蘇我三代

蘇我氏の時代 まとめ


古墳時代の終りから飛鳥時代にかけての時期に、日本は一つの国家としての体裁を整えていく。わが国の社会の骨組みが、いわゆる日本風文化と呼ばれるようになる上着をまといはじめるのも、この時期のことと考えていいだろう。

日本の歴史が大きな転換期にさしかかり、新しい形をとろうとしていたこの時代に、国家の舵取り役として大活躍したのが蘇我氏だった。後代の日本文化に計り知れない影響を与えた仏教の導入に、蘇我氏が密接にかかわっていたことは言うまでもないだろう。6世紀の初め仏教はすでに渡来人を中心に信仰され、社会に根付こうとしていた。馬子はこれを国教とし、その最大の庇護者となる。建築・美術そして儀式など、仏教文化を集大成したお手本ともいえる大寺院も、蘇我氏の手で作られる。この島国に最初に建てられた本格的な寺院は、伽藍配置、規模、設計の精度などさまざまな面で、朝鮮半島各地の第一級の寺院に決して劣らないほどの完成度を持っていた。寺司には馬子の子供・善徳が任ぜられており、蘇我氏がこの寺院造営をいかに重要視していたかを窺い知ることができる。外国の最新技術・知識を総動員して作り上げられた飛鳥寺は、蘇我氏と朝鮮半島との強い繋がりとを示すと同時に、当時の日本が広い国際的視野を持ち合わせていたことを物語ってもいる。

石舞台と島庄(西国三十三所名所図絵)
石舞台と島庄(西国三十三所名所図絵)
蘇我氏が、かって大伴氏の掌握していた外交の分野でも異彩を放ったのは当然のことともいえる。百済、新羅、高句麗の複雑な関係、巨大な統一国家を完成してゆく中国、激動する国際情報を一早くつかむと言う点で、蘇我氏に匹敵する者はありえなかったろう。

推古朝には隋との交渉がはじまり、中国の文物が直接日本に入ってくるようになった。こうした積極的な外国への働きかけも、蘇我氏の関与なしに実現したものとは思われない。

推古8年(600)と同31年(623)には境部臣が、対新羅派遣軍の大将軍に任命されている。馬子は外交交渉や政策の決定に関わるだけではなく、実際の軍事行動の面にも蘇我一族を責任者として参加させている。

皇極元年(642)の「蘇我大臣、畝傍の家にして、百斉の翹岐等を喚ふ。云々」つまり、大臣が個入的に外国使節をもてなす、といった日本書紀の記事が示すように、蘇我氏は最後まで外交上の待別な権限を主張していたのだろう。もっとも、入鹿は三韓の使者が来たという嘘で宮殿におぴき出され、殺されたというから、最後には本宗家の絶対的な外交権も、実質を失い空洞化していたのかも知れない。

内政についても、蘇我氏は渡来人の能力の助けを借りて国家の実務制度の整備・改卒を進めていった。日木書紀の記事をざっと並べてみよう。

舒明16年(555)「蘇我大臣稲目宿禰・・・等を遣わして古備の五郡に屯倉をおかせた」「備前の児島郡に屯倉をおかせた」「倭国の高市郡に遣わして大身狭屯倉、小身狭屯倉をおかせた」「紀国に海部屯倉を置く」。舒明30年(569)「(渡来人・王辰爾の甥の)膽津を遣わして白猪屯倉の人民の戸籍を作り直した」。

敏達3年〈574)「蘇我馬子大臣を古備国に遣わして白猪屯倉を拡張させた。戸籍を膽津に管理させた。」

推古15年(607)「倭国に、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る。山背国の栗隈(宇治付近)に、大きな水路を掘る。河内国に、戸刈池・依網池を作る。亦、国毎に屯倉を置く。」

といったように、蘇我氏の主導のもとに、朝廷の経済的基盤となる屯倉が全国に置かれ、農業用水の建設などの国家事業がおこなわれている。また、この時代に国家税収の基本になる、戸籍の制度が整えられていったこともわかる。

さらに、推古12年の冠位十二階や、その翌年の聖徳太子の十七条の憲法に象徴的に現われてくるように、法律制度の体系も次第に整備される。その細部は、蘇我氏を中核とした渡来系の官僚グループの手によって定められていったにちがいない。

こうした国の土台となる機構ができ上がっていく中で、国の歴史を纏め記述しようという試みがはじまる。これこそ、徐々に形作られてきた日本という国家の国としての意識が、成熟期を迎えたまぎれもない証拠だろう。日本書紀、推古28年(620)の条は「聖徳太子と鳴大臣(馬子)が相談して天皇・国記・・・公民等の本記をしるす」と言う。その後、入鹿の死を知った蝦夷は、この歴史の草稿に人を放って自殺を図る。草稿は危うく炎の中から助け出されるのだが、どうしたわけか宮廷ではなく、甘橿丘の本宗家の邸宅に置かれていたのだ。そうなると、このはじめての日本の歴史は、見方によっては蘇我氏のものだったと言うこともできるのではないだろうか。



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