩
もとは木曽川河畔にありました
 昔々,粟栖(くりす)という村に子供のいない正直者のお爺さんとお婆さんが住んでいました。ある日のこと,お爺さんは山へ柴刈りに,お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが岩の上にしゃがんで洗濯していると川上から大きな桃が流れてきました。お爺さんと二人で食べようと思い,家に持ち帰ってお爺さんに見せると大変驚き,早速切ってみようということになりました
 桃を切ろうとすると,突然桃が割れて中から男の子が生まれ出てきたのです。驚いた二人は,きっと毎日神様に願っていたことが叶ったんだと思い,桃から生れたので桃太郎と名付けて大事に育てることにしました。
 お爺さんとお婆さんが住んでいたところは古屋敷といい,屋敷跡からは石臼が発見されています。
 桃は木曽川上流の大桃(だいとう)というところから流れてきました。大桃にはたくさんの桃の木が植えられていたといいます。

 桃太郎神社の西にある木曽川に日本ライン下りの桃太郎港があり,この辺りで桃を拾ったようです。

木曽川 桃太郎港付近
 桃太郎はやがて立派な若者に成長しました。
ある日,山道を歩いていると,子供を抱いて泣いている女達に出会います。どうして泣いているのかと尋ねると,鬼ケ島に住む鬼が村を荒しまわり,女や子供をさらって行ってしまうので逃げていると言うのです。桃太郎は村人たちを助けてやろうと思いました。
 桃太郎は鬼退治に出かける決心をしました。そして,そのことをお爺さんとお婆さんに話すと,賛成してくれました。

 出発の日,きびだんごをたくさん作って持たせてくれました。桃太郎はそのきびだんごを腰にぶらさげて家を出ました。「日本一」の小旗が風に揺れています。
桃太郎が出発するとすぐに犬が近寄ってきて家来にしてほしいと言います。桃太郎はこの犬にきびだんごを一つやって家来にしました。
 しばらく行と,今度はサルが現れました。桃太郎はこのサルも家来にし,きびだんごをやりました。
 桃太郎と犬とサルが木曽川づたいに上流へ向かって行くと,山から一匹のキジがやってきました。桃太郎はキジにもきびだんごをやって家来にしました。
 こうして,きび団子を食べた力強い家来たちを共にして桃太郎は鬼ヶ島を目指します。


 犬山市と木曽川をはさんで対岸が岐阜県となる。岐阜県加茂郡にはいくつかの興味深い地名がある。酒倉,坂祝,勝山,取組,助の山,今渡・・・・

日本ライン(木曽川)には奇岩がたくさんあって,鬼が隠れるには好都合
(この写真は山全体を撮すためにフィッシュアイレンズを使用しました)

岐阜県加茂郡坂祝町取組
取組
岩陰から突然鬼が現れ,桃太郎と取っ組み合いをして戦いました。

猿啄城跡(岐阜県加茂郡坂祝町勝山)
助の山
山仕事をしていた村人たちが助太刀をしました。

猿啄城跡(さるばみじょうし)
サルがかみついて戦ったという話を城主が城の名としました。

今渡(岐阜県可児市)
今渡(いまわたり)
桃太郎たちが乗った船が今,川を渡ったと見張り役の鬼が仲間に知らせたところです。

太田渡し跡(岐阜県美濃加茂市)
太田(おおた)の渡し
中山道の太田の渡しは川の流れが速く難所でした。太田橋が完成する昭和2年までここに渡し船がありましたが,今は中山道石畳道が残っています。桃太郎たちはこの近くを渡ったのでしょう。
 ここは「鬼が島」と呼ばれるところで可児川の中州になっています。ここは昔,盗賊が出没して村人たちからも恐れられていたところでもあるようです。
鬼は「もう悪いことはしません」と涙を流して命乞いをしました。

勝山(岐阜県加茂郡坂祝町勝山)
勝山(かつやま)
戦に勝って勝ちどきを上げた山の麓です。

(岐阜県加茂郡坂祝町酒倉)
酒倉(さかくら)
鬼を退治して戻ってきた桃太郎たち一行を村人たちは酒蔵を開いて歓迎しました。

坂祝(岐阜県加茂郡坂祝町)
坂祝(さかほぎ)
そして,祝宴を開きました。

岐阜県各務原市鵜沼宝積寺町
宝積寺(ほうしゃくじ)
持ち帰った宝を積んだところに,大勝山宝積寺ができましたが,この寺は坂祝に場所を変えました。もとあったところには地名として残っています。

