飛鳥の水時計 漏刻

飛鳥の水時計飛鳥の水時計
漏 刻





中国では、実用かどうかは別として、紀元前から漏刻があった。そして、より正確な水時計をつくるために、様々な工夫、改良が行なわれた。中国における水時計の変遷、改良については、山田慶児「古代の水時計」(『自然』1983-3.4)に詳しい。それによると、実物として残っている前漢の例は、底に近い側面に出水管のついた銅製の壺で、壺内の水が滅ることによって、時間の目盛を刻んだ箭が下がる。しかし、これでは、水位が下がると水圧も滅るために出水量が滅少し、時計として遅れることになる。そこで、前漢末頃になると、箭を水を出す壺(漏壺)から別の壺に移し、上下の位置関係に置いた。上の漏壺から出た水を下の箭がはいった壺(箭壺)が受け、箭が上がるようになる。水時計の進化の中で、この沈箭漏から浮箭漏への変化は、その第一段階であった。

img
陝西省興平県出土の漏刻



img
内蒙古伊克昭盟出土の漏刻



img
広州にある元代の漏刻


ここで、水時計には、漏壺と刻箭という2つの要素のあることが明らかになり、また、漏壺の漏と刻箭の刻をとって、漏刻というようになった。しかし、それでも、漏壺の水位が下がれば箭壺へ流入する水量が滅る。そこで、上の壺に水が流出した分だけ補充してやれば、水位を一定に保つことができるので、その上にもう一つ壺を置くというように、その後の漏刻の進化は、漏壺を増やしていく方向に進む。二段式漏壺を最初に作ったのは、後漢の張衡で、2世紀初めのことであった。360年頃には、昔の孫棹が漏壺を三段式に改良し、唐代になると、呂才によって四段式漏壺が作られた。

呂才は、日本で最初の水時計が作られる少し前、7世紀前半、中国・唐の貞観年間(627一649年)に活躍した人で、彼の作った水時計の図が残されている。全部で5つの水槽から成るが、機能的には、上から夜天池、日天池、平壺、萬分壺と名づけられた4つの階段状に並んだ直方体の水槽(漏壺)と水海という円筒形の水槽(箭壺)とにわけられる。水海には人形がいて、その掌の中には一定間隔に時刻を刻んだ箭が通っている。それぞれの水槽は、サイフォン管によってつながれており、水は一番上の夜天池からサイフォン管を通り、日天池、平壺、萬分壺を経て水海に流入する。そして、水海の箭が浮上し、人形が指差すところによって時刻がわかる。ところで、夜天池から萬分壺までは、水海に流入する水量を常に一定にするためにある。箭が一定の速度で浮上するように萬分壺から水海への流入量を一定に保つためには、萬分壺の水圧、つまり、水面の高さを常に一走にすればよい。すなわち、萬分壺における入水量=出水量という関係を維持するために、中間水槽が必要となってくる。この中間水槽を設けることにより、夜天池に適当な間隔で水を補給すれば、水海の水位は、時間の経過とともに一定の速度で上昇し、その結果、箭が等速度で浮上する。また、サイフォン管を用いれば、水面が渡立って、水面高が不安定になるのを防ぐばかりでなく、水の流量も少なくてすむので、長い時間を計ることができる。

img
水時計の水位の変化

このグラフは、国立民族学博物館で作成された水時計のシミユレションフログラムをもとに、パラメータを右の値(単位cm)に設定して抽いたものである。

img
パイプの内径0.3cmごとに
上段の水槽に72リットル(20×3600)ずつ供給



上段 中段 下段 受水槽
台の高さ 100 70 40 0
水槽の水位 30 30 30 0
水槽の底面積 3600 3600 3600 5400
パイプの長さ 80 65 80 -

