蘇我三代

蘇我氏の時代
権力をめぐる争い
第三の破局


629年舒明が死に、后の宝皇女が即位して大波乱をふくんだ皇極朝4年の幕が開く。この頃には病気がちの大臣・蝦夷はすでにひきこもりぎみで、政治の実権は入鹿に移ろうとしていた。皇極2年の「蘇我入鹿臣・・・古人大兄をたてて天皇とせむとす」という記事を見るまでもなく、本宗家がここで身内の古人皇子を天皇にして、立場を固めたいと望んでいたことは明白たろう。しかし、どういう事情からかその願いは実現しなかった。一族内の亀裂がさらに広がることを恐れた蝦夷が、古人擁立を見送った可能性も十分考えられる。間題の決着を棚上げする形で皇極が登位したものの、後継者をめぐる部族間の争いは、時が経つにつれますます複雑になっていく。

本人の意思はさておきこの時点では、山背大兄、古人大兄、中大兄と三人の有力な次期天皇候補がいる。皇極の弟・軽皇子も加えると四人ということになるが、単純に図式化してしまえば、蘇我の諸分家は山背を後援、蝦夷・入鹿は古人を推し、いままで脇役の地位の甘んじていた旧勢力代表の中臣氏は中大兄に将来を賭けようというところだ。

本宗家側は、思うに任せないことの成り行きに焦っていたのだろう。さしあたって、蝦夷・入鹿は権力を誇示する行動にでる。日本書紀皇極元年の条はこういっている。「大臣の子供の入鹿が国の政務を執って、その威令は父親を凌いでいた。そのため、盗賊は怖れをなし、道に落ちているものを拾おうともしなかった」と。また同じ年、蝦夷は葛城に祖先を祭る廟をつくり、中国の天子の特権とされる八併舞を奉納。さらに全国から大勢の人夫を徴集し、大々的に蝦夷・入鹿親子の寿陵の建設にかかる。こういった大デモンストレーションともいえそうな動きは、あまり評判が良くなかったらしい。

甘橿丘の家炎上(談山神社蔵「多武峯縁起」)
甘橿丘の家炎上
(談山神社蔵「多武峯縁起」)
やがて、天皇後継問題に決着をつけようと、入鹿は乾坤一槨、蘇我本宗家の伝統ともいえる武力行使に踏み切る。とうとう事態は第三の破局を迎え、急速に大団円・木宗家の終末へと動きはじめることになる。皇極3年(644)11月、入鹿は配下に命じて、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃ざせた。山背はいったんは家族を連れて宮殿を脱出し、生駒山中に難をのがれる。これに従った三輪君は、東国の領土に入って兵を集め入鹿を討とうと勧めるが、山背は戦闘を望まなかった。蘇我の諸分家がどういう対応をとるのか、情勢はひどく緊追していたのだろう。自ら出陣して山背大兄を殺そうとした入鹿は、古人のやたらに出歩くと危ないという忠告をきいて家に止まり、将軍たちを遣わして山背の行方を追わせる。山背大兄は結局斑鳩寺に戻り、入鹿の軍勢に包囲されると一族もろともに自殺する途を選ぷ。

おそらく、入鹿は時宣を待とうという蝦夷の方針に反して山背を攻撃している。蝦夷は山背大兄を殺しても間題は解決しないことを察知していたようで、ことの顛末を知って入鹿を愚かものと罵ったという。

かねてから情勢の分析を続けていた中大兄と中臣鎌子(鎌足)にして見れぱ、二つのことに気付かざるをえなかっただろう。一つは、蘇我諸分家と本宗家とは表立って鉾を交えこそしなかったものの、たいへん険悪なにらみ合いの状態にあるということ。

そしてもう一つは、中大兄がきわめて徴妙な立場に置かれたということだ。本人が天皇の地位を望もうと望むまいと、本宗家をこころよくく思わない勢力が中大兄を担ぎ出そうとするのは目に見えている。もし中大兄が本当に邪魔になるようなら、入鹿はどう動くだろうかこれまでの経緯をみれぱ、入鹿はいつでも最後の手段に訴える用意を整えていると考えておかねばなるまい。手をこまねいていれぱ殺される恐れがある。

馬子、蝦夷、入鹿の物語は、こうした状況に押し流されるように最後の幕を迎える。

軍勢同士の衝突では入鹿をうち倒すことは難しいかもしれない。しかし、強大な権威を握っていても、入鹿は朝廷内では孤立している。中大兄、中臣鎌子はひそかに入鹿の従兄弟・蘇我倉山田麻呂を味方にひきいれ、宮殿の中で無防備な入鹿を暗殺する計画を進めた。本宗家と敵対している蘇我の諸分家は入鹿の死を喜ぴこそすれ、複讐などの騒ぎをおこす気遣いはない。

皇極4年(645)6月、中大兄たちは、外国からの重要な便者が来たと偽って入鹿を飛鳥板蓋宮に呼ぴ出し、切り殺してしまう。蘇我氏全体の利権を代表する立場を、とうにほうりだしていた本宗家は、入鹿という跡継ぎを失ったとたんに、その優勢な武力を結集して守るべき何ものもない状態に直面したのだろう。蝦夷は抵抗をあきらめて自殺、本宗家はあっけなく滅亡してしまう。こうして飛鳥の臭雄・蘇我三代の時代はおわった。

入鹿の後ろ楯をなくした古人大兄は譲位の申し出を固辞、皇極の異母弟・軽皇子が即位して考徳天皇となり、皇太子の地位に座った中大兄が政治の主導権を握る。もちろん、考徳朝の右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の例、天智朝の左大臣になった馬子の孫にあたる蘇我赤兄の例をみても明らかなように、蘇我氏の諸家はまだ政府の要職を占め続ける。

しかし、天皇を凌ぐような力をふるって外交・内政そして文化の全ての動きを左右するという意味での「蘇我氏の時代」は入鹿の死で幕を閉じる。

中大兄ら入鹿を殺す(西国三十三所名所図絵)
中大兄ら入鹿を殺す
(西国三十三所名所図絵)


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