其の九-綏靖〜開化天皇-

綏靖天皇

神沼河耳の命は、葛城の高岡の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、師木の県主の祖先の、河俣毘売(かはまたびめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、師木津日子玉手見(しきつひこたまでみ)の命やな。天皇の御年は、四十五歳や。御陵は、衝田の丘にあるで。


安寧天皇

師木津日子玉手見の命は、片塩の浮穴の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、河俣比売の兄の県主、波延(はえ)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)の命や。次に大倭日子鋤友(おほやまとひこすきとも)の命(※1)や。次に、師木津日子(しきつひこ)の命や。この天皇の子供らの、合わせて三柱のうち、大倭日子鋤友の命は天下をお治めになったんや。

次に師木津日子の命の子には、二柱の子がおった。一柱の子、孫は伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先や。もう一柱の子、和知都美(わちつみ)の命は淡路の御井の宮においでになって、それで二柱の娘がおったんや。姉の名前は蝿伊呂泥(はへいろね)、またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)の命や。妹の名前は蝿伊呂杼(はへいろど)や。

天皇の御年は、四十九歳や。御陵は畝傍山のみほとにあるで。


懿徳天皇

大倭日子鋤友の命は、軽の境岡の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、師木の県主の祖先の、賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)の命、またの名は飯日比売(いひひひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)の命や。次に、多芸志比古(たぎしひこ)の命やで。それで、御真津日子訶恵志泥の命は天下をお治めになったんや。次に、多芸志比古の命は血沼の別、多遅麻の竹の別、葦井の稲置の祖先なんや。

天皇の御年は、四十五歳や。御陵は、畝傍山の真名子谷のほとりにあるんや。


孝昭天皇

御真津日子訶恵志泥の命は、葛城の掖上の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、尾張の連の祖先、奥津余曾(おきつよそ)の妹、名前は余曾多本毘売(よそたほびめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命や。次に大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくらおしひと)の命や。

そして、弟の帯日子国忍人の命は天下をお治めになったんや。兄の天押帯日子の命は、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壱比韋の臣、大坂の臣、阿那の臣、多紀の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶の臣、都怒山の臣、伊勢の飯高の君、壱師の君、近つ淡海の国の造の祖先なんや。

天皇の御年は、九十三歳や。御陵は、掖上の博多山のほとりにあるで。


孝安天皇

大倭帯日子国押人の命は、葛城の室の秋津嶋の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、姪忍鹿比売(めひおしかひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、大吉備諸進(おほきびもろすすみ)の命や。次に大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命。そして、大倭根子日子賦斗邇の命は天下をお治めになったんや。

天皇の御年は、百二十三歳や。御陵は、玉手の岡のほとりにあるんや。


孝霊天皇

大倭根子日子賦斗邇の命は、黒田の廬戸の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、十市の県主の祖先、大目(おほめ)の娘で、名前は細比売(くはしひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命やで。

また、春日の千々速真若比売(ちちはやまわかひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、千々速比売(ちちはやひめ)の命や。
また、意富夜麻登久邇阿礼比売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、夜麻登々母々曾毘売(やまととももそびめ)の命や。次に、日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命。次に比子伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)の命や。そのまたの名は、大吉備津日子(おほきびつひこ)の命やで。次に、倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)や。

また、その阿礼比売の命の妹の蝿伊呂杼を嫁はんにしてお生みになった子は、日子寤間(ひこさめま)の命や。次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命やで。この天皇の子供らは、合わせて八柱(男王五人、女王三人)や。そして、大倭根子日子国玖琉の命は天下をお治めになったんや。

大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命の二柱はそろって、針間の氷河の岬に忌瓮(いはひへ、甕のこと)を据えて、針間を道の入り口にして、吉備の国を平定したんや。
それで、大吉備津日子の命は吉備の上つ道の臣の祖先なんや。若日子建吉備津日子の命は、吉備の下つ道の臣と笠の臣の祖先や。次に、日子寤間の命は針間の牛鹿の臣の祖先や。日子刺肩別の命は、高志の利波の臣、豊国の国前の臣、五百原の君、角鹿の済の直の祖先なんや。