原理的には、これで時間が計れるわけであるが、実際に運用していくとなると、まだ、いくつかの問題が残されている。水に含まれる不純物は、サイフォン管がつまったり、その内径が小さくなったりする原因となり、それは、水時計が止まったり、遅れたりすることである。したがって、漏刻に用いる水は、ゴミのような浮遊物や砂などをできるだけ濾過したものが望ましい。また、水温が低くなると、流量が少なくなるので、水時計は遅れることになり、高ければその逆のことがおこる。『廷喜式』の「陰陽寮式」には、水を濾過するための紬曝布の記載がある。さらに、冬の間、漏刻の龍口(出水管)が凍らないように暖めるための炭のこともでており、10月から1月の4ケ月間で、1日l斗、合計12石を必要としている。にもかかわらす、延喜17年(917)には、漏刻の水が凍ったという記録が残っている。しかし、一年中四季を通じて水温を一定に保つことは、温度計や空調設備もない当時にあっては、はとんど不可能なことであったと思われる。

箭については、中国では、当初、24気に対して昼夜それぞれ各1本、計48本の箭があり、季節によって異なる昼夜の長短に応して用いたという。9世紀前半に成立した『今義解』にも、「昼漏盡」という記載がみられることから、日本でも昼夜で別の箭を使っていた可能性もある。また、当然のことながら、季節によって水温も違ってくるので、あるいは、それぞれの箭の目盛にその点も考慮されていたのかもしれない。

この漏刻を動かしていくには、何人ぐらいの人が必要になってくるのであろうか。『令義解』によれば、漏刻は、中務省陰陽寮の管轄になっている。陰陽寮には、頭、助、允、属の四等官のはか、陰陽師、陰陽博士、暦博士、天文博士と並んで漏刻博士がいる。漏刻博士の仕事は、その下に属する守辰丁を率いて、漏刻の箭を監視することにあり、守辰丁の仕事は、漏刻博士に従って漏刻の箭を監視し、決められた時刻に鼓または鐘で時刻を知らせることにあった。『延喜式』によれば、2時間おきには太鼓を打ち、その数は子・午の時にはそれぞれ9つ、丑・未の時には8つ、責・申の時には7つ、卯・酉の時には6つ、辰・戊の時には5つ、巳・玄の時には4つ、また、その間の30分ごとには、その刻数だけ鐘を撞くと決められていた。陰陽博士1人に村して陰陽生10人というような他と比べて、漏刻博士は2人おり、守辰丁も20人と2倍の人数になっているのも、24時間かそれに近い勤務体制をとる必要があったことと関係していると思われる。果して、夜中にも太鼓や鐘を撃ったのか、いささか疑問も残るが、清少納言の『枕草子』に「丑四ツ」の時奏のことが記されているのも、その勤務栽況を知る上での参考になるであろう。この時刻を知らせるというのが最も重要な役目であるが、このほか、時刻を記録したり、昼には日時計、夜には星を観察するなどして、水時計が正確に勤いているかどうかをチェックしなければならない。また、いずれは経験的に判るのであるが、最下段の漏壺の水面の高さを見て、最上段の漏壺に適宜給水しなければならない。さらに、水時計本体ばかりでなく、給水、排水に関する諸設備の保守管理といったものまでその役目に含まれてくるであろう。『延喜式』では、漏刻器を拭くのに帛を用いていることがわかる。このように、その役目が多岐に亘るのにもかかわらず、漏刻博士の地位は従七位下で、陰陽博士、天文博士の正七位下、暦博士の従七位上に比べてみても、それほど高くなかったようである。


漏 刻|水落遺跡の漏刻
発掘ライブラリー|水時計復元模型|飛鳥水時計の発掘|水落遺跡の建物|飛鳥の水時計
Expert Data 飛鳥時代年表 索引 飛鳥遺跡地図 資料館案内 ASUKA HOME



Copyright (c) 1995 ASUKA HISTORICAL MUSEUM All Rights Reserved.
Any request to kakiya@lint.ne.jp
Authoring: Yasuhito Kakiya [K@KID'S]