宝積寺(岐阜県加茂郡坂祝町)

春里(岐阜県可児市)
春里(はるさと)
鬼ヶ島の近く,鬼がいなくなって春のようにのどかな日々が続きました。

サルやキジが帰って行った山
桃太郎は家来の犬,サル,キジにも宝物を分け与えました。犬は犬山へ,サルは猿洞(さるぼら)へ,キジは堆ケ棚(きじがたな)へと帰って行きました。
 この後,桃太郎はお爺さんお婆さんと暮らし,二人がやすらかに天寿を全うすると桃山に入っていき,姿をかくしてしまいました。もう村人は桃太郎の姿を二度と見る事はなかったのですが,桃太郎の隠れた山がだんだん桃のような形になってきたので,村人はやっと桃太郎が桃の神様の生まれかわりであったと気づきます。その後,この山を桃山(ももやま)と呼び,子供を守る神様として祠を作って祀りました。後に遷宮しようと言うことになり,場所を探していたところ,桃山からキジが飛び立ち,お爺さんとお婆さんの住んでいた古屋敷に降りました。それを見て,きっとこれは神様のお導きと考え,昭和5年に今の地に桃太郎神社をうつしました。
 桃太郎伝説が残る犬山には3世紀初めに造られた東之宮古墳があります。また,岐阜県各務原市や可児市,加茂郡にもいくつかの古墳が残っています。古代,大和政権が誕生し全国を支配し始めていたころ,この辺りでは強い支配力を持った首長の争いがあったのかもしれません。その戦いが桃太郎の伝説と重なってこの地に伝わっているのかもしれないのです。伝説とは実際に起こった何らかの出来事が形を変えて伝えられているものと考えています。伝説・伝承の中に真実の歴史もありです。
桃太郎神社(岐阜県加子母)

桃太郎神社(岐阜県中津川市加子母 旧岐阜県恵那郡加子母村)
 岐阜県中津川市内から付知を越え,国道256号を下呂に向け走ると加子母に至る。国道から西にはずれた山道沿いに桃太郎神社はある。案内にある由来を一部省略して原文のまま紹介しておきます。

桃太郎神社の由来
「昭和32年に当時名古屋市在住の丹羽主税氏(考古学研究家)が、徳川美術館の蔵書の中から文化・文政年間に、江戸初期のものを再編したと思われる古文書(濃飛旬行記)を発見し、その中を調べてみると「付知村の境に近いところの岩沼領なるところに桃太郎神社社あり」との話を、尾張藩士が当地百姓定石衛門なる者から聞き現地を確認したと在り、その原文を写しとり桃太郎神社発祥の地は加子母村であるとの後記をしたため何かに役たせてほしいと当村に届けられました。また件の尾張藩士の留書では図も入っており、さらに濃飛旬行記には、祠も絵入りで記されているとのことであります。 (中略) 当神社に鎮座ましますは、ご主神に『皇御姫孫命(すめみまたひめのみこと)』御側に『大鹿童子神(おおしかどうじのかみ)』であり、528年に祀られたと言うことであります。江戸時代の寛文・天明・享和の頃、本村においても多数の幼児が流行病で亡くなったという悲話があり、また当時の親が子どもの回復祈願にこの神社をお参りしたという伝承があります。この子どもの守り神が大鹿童子神で、桃次郎の由来であります。」
参考文献等
犬山桃太郎神社パンフレット
「お伽草子謎とき紀行」 神一行 KKベストセラーズ
「鬼の風土記」服部邦夫 青弓社
「桃太郎伝説 日本の昔話」関敬五 岩波書店
「日本昔話 100の話」 日本民話の会 国土社
「日本伝説大系」 渡辺昭五 みずうみ書房
「犬山市史」
「岡山県の歴史」河出書房新社
「愛知県の歴史」河出書房新社 
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