天皇の御年は、百六歳や。御陵は片岡の馬坂のほとりにあるんや。


孝元天皇

大倭根子日子国玖琉の命は、軽の堺原の宮においでになって、天下をお治めになったんやな。この天皇が、穂積の臣等の祖先、内色許男(うつしひこ)の命の妹の内色許男売(うつしこめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、大毘古(おほびこ)の命や。次に少名日子建猪心(すくなひこたけゐごころ)の命。次に若倭根子日子大毘々(わかやまとねこひこおほびび)の命や。

また、内色許男の命の娘、伊迦賀色許売(いかがしこめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、比古布都押之信(ひこふつおしのまこと)の命や。
また、河内の青玉(あおたま)の娘、名前は波邇夜須毘売(はにやすびめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、建波邇夜須毘古(たけはにやすびこ)の命やねん。この天皇の子供らは、合わせて五柱や。そして、若倭根子日子大毘々の命は、天下をお治めになったんや。

その兄の大毘古の命の子の、建沼河別(たけぬなかはわけ)の命は、阿倍の臣等の祖先やねん。次の比古伊那許士別(ひこいなこじわけ)の命は膳の臣の祖先や。

比古布都押之信の命が、尾張の連等の祖先の意富那毘(おほなび)の妹、葛城の高千那毘売(たかちなびめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、味師内の宿禰(うましうちのすくね)で山代の内の臣の祖先や。

また、木の国の造の祖先の宇豆比古(うづひこ)の妹の山下影日売(やましたかげひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、建内(たけうち)の宿禰や。
この建内の宿禰の子は、合わせて九人なんや。(男七人、女二人)
波多の八代(はたのやしろ)の宿禰は、波多の臣、林の臣、波美の臣、星川の臣、淡海の臣、長谷部の君の祖先や。
次に許勢の小柄(こせのをから)の宿禰は許勢の臣、雀部の臣、軽部の臣の祖先や。
次に蘇賀の石河(そがのいしかは)の宿禰は蘇我の臣、川辺の臣、田中の臣、高向の臣、小治田の臣、桜井の臣、岸田の臣等の祖先や。
次に平群の都久(へぐりのつく)の宿禰は平群の臣、佐和良の臣、馬の御杭(※2)の連等の祖先や。
次に木の角(きのつぬ)の宿禰は木の臣、都奴の臣、坂本の臣の祖先やねん。
次に久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
次に怒能伊呂比売(ののいろひめ)
次に葛城の長江の曾都毘古(そつびこ)は、玉手の臣、的の臣、生江の臣、阿芸那の臣等の祖先や。
また若子(わくご)の宿禰は江野間の臣の祖先なんや。

この天皇の御年は、五十七歳や。御陵は、釼の池の中の岡のほとりにあるんや。


開化天皇

若倭根子日子大毘々の命は、春日の伊耶河の宮においでになって、天下をお治めになったんやな。この天皇が、丹波の大県主で名前は由碁理(ゆごり)の娘、竹野比売(たかのひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、比古由牟須美(ひこゆむすみ)の命や。また庶母(ままはは)伊迦賀色許売の命を嫁はんにしてお生みになった子は、御真木入日子印恵(みまきいりひこいにゑ)の命や。次に御真津比売(みまつひめ)の命やな。

また、丸邇(わに)の臣の祖先、日子国意祁都(ひこくにおけつ)の命の妹、意祁都比売(おけつひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、日子坐(ひこいます)の王やな。
また、葛城の垂見(たるみ)の宿禰の娘、鷲比売(わしひめ)(※3)を嫁はんにしてお生みになった子は、建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)の王や。この天皇の子供らは、合わせて五柱や。(男王四人、女王一人)そして、御真木入日子印恵の命は天下をお治めになったんやで。

兄の比古由牟須美の命の子は、大筒木垂根(おほつつきたりね)の王、次に讃岐の垂根(たりね)の王や。この二柱の王の娘は五柱いてる。

次に、日子坐の王が山代の荏名津比売(えなつひめ)、またの名を苅幡戸弁(かりはたとべ)を嫁はんにしてお生みになった子は、大俣(おほまた)の王やで。次に小俣(をまた)の王、次に志夫美(しぶみ)の宿禰の王や。

