飛鳥の水時計 水落遺跡の漏刻

飛鳥の水時計飛鳥の水時計
水落遺跡の漏刻





中国の漏刻のばあい、漏壺から箭壺に水を移す出水管(漏管)は、一般に、壺が銅管ならば玉管を、壺が木製ならばサイフォンを用いる傾向にある。呂才の漏壺は木製で、銅製サイフォンが使われている。水落遺跡のばあい、基壇中央から見つかった漆塗の木箱とその北半に残っていた漆塗木箱のあと、さらには、木樋に取り付いていたラッパ状銅管の存在などから、そこに漏刻が置かれていたと考えられるにいたったのである。

当時の情勢を考えると、水落遺跡に設置された水時計は、呂才の漏刻そのものとはいかないまでも、それに近いものであったと思われる。最新式のものがもたらされていたならば、四段式漏壺になるが、あるいは、三段式漏壺であったかもしれない。いま仮に、水落遺跡に呂才の漏刻を置いたとしても、それはど不自然ではない。東から木樋を流れてきた水を桝で堰止め、ラッパ状鋼管を通して、一旦、地上に汲み上げる。そこから一番上の漏壺への給水は人力に頼ったのであろう。箭が上がりきると、箭壺にたまった水を漆塗の木箱へ一気に排水し、そこから、さらに、木樋を通して西へ流した。

中大兄皇子が漏刻を作ったことにより、それまで大まかに、時には経験的に決められていた時間の観念が、より細かいものになった。役人達の勤務時間も漏刻により決められたのであろう。人々に正確な時刻を知らせることもさることながら、むしろ、そちらの方に漏刻を作った目的があったのかもしれない。水を使った「からくり」を用いて、従来より正確な時刻がわかる。これは、人々にとって驚異的なことであったに違いない。その「からくり」を作ったのが中大兄皇子であった。彼は、漏刻を用いて時間を計ることを通して、人々の管理を目論んだのであろう。その意味において、彼の政治を推し進めていく上で、漏刻は重要な役割を果しており、漏刻製作は、官僚制度を整える象徴的なことといえよう。と同時に、天子が時を司るという思想もこの時に受けいれているのであろう。後の時代になるが、天皇が行幸する際にも漏刻を携行している。漏刻は天皇のシンボルのひとつでもあった。


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広州にある元代の漏刻


天智10年(671)、近江大津宮の新しい台*に漏刻が置かれた。『日本書紀』天智10年4月の記載をそのまま読めば、天智が皇大子の時製作した漏刻を新しい台*に置き、鐘と鼓で時刻を知らせたという意味にとれる。また、鐘鼓を鳴らすのに漏刻を用いた、すなわち、これは機械時計であるという別の解釈もありえないことではない。しかし、中国で機械時計が最初に作られたのが723年であることを考えると、あまり可能性があるようには思われない。

これより以前、天智2年(663)には、百済救援のため朝鮮半島に向かい、白村江で唐・新羅の連合軍と戦い破れた。以後、天智9年(670)までの間、『日本書紀』には、山城、水城の築造、修理の記載がみられる。その間、天智6年(667)には、飛鳥を離れ近江の大津に都を遷し、翌天智7年(668)には、斉明の死後、皇大子の地位にとどまったまま政治を行なってきた中大兄皇子が即位した。水落遺跡の漏刻は、近江遷都とともに飛鳥から近江へと移されたのであろうか。水落遺跡では、全ての柱が抜き取られており、残っていたのは、木樋、漆塗の木箱、銅管等であった。ラッパ状銅管も、木樋の蓋にしっかりとくい込んでいたためであろうか、途中で無理にへし析ったような状態であった。漏刻製作にあたって、最もむずかしいのは、漏壺の製作にある。弘仁2年(811)、大安寺の僧泰仙(阿牟公人足)が漏刻を作っ、外従五位下を授けられたが、実際に使ってみると、誤差が多くて用をなさなかったという有様である。近江へは漏壺と建物を運んだのであろうか。しかし、漏壺等を運んでいたのなら、いかに白村江での敗戦後のあわただしさがあったとはいえ、近江大津宮に遷都してから漏刻が置かれるまでに4年も経週している点が理解しにくい。4年という歳月は、あるいは、もう一度新しく漏刻を作り、それの調整に要した期間なのかもしれない。また、すでに述べたような漏刻製作の意図からしても、天智としては、飛鳥にはあるが、都である近江に漏刻がないということは、あってはならないことであったと思われる。水落遺跡の漏刻地設は、近江遷都に伴ない、天智によってその機能が停止させられたのかもしれない。ただ、水落遺跡では、天武朝の時期と考えられる柱穴等もみつかっているので、漏刻施設の廃絶は、天武朝の造作にかかわる可能性も残されている。

*img(だい・たい)が正しい

参考資料


漏 刻|水落遺跡の漏刻
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