飛天
飛天の誕生
北魏の飛天キジル

キジル窟 魔訶薩垂本生
図30 キジル窟 魔訶薩垂本生


キジル窟 スタソーマ王本生
図31 キジル窟 スタソーマ王本生


炳霊寺169窟
図32 炳霊寺169窟


敦煌260窟
図33 敦煌260窟


敦煌で洞窟に飛天が舞い始めた頃、天山山脈の南にあるキジル・オルタンでもムザト河北岸に洞窟が開けられた。壁一面に描かれた壁画は、題材と画風はインド的なタッチをしていて、西域から伝播したルートを具体的に示しており、教煌石窟より占い開穿かも知れない。その代表的な38窟は、弧文で菱形に区画したカンバスに様々な仏伝を細密画のように描いている。その1つ、薩垂太子の投身慈悲図は、岸壁から飢えた虎の子のため、身をひるがえす太子の姿である。土半身は裸で裳が宙に舞い、天衣が翔飛の力を失い、落下する様子は太子が背を向けた一瞬を描いている。つまり墜落の飛天は初期壁画の中にその後、見せないポーズである。またスタソーマ王本生では、人肉を喰う班足王が天から舞い降り、スタソーマ王を襲っている。背に羽をつけ、腰に褌を巻き、左脚を伸ばし、右脚をまげる仕種は、飛仙や、飛天のモチーフそのものである。こうしたところに飛天のデザインがあったのであろう。

また別の場面では飛天が舞い降り、池中の供養物を受ける役をしている。真直ぐに降下する姿に動きはないが、細く茶色で顔、手足を詳細に表現し、裾は白で腰回りや、襞を作っている。

1903年5月11日、キジルを発掘した大谷探検隊の堀賢雄の日記によれば「今日午後に発掘した窟院は実に大きいもので壁土の墜落して堆積したものの高さ5フィート近く、これらの壁が完全であった時代には金色燦然であろう。四壁に天人羅漢像を飾り、ちょうど我国の仏寺の内陣の極彩色を思い起させる」とあって、日本人として初めてキジルの飛天に出会っている。

隆安3年(399)、法顕は経典を求めてインドヘ旅立つ、彼の歩いた甘粛省蘭州の砂漢には、仏洞が掘られ、後に柄霊寺と呼ばれた。

柄霊寺169窟では菩薩塑像光背に伎楽天が見える。茶色と黒で躰を描く、顔は長楕円、上半身は裸、裳の膝から下をくずす。天衣はM字形。またここには三尊の上に飛天が舞う。この飛天は茶色で下書きのデッサンをし、裾と天衣を彩色し、黒で一気に手早く輪郭を描いている。手に供物を持ち、天衣はΩ字形にする。

敦煌の天井で静正していた飛天が動き始める。教煌260窟で、洞窟内に中央に四角い柱状に石を残し、方柱の祭壇とする。ここでは正面の大寵に仏倚像と、その四隅に菩薩を配している。光背の両脇の飛天は躰姿がL字形となり、天衣と裾が誇張されだす。裾は腹の臍の位置で止まり、天衣は裾、忍冬唐草文を連想する形をし、色違いの襞を加える。仏衣の衣文のタッチである。天衣は頭の背で、M形になり、連弧状の衣文を強調す。

260窟の前室北壁の東端には、天蓋の両脇に頭を本尊に向け、ほぼ水平の姿勢で飛ぶ2体ずつの飛天がある。


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