其の十二-景行天皇T-

景行天皇

大帯日子淤斯呂和気の天皇は、纏向(まきむく)の日代の宮においでになって、天下をお治めになったんや。この天皇が、吉備の臣等の祖先の若建吉備津日子の娘、名前は針間の伊那毘能大郎女(いなびのおほいらつめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、櫛角別(くしつぬわけ)の王。次に大碓(おほうす)の命。次に小碓(をうす)の命や。そのまたの名は、倭男具那(やまとをぐな)の命やで。次に、倭根子(やまとねこ)の命や。次に、神櫛(かむくし)の王やな。

また、八尺の入日子の命の娘の、八坂之入日売(やさかのいりひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、若帯日子(わかたらしひこ)の命や。次に、五百木之入日子(いほきのいりひこ)の命。次に、押別(おしわけ)の命で、次は五百木之入日売(いほきのいりひめ)の命や。

また、〔天皇の〕妾の子は、豊戸別(とよとわけ)の王で、次に沼代(ぬのしろ)の郎女や。
また、妾の子は、沼名木(ぬなき)の郎女や。次に香余理比売(かごよりひめ)の命、次に若木之入日子(わかきのいりひこ)の王で、次に吉備の兄日子(えひこ)の王や。次に高木比売(たかきひめ)の命、次に弟比売(おとひめ)の命やで。

また、日向の美波迦斯毘売(みはかしびめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、豊国別(とよくにわけ)の王や。
また、伊那毘能大郎女の妹の、伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、真若(まわか)の王や、次に日子人之大兄(ひこひとのおほえ)の王や。

また、倭建の命の曾孫で、名前は須売伊呂の大中日子(すめいろのおほなかつひこ)の娘、訶具漏比売(かぐろひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、大枝(おほえ)の王や。

数え合わせて、この大帯日子の天皇の御子たちは、記録したのは二十一王、記さなかったのは五十九王、合計して八十王の中に、若帯日子の命と倭建の命、また五百之入日子の命、この三柱の王は太子の名を頂かれて、他の七十七王は、すべて国々の国の造、また和気、稲置、県主にお分けなさったんや。

さて、若帯日子の命は、天下をお治めになったんや。小碓の命は、あちこちの荒れすさぶ神、また従わない人等を平定なさったんや。
次に、櫛角別の王は、茨田の下の連等の祖先や。
大碓の命は、、守の君、大田の君、嶋田の君の祖先や。
次に、神櫛の王は、木の国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖先や。
次に、豊国別の王は日向の国の造の祖先や。


大碓命と小碓命

さて、天皇は三野の国の造の祖先、大根の王の娘で名前が兄比売(えひめ)弟比売(おとひめ)という二人の乙女を、その容姿が麗しいとお聞きになって確かめて、御子の大碓の命を〔娘のもとに〕遣わして、召し上げさせたんや。
ところが、遣わされた大碓の命は、召し上げんとそのまま自分勝手に二人の乙女と結婚してしもて、改めて違う女を捜し出して、うそついてその乙女〔兄比売・弟比売〕やと名付けてたてまつったんやな。

せやけど、天皇はそれが別の女やていうことをお知りになって、長いこと放ったらかしにして、また結婚もせぇへんで、辛い思いにさせたんや。

さて、大碓の命が兄比売を嫁はんにしてお生みになった子は、押黒之兄日子(おしぐろのえひこ)の王や。三野の宇泥須和気の祖先や。
また、弟比売を嫁はんにしてお生みになった子は、押黒の弟日子(おしぐろのおとひこ)の王や。牟宜都(むげつ)の君等の祖先や。

この〔景行天皇の〕時代に、田部(部民)を定めて、また東の安房の水門を定めて、また、膳の大伴部を定めて、また、倭の屯倉を定めて、また、坂手の池を作って、そして竹をその堤に植えたんや。

天皇は、小碓の命に
「なんで、お前の兄貴は朝夕のご飯に出てこんのや。お前一人で行って、ちゃんとねぎらって教えてきたれ」
と、こう仰せになってから後、五日になるまでやっぱり〔兄は〕出席せんかったんや。

そこで、天皇は小碓の命に聞いたんや。
「なんで、お前の兄貴は長いこと出てこんのや、もしかして、まだ言うたってないんか」

〔小碓の命は〕答え申し上げたんや。
「充分にねぎろうてやりましたよ」

〔天皇は〕また尋ねたんや。
「どないにねぎろうたんやねん」

「明け方にトイレに入ったときに、出てくるのを待ちうけてつかんで、手足をもぎとって、むしろに包んで投げ捨てました」


熊曾征伐

そこで、天皇はその御子の荒々しい心情を恐れて、
「西の方に熊曾建(くまそたける)が二人いてる。これは服従せぇへん、礼儀のないやつらや。せやから、そいつらを討ち殺せ」
と仰せになって、遣わしたんや。
このときに、〔小碓の命は〕髪を額で結うたんやな。

そうして、小碓の命は、その叔母の倭比売の命の衣裳をもらわれて、剣を持って懐に入れて出かけられたんやな。さて、熊曾健の家に到着してあたりをごらんになると、家の辺りには軍隊が三重に囲んで、周囲を塞いだ家を作って、そこにおったんや。ここに、新築の祝いの宴会をするっちゅうて騒いで、食べ物を準備しとったんや。それで、そのそばをぶらぶらと歩いて祝宴の日を待っとったんや。

そうして、その祝宴の日になって、童女の髪のように、その額の上に結った髪を垂らして、叔母からもらった衣裳を着て、すっかり童女の姿に変装して、女の中にまぎれ込んで、家の中に入ったんやで。

