蘇我三代

蘇我氏の墓 欽明天皇の墓


馬子の姪にあたる推古天皇が即位すると、蘇我氏の権力はゆるぎないものとなっていく。推古20年(612)二月、用明・推古の母親・堅塩媛の遺骸が、夫である舒明天皇の墓に移される。この蘇我の女をことさらに天皇と同等に扱おうという改葬は、朝廷内での蘇我氏の絶対的な地位を天下に宣言する象徴的な企てだった。このとき軽の術(ちまた)で誄(しのびごと)が捧げられる。名目は天皇に対する祭儀の形をとってはいるが、一連の誄は中臣宮地(みやどころ)連が名代として述べる馬子の言葉、境部臣摩理勢が宣べる蘇我一族の系譜で締めくくられている。馬子の姉を主役とするこの儀式には一万五千種にのぼる祭器や喪服などの供物が用意されたという。

さらに、改葬の8年後には舒明陵を小石で覆い、諸豪族に命じて傍らにつくった土山の上に高い柱をたてさせるという、かなり派手な行事がとり行われる。王権と一体となった権威を世間に印象付けようという、馬子の駄目押しとも言うべき政策だったのだろう。

見瀬丸山古墳 石室
見瀬丸山古墳 石室
(宮内庁書陵部撮影)
現在のところ明日香村上平田にある前方後円墳・梅山塚が舒明天皇陵とされているが、この比定には疑問を持つ人も多い。むしろ全長310mと言う奈良県下最大の墳丘をもつ見瀬丸山古墳こそが、舒明陵に当たると考えたほうがいいのではないだろうか。

丸山古墳の内部については江戸時代の絵図、明治時代イギリス人のW.ゴーランドの調査報告などで、巨大な横穴式石室に二つの石棺が入っていることは知られていた。その後、陵墓参考地とされたため考古学的調査の手は及ばないままだったが、1991年になって、偶然参考地外側の穴から墓室に入った人が撮影した内部の写真が公表される。この写真をもとに石室・石棺の考古学上の検討がおこなわれ、コンピュータ画像解析による内部の詳しい計測が進められた。

そうしてこの古墳の石室は石舞台古墳のものをはるかにこえる大きなもので、石材にも石舞台の77トンといわれる天井石を凌ぐ重さ100トン以上もの巨右が使われていること、また石棺は奥にある方が新しく、もともと置かれていた石棺を脇に退けて二つ目を納めていることなどが明らかになってきた。見瀬丸山古墳が舒明陵にあたるという推測が正しいとすれば、蘇我氏は天皇の棺を移動して、一族の堅塩媛をこの地中の世界の主役に据えていることになる。桧隈坂合陵は大王墓として造られたが、蘇我氏の権力の絶項を示す大モニュメントの性格を併せ持つという見方も可能になってくる。

見瀬丸山古墳の石室
見瀬丸山古墳の石室
(書陵部紀要第45号より)


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