また〔日子坐の王が〕春日の建国勝戸売(たけくにかつとめ)の娘で、名前は沙本の大闇見戸売(おほくらみとめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、沙本毘古(さほびこ)の王や。次に袁耶本(をざほ)の王。次は沙本毘売(さほびめ)の命や。またの名は佐波遅比売(さはぢひめ)や。この沙本毘売の命は、伊久米の天皇(垂仁)の后になったんやで。次には室毘古(むろびこ)の王や。

また〔日子坐の王が〕近つ淡海の御上の祝が奉る天之御影(あめのみかげ)の神さんの娘、息長の水依比売(みづよりひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、丹波の比古多々須美知能宇斯(ひこたたすみちのうし)の王や。次に水穂之真若(みづほのまわか)の王、次に神大根(かむおほね)の王や、そのまたの名は八瓜の入日子(やつりのいりひこ)の王やで。次に水穂の五百依比売(いほよりひめ)、次に御井津比売(みゐつひめ)や。

また〔日子坐の王が〕その母〔意祁都比売〕の妹の遠祁都比売(をけつひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、山代の大筒木の真若(やましろのおほつつきのまわか)の王や。次に比古意須(ひこおす)の王で、次に伊理泥(いりね)の王やねん。数え合わせて日子坐の王の子は合計十一の子や。

そして、兄の大俣の王の子は曙立(あけたつ)の王で、次に菟上(うなかみ)の王やな。
この曙立の王は、伊勢の品遅部の君、伊勢の佐那の造の祖先やねん。
菟上の王は、比売陀の君の祖先や。

小俣の王は当麻の勾の祖先や。
志夫美の宿禰の王は佐々の君の祖先や。
次に、沙本毘古の王は日下部の連、甲斐の国の造の祖先や。
次に、袁耶本の王は葛野の別、近つ淡海の蚊野の別の祖先やな。
次に、室毘古の王は若狭の耳の別の祖先や。

美知能宇志の王が、丹波の河上の摩須の郎女(ますのいらつめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、比婆須比売(ひばすひめ)の命や。次は真砥野比売(まとのひめ)の命、次に弟比売(おとひめ)の命、次は朝庭別(みかどわけ)の王や。
この朝庭別の王は、三川の穂の別の祖先や。

この美知能宇斯の弟、水穂の真若の王は近つ淡海の安の直の祖先やな。
次の神大根の王は三野の国の本巣の国の造、長幡部の連の祖先や。

次に、山代の大筒木の真若の王が、同母弟、伊理泥の王の娘の、丹波の阿治佐波毘売(あぢさはびめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、迦邇米雷(かにめいかづち)の王や。
この王が丹波の遠津臣(とほつおみ)の娘、名前は高材比売(たかきひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、息長の宿禰(おきながのすくね)の王や。

この王が葛城の高額比売(たかぬかひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、息長帯比売(おきながたらしひめ)の命や。次に虚空津比売(そらつひめ)の命で、次は息長日子(おきながひこ)の王や。この王は、吉備の品遅の君、針間の阿宗の君の祖先やで。

また、息長の宿禰の王が河俣の稲依毘売(いなよりびめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、大多牟坂(おほたむさか)の王や。これは多遅摩の国の造の祖先や。

上述した建豊波豆羅和気の王は、道守の臣、忍海部の造、御名部の造、稲羽の忍海部、丹波の竹野の別、依網の阿毘古等の祖先やで。

天皇の御年は、六十三歳や。御陵は、伊耶河の坂のほとりにあるんや。


(※1)大倭日子鋤友の命の「鋤」の字は、正確には「金」へんに「且」ですが、変換できないので常用漢字で表記しました
(※2)馬の御杭の「杭」の字は、正確には「木」へんに「職」のつくり部分ですが、変換できないので同意の漢字で表記しました
(※3)鷲比売の「鷲」の字は、正確には「氈」(せん)と同じへんに「鳥」ですが、変換できないので同読みの漢字で表記しました

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