飛天
朝鮮半島の飛天
統一新羅の飛天

雁鴨池出土金堂製板仏
図61 雁鴨池出土金堂製板仏


奉徳寺梵鐘
図62 奉徳寺梵鐘


南山塔谷魔崖仏
図63 南山塔谷魔崖仏


南山三稜渓魔崖仏
図64 南山三稜渓魔崖仏


金山寺舎利塔基壇
図65 金山寺舎利塔基壇


徳興里古墳
図66 徳興里古墳


新羅は6世紀前半、法興王の時、高句麗より仏教が伝わるが、この時代の飛天は残っていない。

新羅は7世紀後半、武烈王、文武王によって朝鮮半島(韓半島)を続一する。それを記念して文武王14年(674)「宮内に池を穿って山を造り、花や草を植え、奇獣を養う」とあるように雁鴨池と臨梅殿を作る。雁鴨池の池中の発掘によって、多くの仏像や仏具に混って飛大も出土した。小さな鋳造による板仏は三尊仏のまわりに、高さ10cm余りの、天上から舞い降りる飛天のメダルである。天上から降下するためU宇形の姿勢をする者、蓮華座上に坐り合唱する者などがある。天衣は、光背に大きな円弧を作り、両端を長く天上に吹き上げているなど、バラエティに富むが、こうした任品は唐代の大変革、そのまま影響を受けているとされよう。このメタルは三尊仏を中心に厨子や仏龕を飾ったものであろう。

また、統一新羅の梵鐘の表面にいくつかの飛天が描かれる。慶州上寺院の鐘は、聖徳王24年(725)鋳造されたもので、乳郭の下方に笙と箜篌(ハープ)を奏する飛天が陽刻されている。そのスタイルは膝を後におりまげ、宝冠をかむり、上半身は裸である。腕に臂釧、と腕釧をはめる。腰の裳は襞を細かく表現し、薄衣の感じをうまくかもし出している。天衣は上へ高く舞い上がり、唐代の飛天を彷佛させる。

慶州の博物館に入ると正面に有名なエミレの鐘がある。これは恵恭王6年(770)に完成した奉徳寺の大鐘のことで、口縁が八稜形をしている。周囲を四等分され、乳部の下方に各1体づつの飛天を配している。いづれも蓮華座の上に膝をそろえて坐り両手で香爐を棒げる姿である。雁鴨池の飛天坐像とよく似ている。ただ、ここでは宝冠をかむった顔を心持ち上げ、斜め上に本尊があることを伺わせる。天衣は背に大きな円を描き、さらに8流の天衣が天上にはためき、雲となって今天上から舞い降りてきた息づかいを見せている。

慶州の王城の南には標高500m近い南山が広がっている。この山は、三国時代以未、岩肌に仏像が彫り続けられた。今も全山におびただしい磨崖仏を残すが、うち2ケ所に飛天がある。東南山の中心にある塔谷では菩薩像の両脇に9層と7層の木塔のレリーフがあって天上に7体の飛天を細彫している。いづれもU字形で脚を上[ナ、顔は正面や横を向くものなどで様々である。天衣は大きく下に舞っている。

南山の南西には三陵渓の磨崖仏は、菩薩立像を本尊とし、供養の花を捧げる。両脇に蓮台の上に片膝を立てる飛天がいる。やや太った菩薩スタイルで、宝冠をつけ、裳布の感しを出している。

こうした石彫の飛天は全羅北道金堤郡の金山寺舎利塔基壇では雲上に飛天は坐り、両手を合わせる正面像で、Ω字形の天衣は盛唐の様相をよく示している。朝鮮半島の飛天は、初期において鳥などに乗る飛仙であり、天界をかけめぐる神仙思想の主人公の姿であったが、仏教と共に飛天も登場してきた。北魏的な飛天の姿は、顕著に見られずひょっとしたら南朝の飛天がそのまま姿を変えたのかも知れない。続一新羅になると、唐代の飛天が一気におしよせ、往時の仏教文化の盛期を偲ばせてくれる。


高句麗の飛天百済の飛天| 統一新羅の飛天|
|法隆寺金堂の壁画| 飛天の誕生| 中国の飛天| 朝鮮半島の飛天| 日本の飛天|
|日本の飛天資料| 法隆寺飛天ライブラリー| 法隆寺金堂小壁飛天配置図|


Expert Data Virtual Museum ASUKA HOME

|年表|索引|地図|

Copyright (c) 1995 ASUKA HISTORICAL MUSEUM All Rights Reserved.
Any request to kakiya@lint.ne.jp
Authoring: Yasuhito Kakiya