すると、、熊曾建兄弟二人がその乙女を見て、自分たちの間に座らせて、盛りあがって宴会したんや。
そこで、その真っ盛りも過ぎたときになって、懐から剣を出して、〔兄の〕熊曾の着物の襟をつかんで、剣を胸から刺し通したときに、弟の建は恐れて逃げ出したんや。
すぐさま〔弟建を〕追いかけて、その家のはしごの下に追い詰めて、背中の皮をつかんで、剣を尻から刺し通したんや。

そして、熊曾建が言うた。
「その刀を動かさんといてください。わし、言う事ありますねん」
そこで、しばらくその申し出を許して、押し伏せたままにしたんや。

「あんたは、どなたですか」
「わしは、纏向の日代の宮においでになる、日本国を領有支配される大帯日子淤斯呂和気の天皇の御子、名前は倭男具那の王や。貴様ら熊曾建二人、服従せんし礼儀もないて〔天皇が〕お聞きになって、『貴様らを討ち殺せ』て仰せになって、わしを遣わしたんや」

そこで、熊曾建が言うたんや。
「ほんま、そうやろな。西の方にわしら二人を除いて強いやつはおらん。せやけど、倭の国にはわしらに優って強い男はおったんやな。っちゅうわけで、わしは名前をやろう。これから後は、倭健の御子てほめ称えるで」

と、〔熊曾建が〕言い終わったので、熟した瓜を切るみたいに振り裂いて殺したんや。

それで、その時から名前をほめ称えて倭建(やまとたける)の命ていうんや。そうして、〔都へ〕帰り上るときに、山の神・河の神、また海峡の神さんを平定して上京なさったんや。


出雲征伐

そこで〔その途中で〕出雲の国にお入りになったんや。出雲建(いずもたける)を殺そうと思ってその家に到着するや、友達として友好を結んだんや。そして、密かにいちいの木で偽物の太刀に作って帯刀にして、一緒に肥の河で水浴びをしたんや。

そして、倭建の命は河から先にあがって、出雲健がはずして置いた刀を取ってつけて
「刀を換えよう」
て言うたんや。それで、後で出雲建は河からあがって、倭建の命の偽物の刀を腰につけたんや。それで、倭建の命は挑戦して
「さあ、試合をしよう」
て言うた。
そして、めいめいの刀を抜いたときに、出雲健は偽物の太刀やさかい、抜けなんだ。すかさず、倭建の命は太刀を抜いて出雲建を打ち殺したんや。
それで、〔倭建の命は〕歌をお読みになったんや。

やつめさす 出雲建が
佩ける刀 つづらさは巻き さみなしにあはれ

そうして、このように平定して〔都へ〕上京して復命なさったんや。


東国へ

さて、天皇はまた重ねて倭建の命に仰せになったんや。
「東の方、十二国の荒れすさぶ神、また服従しない者どもを従わせて平定せぇ」
て言うて、吉備の臣らの祖先、名前は御鋤友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を添えて遣わしたときに、ヒイラギの長い矛を授けられたんや。そうして、勅命を受けて出かけられたときに、伊勢の大御神の宮にお参りして、神さんの庭を礼拝して、そのまま叔母の倭比売の命に言うたんや。

「天皇は、わしなんか死んでしまえと思てるんか。なんで西の方の悪いやつらを討ちに遣わして、帰って上京してきた間、まだいくらも経ってないのに、軍隊もくれへんで、また東の十二国の悪者らを平定に遣わすんやろか。こないなことから考えたら、やっぱり、わしなんかほんまに死んでしまえ、て思てるんや」

と、泣き悲しんで退出されるときに、倭比売の命は草なぎの剣を授けられて、また御袋を授けられて、
「もし、火急のことがあったなら、この袋の口をあけなさい」
とおっしゃったんや。


尾張・相模

さて、尾張の国に着いて、尾張の国の造の祖先、美夜受比売(みやずひめ)の家に入ったんやな。すぐに〔比売と〕結婚しようと思ったんやけど、また〔都に〕帰り上るときにしようと思て、約束して東の国においでになって、ことごとく山河の荒ぶる神さんや、従わない人たちを服従させて、平定したんや。

そうして、相模の国に着いたときに、その国の造は嘘をついて申し上げたんや。
「この野原の中に大きな沼があります。この沼の中に住む神さんは、大変強暴な神さんです」

そこで、〔倭建の命は〕神さんを見に行こうと野原に入ったんやな。そして、その国の造は火を野原に放ったんや。それで〔倭建の命は〕だまされたと気づいて、叔母の倭比売の命の授けてくれた袋の口を開けて見てみると、火打ち石が中にあったんや。そこで、まず刀で草を刈りはらって、火打ち石で火を打ち出して、向かい火をつけて焼き退いて、脱出して、その国の造等を切り滅ぼして、その場で〔死体に〕火をつけて焼いたんや。
せやから、今は焼津ていうんやで。


弟橘比売

そこから東に入っていかれて、走水の海をお渡りになるときに、その渡し場の神さんが波を立てて、船を回したさかい、進んで渡ることができなんだ。

そこで、后の、名前は弟橘比売(おとたちばなひめ)の命は申し上げたんや。
「私が御子に代わって、海中に入りましょう。御子は、遣わされた任務を果たして、天皇に報告してください」

〔后が〕海に入ろうとするときに、菅の畳を幾重にも、皮の畳を幾重にも、絹の畳を幾重にも波の上に敷いて、その上に下り座られたんやな。

それで、その荒波は自然に静まって、船は進み渡れたんや。このとき、その后は歌われたんや。

さねさし 相模の小野に
燃ゆる火の 火中に立ちて 問わし君はも

そして、七日後に后の櫛が海辺に流れついたんや。それで、その櫛を拾って、御陵を作ってその中に収め置いたんや。


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