飛天
中国の飛天

仏教がヒマラヤ山脈を越え、洛陽の都に伝わったのが後漢の永平2年(59AD.)。日本ではこの頃、倭奴国の使者を中国に遣わした。邪馬台国に女王が君臨するのは、その2世紀後のことである。後漢の明帝は、蔡音を西域に派遣し、仏典を求めた。まだ紙のなかった時代であるから経文は、竹簡や木簡に記すか、口承されたのであろう。インドで偶像がようやく作られ始めようとする頃である。

そして約300年の歳月が流れ、タクラマカン砂漠を越える僧達の姿があった。仏陀の教えが砂漠を渡ったのである。砂漠のところどころに現われる岩壁に洞窟が彫られ、修行の僧達はここで瞑想にふけったのであろう。石窟寺院のいくつかには、壁に漆喰や白土が塗られ、釈迦や菩薩の脇に供養者や飛天が描かれた。つまり、修業にふさわしい仏堂となったわけである。インド仏教の影響を受けた石窟寺院の最も古い姿は、西域のキジル、グムトラ、敦煌で見ることが出末る。なかでも、石窟壁画の変遷をもっとも良く、辿れるのは敦煌莫高窟である。敦煌を中心に仏の世界を翔来する飛天の姿の移り変わりを辿ってみよう。

北魏の飛天 隋の飛天
初唐の飛天 盛唐の飛天

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