飛天
飛天の誕生
インド亜大陸

アレクサンドロス大王がインドに攻め込む100年はど前、紀元前5世紀にペルシャとギリシャの戦争の歴史を著したヘロドトスはインド人について、そこには数多くの種族が住み、その言語もことなっていて、一部は遊牧民だし、一部は川や沼地に住んで魚を獲って常食としている。等々、かなりくわしい記述を残し、当時インドがアケメネスペルシャの属州となっていて、税として莫大な砂金を納めていたことなども伝えている。

インド
図2


広大なインド亜大陸には大昔から様々な人種、様々な文化を持つ人々が生活してきたが、地中海周辺文化とのつながりは非常に古く深いものがあった。

紀元前4000年から紀元前2000年に栄えたインダス河流域のハラッパー、モヘンジョダロの遺跡で発見される遺物は、この文明がメソポタミア地方と共通する要素をもっていたことを教えてくれる。紀元前2000年紀のアーリア系の人々のインドの侵入は、イランの地域とこの土地とのつながりをさらに強いものとしたであろう。

アレクサンドロスが東方に攻めこんだ時、ペルシャの入口でまず戟を交えたのは、その地に住みついていたギリシャ系の傭兵だった、そしてインドにたどりついた頃には大王の軍団の大半はアケメネス帝国に含まれていた雑多な民族の混成軍となっていたという。このようないい伝えからも分るように、地中海とメソポタミア・イランの地域とは古くから様々な民族国家相互の戦いや、外交的な交渉、そして商人達の活動を通して、物や人の往来がさかんにおこなわれ、互いの文化に影響を与えあってきた。そして、仏陀の生まれるはるか以前からインドとインドの西側に広がる文明との交流は、陸上ではヒンドクシューの山脈を越え、海上はアラビア海の航路を通して続けられてきた。

時代はかなり下るが紀元前2世紀の後半、バクトリア出身のギリシャ系の王が、西北インドのシャーカラ(シアルコット)に都を置き広い領土を支配した。プリスタルコスの伝記にもインド王として名前があげられるメナンドロスで仏教興隆の礎をおいたといわれるアショーカ王のマウリヤ帝国の滅んだ後のことである。メナンドロスの王都シャーカラは、交易の中心地とし繁栄し「ギリシャ人の都市」と呼ばれたと伝えられる。王の肖像とギリシャ文字を刻んだ貨幣はカブールからマトゥーラに至る広い範囲で発見される。インド風にはミリンダ王と称されるこの王様と高僧ナーガセーナとの仏教の教義に関する哲学的な対話は「ミリンダ王の問い」、漢訳「那先比丘経」として今日に伝えられている。同時代頃のサーンチーの遣跡には碑文から、ギリシャ人の献納したことが分かる祠もあり、美術史の面のみでなく、思想的な面でもギリシャ人と仏教のかかわりが強かったことが伺われる。



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